1972.08.03
すでに半世紀以上昔の話だが、私は中学時代の社会科で日本地図、世界地図を描くのが好きだった。日本の地形図で平野と山岳を塗り分け、名称を書き込んでいく――それはまだ見ぬ世界へのあこがれを私の心の中に育てたのかもしれない。北海道の中央を背骨のように走る大雪山系・日高山脈もそのひとつだった。
特に『日本百名山』で
私が旭岳の頂上に立った日は絶好の秋晴れで、大雪・十勝・石狩の連山はもちろん指呼の中にあり、遠く、阿寒・知床や、天塩や、夕張や、増毛や、北海道の主
な山をほとんど眺めることができた。(大雪山)
トムラウシを眺めて初めて撃たれたのは十勝岳からであった。美瑛富士の頂上から北を見ると、尾根の長いオプタテㇱケの手前に、ひときわ高く、荒々しい岩峰
を牛の角のようにもたげたダイナミックな山がある。それがトムラウシであった。それは私の心を強く捕らえた。あれに登らねばならぬ。私はそう決心した。
(トムラウシ)
と書いた深田久弥の文章は私の頭に残って、とくに「あれに登らねばならぬ」の一句は其の後の私を多くの山へ誘う言葉となった。
この北海道の山を選ぶにあたって、一人で心細かった私は、同じ山岳部の顧問の新井氏に同行を打診した。氏は快く応じてくれこの山行が実現した。なおこの年私は合計40日間山に入り、生涯もっとも多く山とともに暮らした年となった。
1972.08.04
タクシーの中から黄の花が夕闇の中に浮かぶ。未だ旅情なし。あったとすれば連絡船より見た下北半島の姿。旭岳ロープウエイ乗り場横の天場にテントを張る。
1972.08.05
ロープウエイで初めて目に触れる高山植物の群落。エゾコザクラの濃いピンクが美しい。姿見の池で旭岳を眺め、頂上を踏んで、白雲岳へ。トラバースルートから頂上へピストン。14:15から15:15。20分で白雲石室の天場着。
15:30 200m下の沢にヒグマ出現。石室に北大ヒグマ研究班のメンバーが滞在していて、彼らに危険なので小屋に入るようにと言われテントを撤収する。駆け上がってくればこのテントサイトまで2・3分だとのこと。ヒグマは雪渓を渡りハイマツの中へ。また出てきてコバイケイソウ、エゾフウロを食べつつ約2時間。両肩に白く光る毛を持つ熊で、3歳熊ならんとのこと。
1972.08.06
激しい雨と風。雨は10時ころまで。停滞日としせめて松浦岳までと出かける。吹き飛ばされそうになりながら辿る。13:00忠別小屋まで行くと出発する人あり。
1972.08.07
風は依然と激しく、その中を出発する。高根が原は素晴らしい散策道だ。切り立った断崖の縁に沿って歩く。吹きちぎられ痛めつけられたコマクサをよけつつ歩く。所々に池塘がある。昨日無理して出なくてよかった。
忠別岳頂上手前で休憩。こんな場所を家族で一日遊びたい。妻も息子もまだ知らぬ世界だ。ガンコウランの白い花がいとおしい。
忠別の頂上に立った途端、目の下に一面緑の草原が広がり、中央に深い青の沼が輝く。忠別沼だ。其のほとりを素通りするに忍びず休憩。レモンの味、忘れられず。空が青い。水が青い。快適に歩く。
五色を過ぎればハイマツ帯。ヒグマの心配をしつつ鈴を足に付け、ひたすら歩いて化雲岳に12:35着。15分休憩。13:50ひさご沼へ。
ひさご沼。夕暮の中にキスゲが夢のごとく浮かぶ。
1972.08.08
05:40発。白雲小屋の出発の朝初めて見た憧れのトムラウシ。昨日は遠く霞んでいたが、宝冠のように見える頂きは、近づけば岩山だった。08:45山頂に立つ。周囲に溶けきれない雪が青白く水に浸る沼を持った素晴らしい山だ。特に頂上を過ぎたところに雪渓を浸して静まり返っていた水の青さは忘れられない。至福の時間が流れる。訪れてよかった。
そこからのんびり下り、右手に黄金原と五万図に書かれた広大なハイマツ帯を見ながら、スマヌプリを12:45通過。さらにコスマヌプリというアイヌ語でどんな意味なのか分からぬながら心惹かれる丘のような頂を経て、17:00トムラウシとオプタテシケの中間地点双子沼を過ぎたところで幕営する。おもしろいのは五万図ではこのあたり4・5キロにわたってオプタテㇱケ山という表示が書かれていることだ。オプタテㇱケ山というのは広大な山塊なのだろうか。
ハイマツと草原の混在する場所は辺りに人影は全くなく、小雨の中今にもヒグマが出てきそう。トランジスタラジオを取り出し、ボリュームを最大にして眠りにつく。
1972.08.09
07:50出発。とがった槍のようなオプタテシケを目指す。一面の乳白色の中に沈んでいた二子沼が、少し登ると目の下に白く光って見える。ひどい道ではある。ただ、今日の登りは確かに厳しいが、ぐんぐん高度を稼げるのは楽しい。途中20分の休みを入れてなんと1時間20分でこちらのピークに立った。
5時間半のコースタイムなのにとしばらく半信半疑。喜びはその後に来た。辿ってきた大雪の山々が大きい。ここからは十勝の山に入る。大雪よさよなら。美瑛の登りは新井氏が先に立った。14:10頂上に立った新井氏の歓声が私には他人ごとに聞こえる。私は美瑛の赤い溶岩の固まった非生命的な光景になじめないのだ。
14:50美瑛と十勝岳とのコルでビバークと決める。緑のない非生命的な世界だ。
1972.08.10
06:00発。苦しい礫の道を一気に登って十勝岳へ。0
07:00頂上へ。ここも好きになれぬ山だ。2時間コースを1時間で歩く。鋭くとがって聳える十勝岳は、昨日ガスの中に霞んで眺めた姿よりあっけなく踏破された。
そのまま上ホロカメットクから富良野岳へとの計画を断念する。噴火の爆発音の頻発に不安となったのだ。もしかすると自衛隊の演習場か何かあるのだろうか。また、ガスにまかれたこともあって、08:00トラバースルートを取るべく引き返す。新噴火口の噴煙は猛烈だった。命がけといった気持ちで噴煙のルートに突っ込みかすかに判別できる礫の道を走り下る。新井氏のせき込む声が後方に聞こえたが振り返るゆとりなし。10:35望岳台で一息つく。新井氏も無事だ。そのまま白銀温泉へ。白銀温泉ホテルで入浴。一つの大きな山行が終った。その余韻が温泉の湯のひびきにこもる。
小樽付近の車窓からの夕焼けが旅の終わりを飾ってくれた。明日は家に着く。息子を抱き上げよう。