偶然とはいえ、忘れられない出会いが重なる山小屋というのがある。くろゆりヒュッテだ。その記録を残しておきたい。
この夏久しぶりに北八ヶ岳黒百合平に泊まった。北八ヶ岳というと東側の稲子湯からしか知らなかった私が、始めて黒百合ヒュッテに泊まったのは60年の昔になる。山にひかれ始めたころで、中学の同級生Ⅰ君と一緒だった。夜、ランプの下で同宿の数人と遅くまで話し込んだことがあった。もう寝ようかということになって、北へ向かうその人たちと南の硫黄・赤岳へ向かう我々とは別れを惜しんで煙草を分け合った。そのあと詠んだ歌がある。
 暗き灯の下に寄り合い一箱のたばこ分け合いぬ旅の名残に
その頃私はタバコを吸っていた。30年前にやめたのだが、山の煙草の美味しさが忘れられず、山に来ると苦しかったものだ。

この夏の黒百合ヒュッテでも忘れられない人との出会いがあった。「今はもう行かないが、かつて越後三山のパトロールをやっていました」と自己紹介してくれたのです。歳は60位でしょうか。
越後駒ケ岳、中岳、大水上山、丹後山から十字峡へ抜けた山行は私の三十台のハイライトのひとつだった。それについては小誌「1974 利根の源流の雪田へ」でとりあげた。その懐かしい山を歩いていた人と出会ったということで、私はすっかりうれしくなり、いろいろ尋ねたり、記憶を確認したりした。その人も「よく知っていらっしゃる。」と快く応じてくれた。
私は気になった一つ、あの駒の小屋にはユニークなおやじさんがいましたがと聞いてみた。ひげだらけで怖い顔をしていながら、話してみるとあの山を愛していて、なんともうれしくなる人だった、まだ訪れる登山者も少なかった時代だった。おやじさんも人恋しかったのだろう、夜が更けるまで話が弾んだものだった。
「あの男はアル中になって管理人をやめました。山小屋で一人きりだと酒を飲むことくらいしか、やることがないので、アル中になる人はいるのです。」その人はそんなふうに話してくれた。
あの人のよさそうなひげのおやじさんがアル中にと、私は言葉が出なかった。何日も人の姿を見ないで、寂しさを紛らわすために酒を飲んでいたのだろうか。自分の人生をそんなふうに締めくくらざるを得なかった人の無残さにふれて、私は頭を垂れるばかりだった。
その人との話でもう一つ大きな収穫があった。「1974 利根の源流の雪田へ」に触れたところだが、利根川の源流のいちばん奥はハート形の雪田になっていて、その先端から滴る雫が小さな沢の流れになっている。

ところで、本庄の図書館のある古文書に次のような文章がある。
  水上町網子の古老の言
  此処から灼七里山奥、文殊嶽の中腹に文珠岩がある。大きくはないが形仏像の如く、胸部乳の如く膨れその裂け目から清水が迸り出る。古来之が利根川の源だとしてある。
その人に尋ねてみた。あの源頭の雪田が消えると、その後に水が湧く岩が姿を現すのですかと。その人は、いや雪田は雪田のままです、お話の岩はもっと下方にありますと語ってくれた。雪田と源泉の岩は別だったと知って、ああ大きな収穫だと嬉しくなった。
あそこはテントを張るのに困るほど、お花畑が広がっていたがと言うと、それは今もそのままですとの返事。私の脳裏に緩やかな斜面いっぱいに咲くハクサンイチゲの大群落が浮かんで、あの一緒に歩いた友はどうしているかなど、布団に入ってからしばらく思い出に耽ってしまった。

実はこの後、もう一つ思いがけない出会いがあった。私が理事長をつとめた岩田学園の本庄東幼稚園で学童保育を担当していたkさんが山好きだと知っていろいろ話した。あるとき、小出市出身だと知って、越後駒ケ岳といういい山がある、山小屋のおやじさんが魅力的な男でと語り始めたところ、いきなり「ろくさんでしょう」との返事。びっくりした私がだんだんに尋ねて分かったことは、彼女が高校時代山岳部で、越後駒はベースグラウンドだった、六さんとも親しく、亡くなったときは山小屋でお別れ会をやったということだった。驚きの連続で、最後にあのひげおやじさんがなくなったことを知って言葉が出なくなったことを覚えている。
 美しい山とそこに生きた一人の男、その話を二人の人から聞いた、偶然とはいえ何か素通りできない思いがする。
 
翌日、妻と東天狗・西天狗に登った。展望も素晴らしく、硫黄岳の爆裂火口はいつ見ても凄まじい。その向こうに2899mの主峰赤岳が聳えている。写真は黒百合ヒュッテ上より東天狗と西天狗。この3月に訪れて、猛烈な吹雪のために山頂まで30分の地点まで来ながら引き返さざるを得なかったのがうそのようだった。この山行、特に夜の語らいがこの夏の収穫のひとつとして残ったことだった。