2003.02.01 なつかしい仲間と浅間隠山

浅間隠山という名を記憶にとどめたのはもう半世紀以上も昔のことだ。熊谷高校国語科は年に一度旅行に出かけることを常としていた。K先輩が音頭を取ってくれた。人のあまり行かないひなびた温泉をよく見つけてくれた。その一つが浅間隠山の北にある薬師温泉で、爽やかな谷川のほとりにあるいい温泉宿だった。浅間隠しとはどういう意味か。浅間という名峰を隠してしまう山なのか、火砕流などの恐ろしい災厄を遮ってくれる山なのか。その地に生きた人たちの思いは、休養に出かける我々の感覚と隔たっていることもあるのではないか、そんなことを考えたまま何年も過ぎて、或る年一人で二度上峠から登ってみた。二度上峠なんて名前もおもしろい。
浅間隠山は本庄から見ると屹立した円錐形に見えて斜度が大きく見えるのだが、実際にはなだらかな山だった。1757mの頂上から見る三六〇度の大展望がうれしくて、その後何人もの人たちを案内した。孫娘は目の下に広がる雲海に歓声を上げた。本庄北高PTAOBも感銘が深かったのか、記念写真をCDのジャケットに飾ってくれた。
 

 

 豪華な写真集を作ってくれた友もいる。中学時代の同級生グループが雪山に行きたいという。浅間隠山であれば安全だと4人で出かけた(2002.2.1)。常念岳や宮之浦岳へ同行した一人は私が写真は後ろ姿が雰囲気があっていいと言ったことを覚えていて、いい写真集を作ってくれた。そのカバーとなった写真は私が気に入っているもののひとつである。向かいの山は角落山と剣の峰。

2003.02.01
本庄7:35=二度上峠9:20~30ー頂上12:10~13:25ー登山口14:50~15:05=亀沢温泉15:30~16:40=本庄18:20
倉渕の部落を過ぎて道の両側に雪。予想が甘かったと述懐する男も。登山口で気温―5℃、快晴谷川岳方面に雪雲あり。積雪30㎝。ただしトレースがしっかりついていてラッセルなし。尾根に出て浅間隠しのへの登り口までの間、風の通り道あり。登りに入って間もなく私はワカンヲ装着。他の3人も簡易アイゼンをつける。ただ、新雪が深くアイゼンは爪が効かない。無風状態の中汗をかいて登る。稜線へ出るとブッシュの上に空の青さが濃い。夏道90分のコースを約3時間かかって頂上へ。雄大なパノラマが我々を待っていた。目の前に大きく浅間、噴煙がやや多い。南の雲の上に赤岳から天狗岳までの八ヶ岳。その左に金峰から甲武信・雁坂嶺までの奥秩父。その間から富士。浅間の右には黒斑の絶壁、さらに右へ四阿山。来る前、頂上は雪は風で飛ばされているのではないかとの予想は外れ、1mを越える積雪。頂上で雪を踏んで固めて昼食をとる。ビールが美味、コーヒーも。下りはワカンが快適。足がつって尻セードで下った一人もいた。楽しい一日となった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2023 あとがき

