奥秩父というと三峯・雲取山くらいしか知らなかった私が、熊谷高校に来て驚いた。熊高山岳部にとって、奥秩父というのは自分たちの山なのだ。もちろん自分たちだけのなどという意味ではない。
例えば秩父農高など我々よりも地元意識は強い。夏休みのアルバイトに、三峰から雲取までのボッカがあるが、熊高生は一日2往復が普通なのだが、秩農高生は3回やると聞いて、たじろいだことがある。あるいは熊谷女子高登山部の部歌に「春浅き秩父嶺に」という言葉が出てくる。奥秩父は埼玉北部の人々の心の故郷なのだろう。
私は熊高山岳部顧問として14年間のうち4回雪の奥秩父縦走をやった。雪の八ヶ岳が同じく4回、鳳凰三山と巻機山が1回ずつである。奥秩父の縦走が最もきつい。鳳凰も縦走だが、距離や雪質が違う。
この記録は春山合宿でなく、その春山のための偵察山行である。積雪期の場合6泊7日かかるところを2泊3日で歩ける。
1980.10.04
熊谷12:27=高崎=小諸=信濃川上17:25/36=梓山18:10-幕営地⁽千曲川水源手前100m)
山への憧れの一つは、大河の水源に立つことだ。これまで利根川の源頭(大水上山)、黒部川源頭(雲の平)に立った。うれしかった。大きな流れのはるか彼方の源頭に思いをはせるというのは一つのロマンチシズムだ。現実を超えた世界への憧れは、ずっと私の心にある。
信濃川は⾧野県では千曲川と呼ばれる。小諸時代の藤村と千曲川は日本のロマンチシズムの源流でもある。その千曲水源が奥秩父甲武信岳直下にあることを知って⾧い間あこがれてきた。ただ、甲武信岳は熊谷の住人やチチビアンにとっては荒川を遡って二瀬ダムの奥、川又から尾根に取り付き、雁坂峠に出て甲武信へというのが一般的だ。もうひとつ、白泰山コースから十文字峠へというコースもあるが、これはあまりに⾧い。普段は下りに使う。この二つはともに埼玉県側からのアプローチだ。ほかに雲取山から縦走してきて甲武信へというコースもあるが、帰るとなると秩父側に降りるのが普通。
そうなると甲武信頂上直下といっても信濃川にある水源へ下ることはなかなかチャンスがない。
そこへ今回春山偵察山行のチャンスが来た。今度の春山は金峰山から甲武信岳・雁坂峠をやろう、そう決めた。春山合宿では国師ケ岳から甲武信ケ岳は稜線上を通ってしまうので、千曲水源に降りる時間がない。千曲水源から入ろう。調べてみると、甲武信へのルートは信濃川上からが一番短く楽に入れる。秩父側からばかり考えるのに慣れていた私にとって新しい発見だった。期待が膨らんだ。
土曜日なので小海線を信濃川上で降りバスで終点の梓山につくともう18時を回っていた。ライトをつけて千曲源頭近くまで歩く。19時半をまわっていた。笹原が広がっているところに来たのでテントを張る。明るければ幕営禁止で張れないところだろう。
1980.10.05
幕営地06:30ー千曲川源頭-甲武信稜線10:50/11:35ー国師岳17:40/18:05ー大弛小屋18:30(幕営)
憧れの千曲源頭は短い草の生えた湿地となっていて感動的な情景が待っていた。草地の中に直径5cmほどの穴が開いていてそこから清冽な水が静かにしかも豊かに湧き出しているのだ。誰も見る者がいなくても水は自分の命を生きている。私は言葉もなく立ち尽くしてしばらく動けなかった。
その日は⾧かった。12時間12時間行動となった。その間私の心は千曲水源の黒い穴から湧き出る清冽な水のイメージに満たされていた。
1980.10.06
大弛小屋幕営地05:30ー朝日岳06:30/40-金峰山07:30/45ー金峰山小屋ー⁽尾根)ー西股沢ー川端下-秋山12:00/13:00=信濃川上14:30=小諸17:40=高崎=本庄19:15
金峰山の五丈岩はなつかしい。遠くの山から眺めたときに手掛かりになるのはこの岩だ。最近見たのは黒斑山の登山口車坂峠だったろうか。双眼鏡が稜線にぽつんとちいさく見える点をとらえたとき、ああ五丈岩だと旧友に会えたような喜びを覚えた。奥秩父は私のふるさとだと再確認した気分。普段浅間や赤城に抱く思いと同じだったのは、熊谷高校山岳部の山だという潜在意識があったからだろうと思う。
ここでもう一つ、柳田国男の「峠に関する二三の考察」に触れておきたい。
柳田国男は峠には一つのパターンがあるという。それは表と裏があるということ。
表口と云ふのは登りに開いた路で、裏口と云ふのは降りに開いた路である。初めて山越えを企てる者は、眼界の展開すべき相応の高さに達するまでは、川筋に離れては路に迷ふが故に、できるだけ其岸を行くわけであるが、いざ此から下りとなれば、麓の平地に目標をつけておいて、それを見ながら降りる方が便である。
せっかく分水線の最低部に到達しておきながら、更に尾根づたひに高みに上がったうえで始めて降路を求めるものもある。即ち鞍部では十分に見通しのつかぬところから、わざわざ骨を折って乾いた小路を捜すのである。
これを読んだとき、柳田国男は奥秩父の峠を頭に置いてい書いたのではないかと思われたものだ。とくに二つ目の引用など雁坂峠そのものではないかといえる。今は雁坂峠から直接沢を下る道はあるのだが、これは旅人向きの道ではない。一度甲武信まで上がって突出し(つんだし)峠を超えて川又に降りるのが普通だ。柳田国男の言うとおりだ。そしてさらに、
同じ峠路の彼方此方でも、まづ往来を開きかけたアクチーフの側と、之を受け之を利用したるパッシーフの側とは分明であって、少なくとも初期の経済事情を知ることができるのである。
とまで言われると、甲斐側や信州側から秩父へ向かう人が開いたのが奥秩父の峠だということになる。路が山行のためのものでなく、交易する人々が行きかう道となって見えてくる。人々は何を求めて秩父を目指したのだろうか。武田信玄が荒川源頭から稜線にかけて鉱山を開き、そのための宿場までできたという記事を読んだことがある。あるいは日本書紀の伝説に、ヤマトタケルが甲斐から碓氷峠へ越えたことが記されており、そのルートが雁坂・秩父(武甲山・両神山)・上里・上州武尊山・碓氷峠と考えられることも峠を越える話として考えるとおもしろい。
話はどんどん広がってしまうのだが、熊高山岳部の愛した奥秩父とその峠について、これからも新しい発見があるかもしれないと思うのは楽しいことだ。