山を思うということ
山の子の/山を思ふがごとくにも/悲しきときは君を思へり
昔好きだった啄木の歌だ。いや、今も好きなのだが、その意味が違ってきている。昔は歌の後半が好きだったのだが、今は前半が気になるのだ。「山を思ふ」という表現がなんともいいなあと思う。
ヨーロッパ人が山を登山の対象ととらえて、アルプスに登り始めたのは19世紀からだといわれるようだが、それは山を征服するという姿勢だったと思う。ザイルとピッケルは、人間の前に立ちはだかる自然を人間が屈服させるための道具だった。ヨーロッパ人の中ではイギリス人が主導的だったと聞く。
これは山についてのみいえることではない。川があれば堅固な石の橋を渡して障害を克服してしまう。水がなければ、何世紀にもわたって崩れない石の水道を築いて水を引いてくる。自然は人間が征服していくべき対象で、自然は人間に奉仕すべきものという認識がその根底にある。そしてその認識が自然科学を発展させ、文明を発展させてきた。現在はその結果として人間のみならず人間以外の生物までを存続の危機に追いやっている。
だからと言ってこの西洋的自然観を今すぐ否定するというのも簡単ではない。Co₂削減の努力が原発推進になっていいかという問題一つとってもむずかしい。
でも、すくなくともこと山に関してはこの西洋的自然観にはどうしてもなじめないのだ。山を歩きながら感じる山との一体感、山に抱かれているという感覚、これは人間と対峙するもの、人間が征服すべきものという感覚からは遠く離れたものだ。これは日本の山とヨーロッパの山との違いから生まれるのだろうか。いつだったかカナデイアンロッキーの石灰岩の屹立する岩峰を見たとき、ああこれは人間が抱かれる山ではないなと妙に納得してしまったことを思い出す。そして、北アルプスの針ノ木峠から眺めた緑の山並みを懐かしく心に浮かべたことも。

先日仕事の合間を縫ってようやく山に出かけることができた。雪山の裾でフキノトウを摘み、残雪の斜面をキックステップで登り、この場所でいつかカモシカが目の前に飛び出してピューピューなきながら尾根に走りあがって消えていったっけと回想にふけり、それはそのまま至福の時間だった。
そういう体験が心の中に積もって行って、山を恋うこころとなって、山という言葉を出すたび、何か切ない気持ちになってしまうのだ。「山の子」が恋しく思う山、そんな山を私も持っているといえるのはなんとも楽しいことだ。それを記してみよう。

浅間トラバースの記録
2009.09.20
本庄7:10=追分登山口08:00~10ー1300m林道09:05~15ー石尊山稜線10:20~40ー一杯水12:00ー植生限界12:40ー弥陀ケ城谷上部14:40~15:00-登山口16:55

このシルバーウイークは、私にとって記念すべき休日となった。20年来の夢が実現できたのだ。
浅間山(2568m)の南面は2100mくらいが森林限界となっている。そこまでは中腹から松や落葉松が落葉樹に混じってうっそうとした森を作り、その上にシラビソがびっしりと斜面を埋めていて、登山道以外になかなか踏み込めない。その上に50~100mほどの草の帯が斜面を飾っている。その上は赤茶色の地肌が頂上までを覆っている。その植生の上縁を西から東へ辿ってみたい、具体的には天狗の露地の上部から弥陀が城岩の谷までをと、浅間を訪れて仰ぐたび、私の中に憧れのようなものが大きくなってきていた。以来20年以上も温めてきた夢となっていた。
今年、その夢が実現したのは、中腹にある石尊山の山頂で出会ったパトロールのおやじさんとの話がきっかけだった。浅間の大きな姿を前にしていろいろな話をして、その末に私の夢を語ると、彼は「私は歩いた。下界が青味がかって見えて美しかった。」というのだ。夢がにわかに現実味を帯びてきた。天狗の露地に幕営すれば余裕をもってたどれるだろうと考えたのだが、このシルバーウイークに我慢できずに日帰りの予定で飛び出した。憧れの場所に早く立ってみたいという思いがわたしを突き動かしたのだが、同時に、来年になると体力的に今年より厳しくなるだろうという焦りもあったようだ。

石尊山への稜線へ出て石尊山を左に見送り、右にルートをたどる。ここから先は人があまり入らないので登山道はカヤトが覆っている。例によって熊対策としてピッケルを両手に抱え、大き目のカウベルを鳴らしながら進む。
一杯水に着いたのがちょうど12:00。前に聞いたように、水は枯れていて10m左手に新たな水源ができていた。雨が降らないせいであろうか、水はほんの少し滴り落ちているだけ。図ってみると10滴落ちるのに13秒かかる。これではとても幕営には使えない。昔の湧水を思い浮かべながら天狗の露地にのぼった。