振り返るとながいながい道のりであった。奇跡的に山の事故で命を奪われることを逃れたことのみならず、身体もよく危機を乗り越えてくれたという思いが湧き上がってくる。私は10代の半ばで心臓を病み、医師から「君の人生は40年だよ」と宣告された。それが私の人生観の原点になっておかしくないのだが、その後私は体力的にかなり自信をつけていくことができ、その宣告を忘れるようにさえなっていった。山がそれを保証してくれたように思う。
私が山を専門にし始めたのは20代半ばで、熊谷高校で山岳部の顧問となったことからであった。夏山で40キロ、冬山では60キロの荷を背負って歩くことが体の自信をつけてくれた。それは山に対してのみならず、生きる姿勢も支えてくれたような気がする。慢心してはいけない、傲岸になってはいけない、そう意識しながらも、自分の中の弱さを越えようと努めてきた。みずからのなかの繊細さやナイーブな心を失うことなく、社会的な不正義に対峙する姿勢も失わないこと、それは難しいことではありながら、今でも自分の生き方として持ち続けようと志している。それを作ってきたのが山から教えられたことだったと今思う。
なんだか自己賛美のニュアンスが出てきてしまう。今はやりの自分史が多く自己肯定・自己賛美に終わっているといわれる。この文章に、あるいはこの書にそんな色がついたらそれは私の意図するところではない。むしろ私の晩年は逆に失意の中にいるのである。
熊谷高校山岳部の顧問は5名いた。一人は40台で椎間板ヘルニアの手術を受けておられる。氏は「のみでコンコンとたたいて削る、それが痛いんですよ」と語られた。後二人も同じくヘルニア。残った二人は脊柱管狭窄症だ。3人は退職するころから。私は70歳になった時。
現役時代、私は腰痛になやまされることはなかった。トレーニングの成果と思っていた。それは思い上がりだった。70歳になった年、左下肢大腿骨部分に痛みが生じ、それが甚だしくなって、ついに10歩行くとしゃがみ込んでしまうようになり、医師から間欠跛行と診断された。そのとき、私は「なんで?」とびっくりするより、ああ私もとむしろ納得してしまったのだ。重い荷を背負い腰を曲げて長時間歩く、しかも何日も。それが何年も続けば・・ これはヤマヤ(山屋)の宿命なのだ、今日まで無事に来られたことがむしろ僥倖だったのだ、今そんなふうに思っている。(幸い、その頃から山グッズが著しく軽量化されてきて、いまは私たちのような目に合わずに済むようになってきたようだ。)
納得したといっても、現実には情けない思いでいっぱいの毎日である。ウオーキングに出ても若いおばさんに「こんにちわ」と挨拶されて追い抜かれてしまう。歩くことで負けたことはないのにと落ち込んでしまう。脚立に上るにもどこか手を置かないと安心できない。登山靴を履いたまま片足屈伸できたのにと悔しくて仕方ない。そしてその都度、お前はまだかつての栄光(ひとりよがりの)にしがみついているのかという自己嫌悪に襲われてしまう。もっと泰然と今ある状況を受け入れたい。漱石『草枕』にいい文章がある。

春秋に指を折り尽くして、白頭に呻吟するの徒と雖も、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、嘗ては微光の臭骸に洩れて、吾を忘れし、拍手の興を喚び起す事が出来やう。
出来ぬと云はば生甲斐のない男である。

昔この部分を読んだとき、私は「春秋に指を折り尽くして、白頭に呻吟するの徒」となったときに、「拍手の興を呼び起こす事」ができるようでありたいと願ったことを思い出す。この『我が山行』がその証となるかどうか。私はこの山行記録を書きながら、その当時を思い出してなつかしくなり、なかなか筆が先に進まなかった。いわば拍手の興を喚び起していたのだと思う。その延長上に泰然と老後の私がいる、そうありたい。これを結びとしてあとがきを閉じよう。ここまで読んでくださったことに感謝申し上げます。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2017.2.11 石尊山 なぜ石尊山?

始めのうち気にも留めなかった山が、今いちばん身近な存在になっているという話をしよう。

誰もいない雪山に入り込んで、ラッセルであえぎながら上り詰めた頂上、そこでまず何をするかというとビールを飲むのである。ザックに腰を下ろして目の前に広がる浅間に挨拶をするのはその次なのだ。また来たよと呼びかけることで、私は浅間と二人きりの時間を何度も何度も持つことができた。写真について。たまたま登山口で一緒になったカメラマン志望の若者が「雪山は初めてです。連れて行ってください」と同行を願ってきたので一緒に登ったことがあった。一人の時は不可能だった私の写真が残ったのはそのカメラマンのお陰である。

石尊山は、浅間に登頂した帰りみちで、カヤトの道がおわって広い砂地に出たところにちょこんと盛り上がっている丘のような山だ。一つの山行が終わろうとする場所にあるので、つい横目で眺めて通り過ぎるというかかわり方で長年過ぎてきた。

