私の父は1985年2月に亡くなった。昆虫採集が趣味で、晩年には本庄西幼稚園の園長室を昆虫標本室に変えて、蝶・蛾・トンボ・蝉・甲虫の標本箱をいっぱいに展示していた。園児たちにはいい教材となった。私は遺品としてその何十個もあるガラス窓の箱を受け継ぎ、はじめのうちはナフタリンの交換などを行っていたが、ついにはギブアップしてしまい、一度怠ると標本はあっというまに虫に食われて消えていった。
その父と私の家族で、何度か山へ蝶をとりにいった。父にとって採集の山は北海道から沖縄まで数えきれないほどであったが、飯盛山はそのうちの一つであった。登りはじめに長男がクジャクチョウを網ですくった。めずらしい蝶だったのだろう。父は有頂天になって、「でかした。おおでかしだ。」と喜んだ。息子はそんな価値あるものと分からず、クワガタに夢中になっていた。遠い昔のこととなった。
この日、飯盛り頂上を前にしたコルには、ジャージー種の牛がいっぱい寝ころんでいた。その後見かけたことはない。あれはいったい何だったのだろう。
このスケッチは私が体調を崩して、回復したことを確かめるため恐る恐る出かけた飯盛山で描いたものだった。以来、中学のクラス会を案内したり、深雪の中をスキーで訪れたり、妻と散歩がてら訪れたりと、数えると10回を越える。下山後立ち寄ることもあった野辺山のプラネタリウムも懐かしい。
私は登山口の獅子岩が好きなのだが、頂上からの眺めも素晴らしい。南には茅ケ岳、富士、鳳凰とくに地蔵のオベリスク、北岳に始まる南アルプス、甲斐盆地を見下ろして屹立する甲斐駒ヶ岳が迫ってくる。懐かしい山の姿に出会える場所だ。
目を西側に転じるとこのスケッチの八ヶ岳と真正面から向き合える。むしろこの八ヶ岳に会いたくて登ってくるというのが一番大きな目的といっていい。この堂々たる雄姿は、自分がこの山とかかわった回数の多さによって相乗効果的な大きな喜びを与えてくれる。
八ヶ岳については、他のところで書いたが、ここからでないとといえるのがこのスケッチの中央にある県界尾根からの赤岳(2899m)だ。長い尾根で水場もなく、いま登る人は多くない。熊谷高校山岳部の天皇とよばれた吉川敏夫氏がいつだったか「県界尾根には幽霊が出るというよ。登って行って、下りてくる人に『こんにちわ』とあいさつをしてすれ違って振り返るとその人がいないというんですよ」と話したことがある。以来、いつか辿りたい尾根となった。
何年かたって一浪した教え子が「先生と山に行きたい」と申し出てくれたので、いいチャンスということで、小海線野辺山駅(JR標高最高駅)で落ち合い麓にテントを張り、一日がかりで登ったことがある。初めての(?)山にしては気の毒だったかもしれない。幸い幽霊に出会えず頂上に着き、なんともうまいビールを飲んだのだが、最近40年ぶりに出会ったその男は「苦いだけで少しもうまいと思わなかった。」と述懐した。一浪した次の夏にビールの味がわからなかったのは無理もない。その若さに私は改めて羨望を覚えたりした。それでもその日、赤岳を越えて、権現の天場で満天の星空を眺めながら、彼は嬉しそうに星座の話をしゃべり続けた。大学の医学部教授となっているその男に今私がお世話になっている。