尾瀬には数えきれないほど通った。この小著が山のガイドブックであるなら一つ載せればおしまいなのだが、私の登山記録という意味もあり、いくつか残そうと思う。

1.初めての尾瀬は21歳のとき
国文科の友といっしょに学園祭をサボって出かけた。高野長蔵についての記事を何かで読んだ私は文学的興味をそそられたようだ。長蔵小屋に泊まった夜、小屋にアルバイトできていた女性と夜中過ぎまで語り合った。いくつか年上の彼女はまだ世慣れぬ私を手玉に取るような話で煙に巻いたようだった。同級生となら負けなかった私は初めて年上の女性を相手に恋愛論などできることに夢中になったことを覚えている。二、三年後期待 して訪れた長蔵小屋に彼女はもういなかった。
その頃(5月の終わり)尾瀬沼はまだ厚い雪と氷に覆われていて、歩くことができた。再び訪れたた夏に発動機の着いた小舟で沼尻にわたった。人々が殺到し、自然保護が叫ばれて尾瀬が大きく変わるのはもうすぐだった。

2.尾瀬から奥鬼怒へ
長蔵小屋の天場から東へなだらかな山をこえると美しい小淵沢田代という湿原がある。そこを越えて袴腰山、赤安山、黒岩山、鬼怒沼山から鬼怒沼湿原へ。長い長い山路の果てに心洗われる緑と水と青空が待っている。ただここからバス停までがまた長い。日光沢温泉、加仁湯、八丁の湯を通って女夫淵温泉まで。二度歩いた。初めは妻と。二度目は1990年、熊谷女子高校登山部の夏山合宿で。今はかなり上まで車が入っているようだ。

3.尾瀬からロボット尾根経由湯の小屋温泉へ
これについては別項に触れた。

4.2009.6.14-15 裏燧林道
静かで、人に会わずに尾瀬を歩けるという意味で私の大好きなルートだ。ただ、この日歩いてどうしても言わなくてはいられない二つのことにぶつかった。その記録である。
出かけたのが6月14日。キスゲにはまだ早いだろうとは思ったのだが、出発点の御池田代から、なんとまだ水芭蕉の全盛期だった。裏燧林道の田代に咲く水芭蕉は小さくて愛らしい。と同時に、チングルマやタテヤマリンドウもみごとで、それにもましてヒメシャクナゲ(ほんとうは立山竜胆、姫石楠花と書きたいのだが植物の名はカタカナでというのが約束なので仕方ない。水芭蕉だけは漢字を使う)の濃いピンクの蕾を付けた群落はほれぼれと見とれてしまって動きたくなくなるような光景だった。
のめり田代を過ぎると登山道はブナの原生林に入る。30~40mもあろうかと見上げる巨木が視界の続く限り聳えて、その間にこれも巨木となったクロベが混じっている。空気の流れのせいだろうか、ときどきフィトンチッドの香りに包まれながら歩を進めた。
どうしても言いたいことの一つは、このブナの原生林についてである。登山道の脇のブナの幹が、場所によってはほとんど一本残らずといっていいくらいナイフで傷つけられているのだ。名前を彫り込んだものがほとんどなのだが、中には五七五の句もある。なぜこんなことをするのだろう。自らの愚かしさを自分の死後まで残して、きっと地獄に落ちて苛まれているだろう、そんなことを考えながら幹を撫ぜたのだった。
三条の滝はいつもながら豪快で、平滑ノ滝も水かさが増している季節で見事だった。その日は温泉小屋に泊まった。夜は滝のような雨が降った。
翌朝、霧が晴れてきて、目の前に残雪を輝かせて平が岳が姿を現した。20年も昔、5月の連休に尾瀬ヶ原から雪の稜線伝いに訪れたとき、帰路に雪に目をやられ、翌朝天幕で目が開けられず、友の肩につかまりながら下山したことを思い出した。なつかしい山の姿に出会えて、幸福感でいっぱいになった。尾瀬沼廻りで帰るつもりが、平が岳、中岳、越後駒ケ岳を眺めながら歩きたいという思いで、裏燧林道を戻ることにした。まだ通ったことのない段吉新道を選んだ。
段吉新道は沢を渡るときは下ってまた登るのは当たり前なのだがそれ以外は本当に平らなルートだ。よくこんな道が開けたものと感心しながら歩いた。
言いたいことのもう一つにここを歩いていた時に出くわした。山道脇にコシアブラの灌木がいっぱいあって、そのほとんどの葉が摘み取られていた。ただ先端の二つの葉だけは残されていて、ああこれはプロが摘んだのであろうと思わされた。ところが、段吉新道が終わって一般道に合流したとたん、コシアブラは丸裸にむしりとられているのだった。これでは枯れてしまう。山との付き合い方を知らない、あるいは無視した心無い登山者にまた怒りを覚えずにはいられなかった。こんなことに気づかなければ楽しく歩いて終われたはずの山行が残念でならない。せめてここに記録することで、誰か一人にでも考えてもらえればという思いからここまで述べてきた。思い返しても憤懣やるかたない思いをいだかざるを得ないということは、私が年を取ったということなのだろうか。さびしいことだ。