それが変わったきっかけは、この丘のような頂きを越えて真南に下りたところにある座禅窟という洞穴を目指したいという新たな目標を設定して、五万分の一の地図を頼りに辿ったことだったろうか。踏み跡道はあったのだろうが、秋だったので落ち葉に覆われた道はすぐにわからなくなり、ルートファインデイングに苦労したことを覚えている。登山道が明瞭でないということは、下りよりも登りに適したルートなのかもしれぬ。ただ、のぼりでも藪漕ぎを強いられて、夏だったせいもあり半ズボンTシャツの皮膚が傷だらけになり、しみて何日も風呂に入れなかったこともあった。ともあれ、このルートは誰にも会わず、自分だけが浅間にいだかれているという極上の雰囲気が味わえるということで、私のお気に入りコースとなっている。
この山が大好きになったきっかけのもう一つは、夏の終わりに浅間の頂上から下りてきて、このあたりでコケモモがいっぱい摘めたことだ。歩きながら摘んで口に入れるその味は、山歩きの至福の時間を教えてくれた。と同時に、もう50年もの昔、北八ヶ岳を縦走して大河原峠に下りた時、そこの茶店で売っていたコケモモ酒の思い出につながる。まだ熟しきらない赤と緑の木の実がウイスキーのポケット瓶に入って並んでいた。その色彩の美しさに、まだ果実酒というものを知らなかった私ではあったが、すっかりまいってしまったのだ。そのコケモモがいっぱい摘めることを知って、翌年出かけて摘んだコケモモを3ℓも漬け込み、更にジャムにしてみた。ジャムを同級生に持って行ったところ、「100点」といってくれたことは『幼な子とともに歩んで』に書いた。一年後味わったコケモモ酒もほんとうに美味しかった。これ以後果実酒のレパートリーもひろがったが、コケモモとこれもこの山で知ったチョウセンゴミシ、それがベスト2である。
この山との縁はもう一つある。カモシカである。これについては他のところで書いた。
これだけの関りを持てば私にとってこの山がいちばん身近な存在になっているということが分かってもらえるだろう。ただ、ここ十年程で状況が変わってきた。コケモモもチョウセンゴミシも収穫量が激減したのだ。はじめ熊か鹿が食べたのかと思った。しかし、はじめのうちまだぽつぽつと残っていたコケモモやゴミシが次第に少なくなり、ここ二、三年はきれいになくなっている。
訪れる人が増えたのだろうか。もしかしたら業者かもしれない。熊だとすれば争うつもりはない。もともとこちらがインヴェーダーなのだ。
冒頭に書いた雪山でのビール、それだけはまだ残っている。私にとっての石尊山は1660mの低山ながら、私を支えてくれる大切な山になっている。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1999.8.29-30 木曽駒ケ岳ー稲妻を俯瞰した

高校の地理でカールという地形を学んだ。初めて室堂に立った時、目の前の山崎カールを見て感動したことを思い出す。山崎というのはこの地形を調べた人の名で、弟子が師の名をつけたという。
同じ固有名詞の着いた薬師岳の金作谷カールは山案内人の名だ。頂上から一望のもとに見渡せる広々としたカールを見ながら歩いたが、ガスが湧いてきて、高知大ワンゲルのように尾根を見失うまいと、そちらに神経を集中してしまってゆっくり味わうゆとりがなくなってしまった。
それに比べると翌日の黒部五郎カールはその素晴らしさを満喫した。黒々と聳える圏谷上部を見上げながら大量に湧いて出る雪解け水を心行くまで飲んだ爽快感が忘れられない。何万年か前にここに氷河があり、一年に何センチかずつ下りながら両岸と底部を削り取っていった、今そこに腰を下ろしている、そんな感覚に酔い痴れていた。私に強烈な思いを残したのがこの黒部五郎カールだった。我々グループの他に誰もいなかったというのも、幸福な思い出を作ってくれたのだろう。
ほかに気になるのが鹿島槍北峰の谷カクネ里だ。ここが氷河だということが2018年に認められた。末端からグレイシャーミルヒと呼ばれる白濁した水が流れ出ているという。手にすくってみたいがもう無理だろう。見果てぬ夢がひとつ増えた。
穂高の涸沢もスケールが大きい。ただいつも人が多くて、じっくり山と向き合って対話するという雰囲気ではない。圏谷の上部へたどるザイテングラードはカール全体が見渡せるので好きな場所だ。
カールというのはともにある情緒も持って私に迫る。そこにいだかれたいという思いを与える地形だ。下は広々と広がって、そこがカルデラとの違いだろうか。