ここから登山ルートを離れてびっしりと生えているシラビソの樹林帯に分け入る。身体で枝を押し分けて進むこと40分、ようやく森林限界に達した。ここから草の植生が始まると予想していたのだが、コケモモと浅間ブドウ、ガンコウランなどに出迎えられてびっくり。これらは丈は草のように見えながら年輪を持った樹木なのだ。斜面は縦・横・高さともに20㎝ほどの礫に覆いつくされている。考えてみれば、こんな場所に草が生育できるはずがない。気が付くと、今まで見たこともない大きなコケモモがあたり一帯真っ赤に輝いている。浅間ブドウもいっぱいだ。これからたどるルートへの不安がありながら、そのコケモモと浅間ブドウを摘まずにはいられない。浅間ブドウの甘さもいいが、なんといってもコケモモの甘酸っぱさの美味しさは抜群だ。写真は植生限界のコケモモである。
ゆっくりしたいと思いながら初めてのルートは先に何があるかわからない。早々に出発する。
歩き始めてすぐに、これはとんでもないところに来てしまったということが分かった。一歩踏み出すたびに、岩屑に足を取られ、バランスを失ってしまう。これではこの先どれくらい時間がかかるかと、まず初めに私は不安と緊張でいっぱいになった。視界の下の方に石尊山に続く稜線が見えて、その方向へ逃げたくなる気持ちを抑えて懸命に前へ前へと進んだ。しばらくして少し余裕が出て来たのだろう。あたりを見渡してみた。剣ヶ峰それに続く牙(ギッパ)と黒斑の断崖との間に、遠く槍・穂高が大キレットを挟んでくっきりとその雄姿を見せ、南には八ヶ岳と奥秩父の山々が横たわり、金峰の五丈岩も識別される。そしてその上にのしかかるように富士山が。目の下には、浅間の樹林帯が気の遠くなるほどの広さで広がり、その先に軽井沢の町が光っている。後ろを振り向くと前掛山が頭上に迫り、真っ青な空をバックに噴煙が白く流れていく。腰を下ろしてこの絶景を味わいながら一息入れたいという誘惑に駆られながらも、先への不安から立ち止まる程度で我慢することにする。浅間山というのはこの岩屑(屑というには大きいのだが)が途方もない厚さで積み重なった山なのかと、半分呆れながら、足元から下に崩れ落ちていくかけらを目で追いつつ歩き続けた。

登山道から別れてちょうど2時間後、ようやく弥陀が城岩の断崖を谷を隔てた向こう側に目にする地点に到達した。谷底がはるか下に見える。あそこまで下らなければならない。トラバースルートでさえ一歩ごとに足を取られた斜面を、今度は下るのだ。がらがらの岩のかけらにくるぶしまで靴をめり込ませながらの下りに、登山靴は傷だらけになってきている。つい植生を踏みながら下ることになってしまう。その植生とはガンコウラン。足を取られて尻もちをつく度に黒い実を口に入れた。甘いけれど甘すぎず、さっぱりとした味の木の実だ。ツキノワグマの食料を横取りしているようで、ごめんねを胸の内に呟きながら下った。やっと谷底に着く手前で、足を取られまた尻もちをついたときは、もう動けなくなっていた。14:20から15:00まで目の前の断崖の岩壁を見上げながらゆっくりと息をついだ。

ただ、ここまで来ればもう安心だ。これまで何度も訪れた谷底があと50m下なのだから。慎重に下って岩壁の下にたどり着いてまた一息つく。写真も撮った。
さて後はなれた谷底の道と思って出発したのもつかの間。谷底に下りきって山腹を下り始めてまた途方に暮れるような事態に直面することになった。たぶん春の雪解け水が伏流水となって流れ下ったのだろう。下る先々で地面が1mから2mも陥没しているのだ。これまでこんなに荒れていたことはない。その都度斜面をよじ登って高巻きせざるを得ない。それでもやっと登山道に出ることができた。これで助かったという思いで荷を下ろし、なにはともあれビールを飲む。なんとも言えない美味しさだ。ついでガスカートリッジで湯を沸かし、コーヒーを入れる。これもここでしか味わえない味。終わったなという思いで空を見上げると、青空にいつかのようにトビがゆっくりと舞っている。
この時の思い、それは安堵の気持ちと、目指したことを成し遂げたという充実感との混じり合った大きな感情だった。30分も空を眺めていたろうか。その思いに満たされてくだった。下りながら今度はチョウセンゴミシをいっぱい摘むことができて、山行の終わりを飾ってくれた。

今の私の心は、一種の虚脱状態だ。長年の夢がかなったという思いはある。と同時にその夢がなくなってしまうと、次に何を目指したらいいのか、夢を持っているときの方が幸福だったのではないかという、一種の悔恨にも似た思いに、人間の心って勝手だなあと思っている。