私を山に向かわせたのは、路地を挟んだ向かいに住むM氏だった。本庄高校の山岳部を創ったのはM氏だったのではないか。私が高校1年生で心臓疾患を患い、ずっと天井を見て過ごしていたころ、よく来てくれて山の話などをしてくれた。その中でよく出てきたのが妙義山だった。ある日は、「今日妙義山に行ってきた。朝起きたら急に行きたくなって、おふくろに行っても慌てるだろうからせんべい一袋と水だけ持って行ってきた。」と言ってびっくりさせたこともある。山とは十分な準備をしていく必要があるというのが氏の態度だったから。自分の庭のような親しさだったのだろう。高卒後浪人中の氏は東北の山に籠って勉強をしたようで、そこへ行く姿を
ドラ息子蝸牛(かたつむり)ほど荷を背負い
などというおどけた句を葉書に書いて屆けてくれたこともあった。
そんな氏の影響で、私は妙義山に愛着をもつようになった。表妙義、裏妙義を登った中で一番強く残っているのが表妙義の尾根を踏破する縦走コースだった。始めは白雲岳の大の字までだったが、何度目か、そこから引き返すのが残念で、相馬岳へ進んだ。両側が切り立った断崖で、尾根伝いにしか進めない。岩の凹凸にしがみつくように攀じ登って進んだ。金銅山まで来て巻道も出てきた。石門や大砲岩まで来てやっと安心したことを覚えている。
結婚して妻を誘ったこともあった。かつての難所には鎖がついていてなんとかのぼれたが、相馬と金洞のコルに4・5名の若者が力尽きたように寝そべっていて、「もうすぐですよね。」という。まだなかなかですよと言うと、慌てたように「一緒に連れていってください。」という。彼らの足取りが重く、次第に夕暮が近くなり、轟岩の下まで来た時はもう真っ暗になっていた。とうにバスはなく、タクシーを呼んで、一台に重なり合って下仁田まで出た。そんな経験もした。のちにこのコースは上級コースだという表示がなされた。妻はよく頑張ったと思う。というより少々無謀だったかもしれない。
1995.11.11 裏妙義・谷急山
本庄07:15=三方境登山口08:30~45-三方境10:00~10-谷急山11:35~12:45-中木沢分岐点14:00~10-林道15:00-登山口15:30~45=おぎのや16:00~30-本庄17:30
私が本庄北高校に赴任した時は52歳になっていた。エネルギーを持て余していたようなグループに「登山愛好会を作らないか。」と誘ったところ本気になって応じてくれて、5名で立ち上げた。若い同僚が一緒に顧問となってくれた。その最初の山行に裏妙義を選んだ。丁須の頭についた時、彼等は切り落ちている崖に近附けず、丁須の根元に張り付いて動かなかったことを懐かしく思い出す。その後どうしても入部させてくれという女子が3名加わってにぎやかになった。
私が退職するとき最後に選んだのも裏妙義だった。あれだけ何度も訪れながら、私は谷急山を残していた。今回はその記録を残そう。うえの写真は谷急山への途中見た絶景だ。巨大な岩山を巨大な斧でスパッと断ち割ったような割れ目から表妙義の一部が見えた。すさまじい光景だった。2枚目は頂上から見た表妙義、本庄から見る妙義の裏側だ。振り返ると雪をかぶった浅間山が光っていた。