5.裏燧から燧ケ岳
燧ケ岳への登山道で最も美しいのは御池からの北ルートだと思う。美しいというのは主観的な言い方で、長英新道の小鳥の鳴き声こそがという言い方もありうる。私が尾瀬のとりこになったのが多様な小鳥のさえずりだったことを思うと、どこが一番かというのはナンセンスな主題といえるだろう。ただ、初めて裏燧から頂上を目指した時の感動は強烈だった。

明るい草原とそこに青空を移す広沢田代・熊沢田代の存在はそれまで何度も辿った長英新道、ナデッ窪のイメージとはかけ離れて、新しい尾瀬のイメージを与えてくれた。尾瀬に多様な魅力があるということだろう。

6.2009.10.11-12 尾瀬ヶ原からの燧三段染め
息子と孫娘を誘って晩秋の尾瀬を訪れた。鳩待峠から菖蒲平を目指すあたりから雨となり、天気を心配しながらの出発となった。菖蒲平で雨が上がり、竜宮小屋への下りの階段で私は大失策をおかした。木の階段は登山道を保護するためのものだ。濡れると滑る。わたしは孫娘を気遣って「滑らないように」と声をかけようと振り向いた途端足が滑って、階段から1m下に落下した。落ちた拍子に右肋骨を打った。痛みを覚えたが問題なかろうとそのまま下った。
十字路の小屋に宿を取り、信じられないことに風呂に入れた。それがいけなかったのだろう。朝起きたら胸の痛みでザックが背負えない。なんとか山の鼻まで来たが限界だった。息子が自分の荷物の上に私のザックをつけてくれた。空身で何とか歩き始めたが鳩待までがやっとだった。木道の陰にオコジョが姿を現したが孫娘に指摘するしかなかった。息子がいい写真を撮ってくれた。鳩待から戸倉までワンボクスカーの補助席に乗り、本庄で青木病院によこづけして もらってレントゲンを撮ったら骨折していた。肋骨は固定できない。しばらくたいへんだった。
この山行で、尾瀬ヶ原から見た燧岳が美しかった。痛みをこらえて撮った三段染め、白とダークグリーンと紅葉はこの秋の記念になる写真となった。

この時の思いを帰宅後書いた文章がある。ここに再録しておきたい。タイトルは「コスト主義への疑問」
原発が火力発電や水力発電にくらべて発電コストが低いということが、原発を推進する根拠の一つとされてきました。原発コストの計算が誤っていることが今回福島の事故をきっかけに 指摘されましたが、それとは別に、コストを基準とすることへの疑問をこのところずっといだいてきました。人間の命の重さはそのコストから除外されています。
それと同じ思いで受け止めたのが、八ッ場ダム建設再開のニュースです。ダムを造らない場合の治水対策費と比べて安価であるというのがその根拠です。なんとも貧しい発想だなあと思わざるを得ません。エコノミックアニマルと評されるのはこういうことからでもあろうと思います。そこで失われていくものが何なのか、それを犠牲にして手にするものが何なのか。しっかりとした検証の上に立ってデータを人々に開示することがなされたのでしょうか。
ここで思い出すのが、同じ群馬県の尾瀬の保全の問題です。東電が水を確保するために尾瀬ヶ原をダムの底に沈めようと計画した時、環境庁の大石長官は政治生命をかけて阻止しました。たくさんの国民が大石長官を支持しました「セメントから人間へ」という公約がありながら前原政策調査会長はなぜ頑張ろうとしなかったのでしょうか。お金の問題に還元できないものがあること、それを私たちは学んだはずです。