山岳部、登山部、登山愛好会と32年間顧問をしてきて、こんなことがあるんだという経験をした今年の夏山合宿だった。ここに記録しておきたい。
予定は、南アルプス玄関口の広河原から大樺沢(おおかんばさわ)を詰めて北岳稜線に出、北岳ー間の岳-北荒川ー塩見岳-烏帽子岳ー小河内ー三伏峠-塩川小屋の6泊7日の山行だった。
1977.07.26
1日目は予定通りに広河原についた。

1977.07.27
2日目いよいよ2900mの北岳稜線に出る1400mの高低差を詰める。04:35幕営地発。20分後雪渓の末端に着いて一息入れ、よし行こうと立ち上がった途端Hが悲鳴を上げた。ぎっくり腰に襲われたのだ。皆の顔に緊張が走る。こうなったらもう歩けない。共同装備・食料20キロを10人で分けなければならない。私はこれからの長いルートを考えて、このまま帰宅させることとした。一人で帰れるか。顧問一人がせめて甲府までは同行しなければなるまい。甲府でその先ひとりで動けるかどうかを判断しよう、そう決めて私が同行することとした。甲府から一人で帰れれば、私は列車で反対側から逆コースをとり、塩見岳の頂上で合流することとしよう、そう決めてHと私は皆と別れることとした。私の共同装備のラジウスや食料も渡さなければならない。皆の荷物は40キロを越えることになった。
Hと私はそこから広河原ロッジに戻り、夜叉神峠越えルートが不通であることを確認し、タクシーで身延に出、列車で甲府へ。一人で動けることを確認して別れる。そのまま中央線で辰野で一泊。現役は北岳稜線に着いたろうか。

1977.07.28
翌28日列車で伊奈大島へ。そこからバスで07:20奥沢井(樺沢)へ。ここから山道の登りが始まる。三伏峠に12:00。塩見岳が見える(スケッチ1)。三伏小屋に12:40、避難小屋なのだろうか無料で泊まれる。残念なのはラジウスがないこと、予備食のアルファ米を水でふやかし、コンビーフで食べるしかない。現役は北岳を往復し、北荒川に幕営しているはず。スケッチ1は三伏峠からの塩見岳。
1977.07.29
29日。三伏小屋05:30発塩見岳頂上に08:30着。前回来た時、北荒川から塩見頂上まで1時間40分で来ている。もしや先に来ているのではと期待したが空しかった。それどころか待っても待っても現れない。迎えに行こうかと思ったが、アタックザックで来てしまったため何かあったら対応できない。スケッチしながら4時間待って、今日はもう来ないと判断して三伏小屋に戻る。スケッチ2は待ちくたびれた塩見岳頂上より雲に隠れる仙丈岳・甲斐駒ヶ岳・北岳‣間の岳・農鳥岳。スケッチ3は塩見岳直下の天狗岩。
一日2食に切り詰めた夕食はさらにわびしいものとなる。最後のアルファ米は一回で食べるのは危険だ。半分食べて残りは翌日にまわす。非常食のチーズを食べるともう何も残らない。わずかに残ったぶどうをアルファ米にまぶして食べた
1977.07.30
30日。アルファ米は手つかずに残して、再び塩見岳へ。今日会えなかったら最後の手段、20分登って三伏峠小屋に逃げ込むしかない。そうしたら多分もう会えないだろう。空腹をかかえて本谷山、権右衛門山のトラバースルートを通って頂上に着く。2時間ほど待った時、いきなり懷かしい顔がいくつもあらわれた。テントはまだ北荒川なのだが、もう一人の顧問新井氏が岩田先生が塩見の頂上にきっと来ている、行って来いというので来てみたとのこと。私はひとりから非常食をもらって安心して別れた。
15時過ぎ、三伏小屋にいた私の耳に1キロ先の本谷山中腹辺りから「イワタセンセ―イ」という合唱が聞こえた。ほかの登山者がいるので大声で答えるわけにいかない。次第に合唱が近づいてようやく合流することができた。夕食が美味かったのは言うまでもない。

1977.07.31
31日。山中最終日。アタックザックですぐ南の烏帽子岳と小河内岳に出かける。お花畑が美しく、なにより谷を隔てた塩見岳の秀麗な姿に見とれてしまう(スケッチ4)。


下のスケッチは反対側の小河内を越えて荒川三山を遠望したもの。

三伏小屋幕営地に戻ってテントを撤収してバス停のある塩川小屋まで下って幕営。明日はもう歩かない。大変な夏山だった。