埼玉県の高校の体育部は高校体育部連盟(通称高体連)を作っていて、その中に山岳部がある。各高校の山岳部・登山部・ワンゲル等が加盟している。その顧問が自分たちの力量を上げようということで、年に1・2回顧問講習会を開催していた。指導者はその顧問たちのなかの最古参の5・6名だった。最古参とは言うけれどまだ現役で、顧問講習会でも、雪山でスキーをつけて先頭に立ってラッセルをしていくような体力の持ち主でもあった。多分この方たちが埼玉県高体連山岳部を立ち上げたのではなかったかと今になって思う。私の高校時代にすでに山岳部の顧問となっていた吉川氏はこの指導者と同世代だったので、指導者のひとりになっていた。私が勝手に山の師匠と呼んでいる町田瑞穂氏も同じ世代だった。氏がもし埼玉県の高校教師になっていたら、この人たちの仲間になっていたのではないかと想像するのは楽しいことだ。
私はそれまで山が好きだと言っていても、技術的なことを学んだことはなかった。熊谷高校で山岳部の顧問となったことで顧問講習会に参加したことが、私の山に対する思いを大きく広げてくれた。もちろん技術的なことの広がりもあったが、その広がりがそのまま山への思いを育ててくれるものだった。
その講習会の中で印象に残るいくつかをここに残しておきたい。
1.冬の富士山雪上訓練
熊谷高校に転勤してきた年の冬、山岳部顧問の先輩吉川氏から富士山の雪上訓練に行こうと誘われた。12月だったと記憶している。五合目の佐藤小屋に泊まって2泊3日でしごかれた。雪上訓練とは言うが、厳冬期の富士の雪は私の抱いていた雪のイメージとは全く異なり、エビのしっぽが上を向いて凍り付いているという感じなのだ。その斜面でピッケルを抱えて滑落停止の訓練をする。背中を丸め、氷にアイゼンがひっかかってもういっぽうの足を傷つけないように両足を上げて、次の瞬間身体を反転させピッケルを氷の面に打ち込む。2回ほどはなんとか無事なのだが、3回目には厚手のヤッケやオーバーズボンも背中や尻がボロボロに穴が開いてしまう。帰宅して風呂に入ろうとして驚いた。背中があざだらけだった。突風が襲った時の三点支持や氷の斜面の登り下りもアイゼンとピッケルへの信頼感を育ててくれた。
後年、一人で雪山を逍遥することができたのはこの時の訓練があったからだ。まだあの時のように厳しくないという思いが何度も私を支えてくれた。
3日目訓練の全過程が終わって15名ほどの全員が佐藤小屋に降りてきて、周囲の山を眺めていた。その時リーダーの一人吉川氏が「ピークハンターの〇〇君にあの南アルプスの山を紹介してもらいましょう。」と提案した。〇〇君は照れながらも北岳から順に光⁽てかり)岳までよどみなく名を挙げていった。我々が感嘆の声を上げたのは言うまでもない。私の心には特に聖岳の白く輝く姿がいつまでも消えなかった。2年後熊高山岳部は南アルプスの縦走を挙行することとなる。
2.厳冬期の吾妻・安達太良スキーツアー 1969.2.9-11
〃 安達太良スキーツアー 1971.2.22‐24
〃 那須スキーツアー 1973.2.22‐24
安達太良、吾妻・一切経、を吹き抜ける季節風はすさまじい。吾妻連峰の家形山から五色沼を経て一切経の鞍部から樋沼畔に抜けたときなど、鎌沼から先は両手を横に広げて風を受けるだけでスキーはすいすいとシュカブラを切りながら進んだ。次第に暮れていく山で、道も見えない中を進む我々が一人の迷子も出さなかったのはさすがだったと思う。
この3回のスキーツアーは夜の交流会が何としても印象に残った。宿の人が作ったのだろうか、濁り酒(どぶろく)を飲み交わしながら、次第に議論が熱してくるのだ。リーダーたちは山仲間ではありながら(仲良し仲間でありながら)ぎりぎりのところで自分の主義主張の譲れないところをぶつけ合うのだった。ここで山を愛する人たちは権力と戦う強靭な姿勢を持っている人が多いことを知った。
最後には、権力側に入ろうとする人が論詰されて泣き出してしまうところまで行った。自分の行動に自分が責任を持たなければならない山への対し方の厳しさが現れたような風景ではあった。
3.先輩顧問のこと
私が熊谷高校に転勤して山岳部の顧問となった年、全国高校総合体育大会が埼玉県で開催された。各校登山部の顧問も総動員させられたようだったが、私が赴任した時にはすっかり準備が終わっていたので私は何のかかわりも持たないで済んでしまった。ただ同じ国語科の先輩に山岳部の顧問がおられて、奥秩父縦走コースを担当されていた。彼は山を歩く生徒たちに1位2位と順位をつけることに抵抗を感じて随分悩んでおられた。私も同じことを考えていたので全く共感してしまった。タイムレースにしてしまったら、子どもたちを危険に追いやってしまう。地形的に十分慎重に歩かなければいけないところもあるし、シャリバテにならぬようエネルギーはしっかり補給しなければいけない。山は順位付けとは相容れない世界だ。
私はこの先輩から山に関して以上に多くのことを教えていただいた。名を小山光善という。もう鬼籍に入ってしまわれた。「私など突き詰めていけばアナーキズムに行かざるを得ないと思うんです。」というのが忘れられない言葉だった
写真は小山氏と一緒に山岳部春山合宿で巻機山頂上まで1時間の白地平に幕営した時のもの。風よけのブロックを切り出して積んでいるところである。右端が私。小山氏が撮影。