2010.06.07 カモシカにみつめられて

梅雨に入る前の一日、またいつもの山にでかけた。昨年辿ったルートを逆方向からと思ったのが、少し甘かったようだ。そのかわり、もう二度と起こらないだろうと思われるような体験をした。それを記録に残しておきたい。
登山口は新緑のただ中だった。ミズナラの白みがかった緑は、いかにもこれから生命を燃やしていく予告のようで、その中を歩くと、息を吸い込むたびに生命の息吹が身体いっぱいになってくるように思える。
その林の下草の中に、レンゲツツジが咲き誇っている。私の好きな植生で、今年も会えたとうれしくなる花だ。登るにつれてそれが次第に蕾がちになり、やがて蕾だけになり、蕾さえまだ膨らまないところまで来ると、代わりにイワカガミが絢爛とした姿を見せ、なかなか道がはかどらない。
ところが、谷に入ってタラノメを見つけてうれしくなっているうちはよかったのだが、そのうち状況が一変した。昨年のまま、あるいは今年の新たな雪解けが伏流になったのだろうか、ルートが1~2メートル陥没していて、行く手が垂直な崖になってしまっているところが何箇所も現れてきたのだ。初めのうちは、高巻きをして登れたものの、ついに、両岸も切り立っていて、ずっと手前まで戻らないと高巻きできない場所に出てしまった。昨年逆コースを辿ったときは、かなり緊張し、構えていたのだが、今日は、そこまでの覚悟をしていない。ま、今日はここまででいいかと日和ってしまった。そのぶんゆっくりしていこうと、乾いた枯れ草の上に寝転んでビールを飲み、コーヒーを沸かしてサンドウィッチを頬張り、青空をバックにダケカンバの若葉が光るのを眺めて、それはそれなりに楽しい時間ではあった。
思いもよらぬことが起きたのは、そのすぐあと。さてと身を起こし、ガスカートリッジ、コッヘル等をザックに戻して、背負って歩き出したとたん、太くて短い、りっぱな独活が目に入った。思わず背負ったばかりのザックを下ろしてナイフを取り出そうとしたちょうどそのとき、後ろのブッシュが大きな音を立て、次の瞬間黒い影が飛び出してきたのだ。
「熊!」と恐怖に駆られてピッケルを手にしようとして、すぐ横を駆け抜けていく姿が目の隅に入ったら、それはカモシカだった。四、五メートル先のブッシュに飛び込んだカモシカは、こちらを向いて立ち止まっている。カモシカの寒立ちというのを聞いたことがあるが、まさかそれではあるまい。
じっとこちらを見ていたカモシカは、次にブッシュの中を横切って、さきほど私が横になっていた草地に出てた。そして、よく見てくれと言わんばかりに、全身をこちらにさらしたまま、またじっとこちらを見るのだ。その目つきはなんとも人懐かしそうで、思わずこっちへおいでと言いたくなるような優しいものだった。なんだか私はあんたを知っているよとでも言いたそうな目なのだ。近づきたくなる気持ちを抑えて、カメラを取り出し、何枚か撮ったのだが、それが終わるのを待ってとでもいうように、ゆっくりと谷を横切って消えていった。
私はしばらく呆然としてしまっていた。それから、こちらをまったく警戒していないあの目つきは何だったのだろうと考え始めて、はっとした。もしかして、何年か前に私の前に飛び出したあのカモシカだったのではないかという思いが湧いたのだ。
その日、雪の斜面をキックステップで登っていたときのこと。クロフと名づけた黒毛の柴犬と一緒だった。クロフとは、浅間山外輪山の名をとったものだ。そのころは、犬を山に入れると生態系が壊されるということまでまだ認識していなかった。山の楽しさを愛犬にも味わせたいという気持ちからよく連れて行った。もうすぐ稜線というところまで来たとき、いきなりクロフが激しく吠え始めた。はっとして辺りを見たとたん、ブッシュの中から何か大きなものが飛び出して、私の目の前1メートルのところを右から左へ走りすぎていった。あまりに近すぎてと言うか、速すぎて、何なのか確認もできないほどだった。ぴゅーぴゅーと言う鳴き声が耳に残った。びっくりした私の視線が、尾根を越えて消える瞬間のカモシカの姿を捉えた。
そのカモシカが私を覚えていたのではないか。私が心を許せる種類の人間であることを知っていたのではないか。そうでなければ、私をブッシュの中から見ていて、わざわざ跳びだしてきたりするだろうか。いやいやそんな人間くさいことはありえまいと否定するのだが、そうであってほしいという願望のほうが強くなるのを抑えられない。
それにしても不思議なのは、前回も今回も、飛び出してきて私の1メートル前を横切っている点だ。普通なら逆方向へ逃げるのが安全なのに、なぜだろう。何年か前、『ダンス ウイズ ウルヴズ』という映画をみた。アメリカ先住民を、ブルーソルジャーズが殺戮していく話なのだが、その中におおかみと主人公が心を通わせる話が出てくる。カモシカとの間にもありうるのではないかと、山を下りながらそんな思いが頭の中をいっぱいにして、なんだか次元の違う世界にいたような一日となった。忘れられない経験である。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: