振り返るとながいながい道のりであった。奇跡的に山の事故で命を奪われることを逃れたことのみならず、身体もよく危機を乗り越えてくれたという思いが湧き上がってくる。私は10代の半ばで心臓を病み、医師から「君の人生は40年だよ」と宣告された。それが私の人生観の原点になっておかしくないのだが、その後私は体力的にかなり自信をつけていくことができ、その宣告を忘れるようにさえなっていった。山がそれを保証してくれたように思う。
私が山を専門にし始めたのは20代半ばで、熊谷高校で山岳部の顧問となったことからであった。夏山で40キロ、冬山では60キロの荷を背負って歩くことが体の自信をつけてくれた。それは山に対してのみならず、生きる姿勢も支えてくれたような気がする。慢心してはいけない、傲岸になってはいけない、そう意識しながらも、自分の中の弱さを越えようと努めてきた。みずからのなかの繊細さやナイーブな心を失うことなく、社会的な不正義に対峙する姿勢も失わないこと、それは難しいことではありながら、今でも自分の生き方として持ち続けようと志している。それを作ってきたのが山から教えられたことだったと今思う。
なんだか自己賛美のニュアンスが出てきてしまう。今はやりの自分史が多く自己肯定・自己賛美に終わっているといわれる。この文章に、あるいはこの書にそんな色がついたらそれは私の意図するところではない。むしろ私の晩年は逆に失意の中にいるのである。
熊谷高校山岳部の顧問は5名いた。一人は40台で椎間板ヘルニアの手術を受けておられる。氏は「のみでコンコンとたたいて削る、それが痛いんですよ」と語られた。後二人も同じくヘルニア。残った二人は脊柱管狭窄症だ。3人は退職するころから。私は70歳になった時。
現役時代、私は腰痛になやまされることはなかった。トレーニングの成果と思っていた。それは思い上がりだった。70歳になった年、左下肢大腿骨部分に痛みが生じ、それが甚だしくなって、ついに10歩行くとしゃがみ込んでしまうようになり、医師から間欠跛行と診断された。そのとき、私は「なんで?」とびっくりするより、ああ私もとむしろ納得してしまったのだ。重い荷を背負い腰を曲げて長時間歩く、しかも何日も。それが何年も続けば・・ これはヤマヤ(山屋)の宿命なのだ、今日まで無事に来られたことがむしろ僥倖だったのだ、今そんなふうに思っている。(幸い、その頃から山グッズが著しく軽量化されてきて、いまは私たちのような目に合わずに済むようになってきたようだ。)
納得したといっても、現実には情けない思いでいっぱいの毎日である。ウオーキングに出ても若いおばさんに「こんにちわ」と挨拶されて追い抜かれてしまう。歩くことで負けたことはないのにと落ち込んでしまう。脚立に上るにもどこか手を置かないと安心できない。登山靴を履いたまま片足屈伸できたのにと悔しくて仕方ない。そしてその都度、お前はまだかつての栄光(ひとりよがりの)にしがみついているのかという自己嫌悪に襲われてしまう。もっと泰然と今ある状況を受け入れたい。漱石『草枕』にいい文章がある。
春秋に指を折り尽くして、白頭に呻吟するの徒と雖も、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、嘗ては微光の臭骸に洩れて、吾を忘れし、拍手の興を喚び起す事が出来やう。
出来ぬと云はば生甲斐のない男である。
昔この部分を読んだとき、私は「春秋に指を折り尽くして、白頭に呻吟するの徒」となったときに、「拍手の興を呼び起こす事」ができるようでありたいと願ったことを思い出す。この『我が山行』がその証となるかどうか。私はこの山行記録を書きながら、その当時を思い出してなつかしくなり、なかなか筆が先に進まなかった。いわば拍手の興を喚び起していたのだと思う。その延長上に泰然と老後の私がいる、そうありたい。これを結びとしてあとがきを閉じよう。ここまで読んでくださったことに感謝申し上げます。