そんなカールに愛着を持つ私が、中央アルプスの千畳敷カールをまだ訪れていない。手遅れにならないうちにと、妻を誘って出かけた。
これまで中央アルプスを合宿の候補にしてこなかったのは、一週間という一般的な合宿の日程を考えると少し小さいということからだった。今回個人山行として木曽駒ケ岳を目指した。

1999.08.29
本庄6:15 = (上信越道・長野道・中央高速)=駒ヶ根8:25~40=(バス)=ロープウエイ駅9:10~40=千畳敷駅9:55ー前岳稜線乗越浄土(昼食)12:00~13:00-宝剣岳山頂13:30~40-中岳ー木曽駒ケ岳幕営地15:30
ロープウエイの列は長そうに見えたが、夏も終わりの季節を選んだので30分待ちで乗ることができた。千畳敷カールは素晴らしい眺めだ。お花畑もずいぶん残っている。カールの先端は八丁坂と呼ばれる急傾斜になる。前岳稜線までゆっくりと歩を進めた。乗越浄土という宗教的名前に着く。ロープウエイ駅からの宝剣岳はすさまじい岩山だが、ここからだとほんのひと登り。戻って木曽駒の稜線に。このあたりからガスが湧き始める。
中岳を越え、木曽駒の幕営場(2870m)はガスの中での設営となる。離れた場所にテントがひと張りあるだけで静かな夜が過ごせそうだ、と思っているといきなり雨が降り出した。ようやく上がって外へでて見ると、星空が美しい。
ここで思いがけない情景に出会った。夜空の下、向かいの山並みが見下ろせたのだが、その稜線と思われるあたりに、稲妻が何度も走り、その都度そのあたりが明るくなるのだ。積乱雲は1万メートルまで上昇すると読んだことがあるが、稲妻を俯瞰するというのは初めてだ。そういえば会津駒ケ岳にキリンテから登る途中で雷雨に会い、稲妻が目の前を横に走ったことがあった。初めは身を伏せたが、次第に度胸がついて身をかがめながら歩いた。今目の前のあの山では里人が身をすくめているのだろうか。大きな花火を見ているようで、妻と二人しばらく見とれていた。雷鳴は聞こえなかった。

1999.08.30
天場7:00‐木曽駒ケ岳(2956m)7:40~08:00ー(馬の背)ー駒飼池9:30~10:00ー沢(昼食)ー前岳稜線12:00~30ー千畳敷駅レストラン14:00~40

木曽駒の空は晴れたが、周囲の山はガスで見えず残念。ただすぐに晴れて、周囲の山々が見事に姿を現した。写真はまだ登っていない御嶽山だ。そのまま下山というのも残念なので、ちょっと寄り道して駒飼池を訪れる。笹に覆われた斜面に小さな池が青空を映していた。人の姿はない。静かな山旅であった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2009.06.14 尾瀬と尾瀬からのルート

尾瀬には数えきれないほど通った。この小著が山のガイドブックであるなら一つ載せればおしまいなのだが、私の登山記録という意味もあり、いくつか残そうと思う。

1.初めての尾瀬は21歳のとき
国文科の友といっしょに学園祭をサボって出かけた。高野長蔵についての記事を何かで読んだ私は文学的興味をそそられたようだ。長蔵小屋に泊まった夜、小屋にアルバイトできていた女性と夜中過ぎまで語り合った。いくつか年上の彼女はまだ世慣れぬ私を手玉に取るような話で煙に巻いたようだった。同級生となら負けなかった私は初めて年上の女性を相手に恋愛論などできることに夢中になったことを覚えている。二、三年後期待 して訪れた長蔵小屋に彼女はもういなかった。
その頃(5月の終わり)尾瀬沼はまだ厚い雪と氷に覆われていて、歩くことができた。再び訪れたた夏に発動機の着いた小舟で沼尻にわたった。人々が殺到し、自然保護が叫ばれて尾瀬が大きく変わるのはもうすぐだった。

2.尾瀬から奥鬼怒へ
長蔵小屋の天場から東へなだらかな山をこえると美しい小淵沢田代という湿原がある。そこを越えて袴腰山、赤安山、黒岩山、鬼怒沼山から鬼怒沼湿原へ。長い長い山路の果てに心洗われる緑と水と青空が待っている。ただここからバス停までがまた長い。日光沢温泉、加仁湯、八丁の湯を通って女夫淵温泉まで。二度歩いた。初めは妻と。二度目は1990年、熊谷女子高校登山部の夏山合宿で。今はかなり上まで車が入っているようだ。

3.尾瀬からロボット尾根経由湯の小屋温泉へ
これについては別項に触れた。

4.2009.6.14-15 裏燧林道
静かで、人に会わずに尾瀬を歩けるという意味で私の大好きなルートだ。ただ、この日歩いてどうしても言わなくてはいられない二つのことにぶつかった。その記録である。
出かけたのが6月14日。キスゲにはまだ早いだろうとは思ったのだが、出発点の御池田代から、なんとまだ水芭蕉の全盛期だった。裏燧林道の田代に咲く水芭蕉は小さくて愛らしい。と同時に、チングルマやタテヤマリンドウもみごとで、それにもましてヒメシャクナゲ(ほんとうは立山竜胆、姫石楠花と書きたいのだが植物の名はカタカナでというのが約束なので仕方ない。水芭蕉だけは漢字を使う)の濃いピンクの蕾を付けた群落はほれぼれと見とれてしまって動きたくなくなるような光景だった。
のめり田代を過ぎると登山道はブナの原生林に入る。30~40mもあろうかと見上げる巨木が視界の続く限り聳えて、その間にこれも巨木となったクロベが混じっている。空気の流れのせいだろうか、ときどきフィトンチッドの香りに包まれながら歩を進めた。
どうしても言いたいことの一つは、このブナの原生林についてである。登山道の脇のブナの幹が、場所によってはほとんど一本残らずといっていいくらいナイフで傷つけられているのだ。名前を彫り込んだものがほとんどなのだが、中には五七五の句もある。なぜこんなことをするのだろう。自らの愚かしさを自分の死後まで残して、きっと地獄に落ちて苛まれているだろう、そんなことを考えながら幹を撫ぜたのだった。
三条の滝はいつもながら豪快で、平滑ノ滝も水かさが増している季節で見事だった。その日は温泉小屋に泊まった。夜は滝のような雨が降った。
翌朝、霧が晴れてきて、目の前に残雪を輝かせて平が岳が姿を現した。20年も昔、5月の連休に尾瀬ヶ原から雪の稜線伝いに訪れたとき、帰路に雪に目をやられ、翌朝天幕で目が開けられず、友の肩につかまりながら下山したことを思い出した。なつかしい山の姿に出会えて、幸福感でいっぱいになった。尾瀬沼廻りで帰るつもりが、平が岳、中岳、越後駒ケ岳を眺めながら歩きたいという思いで、裏燧林道を戻ることにした。まだ通ったことのない段吉新道を選んだ。
段吉新道は沢を渡るときは下ってまた登るのは当たり前なのだがそれ以外は本当に平らなルートだ。よくこんな道が開けたものと感心しながら歩いた。
言いたいことのもう一つにここを歩いていた時に出くわした。山道脇にコシアブラの灌木がいっぱいあって、そのほとんどの葉が摘み取られていた。ただ先端の二つの葉だけは残されていて、ああこれはプロが摘んだのであろうと思わされた。ところが、段吉新道が終わって一般道に合流したとたん、コシアブラは丸裸にむしりとられているのだった。これでは枯れてしまう。山との付き合い方を知らない、あるいは無視した心無い登山者にまた怒りを覚えずにはいられなかった。こんなことに気づかなければ楽しく歩いて終われたはずの山行が残念でならない。せめてここに記録することで、誰か一人にでも考えてもらえればという思いからここまで述べてきた。思い返しても憤懣やるかたない思いをいだかざるを得ないということは、私が年を取ったということなのだろうか。さびしいことだ。

5.裏燧から燧ケ岳
燧ケ岳への登山道で最も美しいのは御池からの北ルートだと思う。美しいというのは主観的な言い方で、長英新道の小鳥の鳴き声こそがという言い方もありうる。私が尾瀬のとりこになったのが多様な小鳥のさえずりだったことを思うと、どこが一番かというのはナンセンスな主題といえるだろう。ただ、初めて裏燧から頂上を目指した時の感動は強烈だった。

明るい草原とそこに青空を移す広沢田代・熊沢田代の存在はそれまで何度も辿った長英新道、ナデッ窪のイメージとはかけ離れて、新しい尾瀬のイメージを与えてくれた。尾瀬に多様な魅力があるということだろう。

6.2009.10.11-12 尾瀬ヶ原からの燧三段染め
息子と孫娘を誘って晩秋の尾瀬を訪れた。鳩待峠から菖蒲平を目指すあたりから雨となり、天気を心配しながらの出発となった。菖蒲平で雨が上がり、竜宮小屋への下りの階段で私は大失策をおかした。木の階段は登山道を保護するためのものだ。濡れると滑る。わたしは孫娘を気遣って「滑らないように」と声をかけようと振り向いた途端足が滑って、階段から1m下に落下した。落ちた拍子に右肋骨を打った。痛みを覚えたが問題なかろうとそのまま下った。
十字路の小屋に宿を取り、信じられないことに風呂に入れた。それがいけなかったのだろう。朝起きたら胸の痛みでザックが背負えない。なんとか山の鼻まで来たが限界だった。息子が自分の荷物の上に私のザックをつけてくれた。空身で何とか歩き始めたが鳩待までがやっとだった。木道の陰にオコジョが姿を現したが孫娘に指摘するしかなかった。息子がいい写真を撮ってくれた。鳩待から戸倉までワンボクスカーの補助席に乗り、本庄で青木病院によこづけして もらってレントゲンを撮ったら骨折していた。肋骨は固定できない。しばらくたいへんだった。
この山行で、尾瀬ヶ原から見た燧岳が美しかった。痛みをこらえて撮った三段染め、白とダークグリーンと紅葉はこの秋の記念になる写真となった。

この時の思いを帰宅後書いた文章がある。ここに再録しておきたい。タイトルは「コスト主義への疑問」
原発が火力発電や水力発電にくらべて発電コストが低いということが、原発を推進する根拠の一つとされてきました。原発コストの計算が誤っていることが今回福島の事故をきっかけに 指摘されましたが、それとは別に、コストを基準とすることへの疑問をこのところずっといだいてきました。人間の命の重さはそのコストから除外されています。
それと同じ思いで受け止めたのが、八ッ場ダム建設再開のニュースです。ダムを造らない場合の治水対策費と比べて安価であるというのがその根拠です。なんとも貧しい発想だなあと思わざるを得ません。エコノミックアニマルと評されるのはこういうことからでもあろうと思います。そこで失われていくものが何なのか、それを犠牲にして手にするものが何なのか。しっかりとした検証の上に立ってデータを人々に開示することがなされたのでしょうか。
ここで思い出すのが、同じ群馬県の尾瀬の保全の問題です。東電が水を確保するために尾瀬ヶ原をダムの底に沈めようと計画した時、環境庁の大石長官は政治生命をかけて阻止しました。たくさんの国民が大石長官を支持しました「セメントから人間へ」という公約がありながら前原政策調査会長はなぜ頑張ろうとしなかったのでしょうか。お金の問題に還元できないものがあること、それを私たちは学んだはずです。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: