谷川岳は標高2000m足らずと低く、岩山でもあり、夏登る山ではないといわれるが、息子、孫娘と一緒に出掛けるには夏休みしかチャンスがない。なぜ谷川連峰か。息子とその兄が小学生だった時に家族で蓬小屋に泊まって谷川岳天神尾根までたどったことがあり、ひと世代後のメンバーと一緒に同じ山を登っておきたいという思いから選んだものだ。孫娘二人のうち一人が受け入れてくれた。
2012.08.16
一日目、天神尾根の登りは、避難小屋を過ぎるとブナの樹林帯が終わって、その先は岩場の連続となり、暑さがこたえる。関越自動車道の排気煙突を見ても、開け行く景色を見ても、孫娘は不機嫌そうだった。高校で山岳部員だった息子と息子が入学する前に山岳部顧問だった私だけが、上州武尊だ、至仏だ、笠だ、平が岳だと大騒ぎしていても、孫娘にとっては知らない山だ。かわいそうに、耐えるだけの登りだったのだろう。それでも肩の小屋が見えたときはうれしそうだった。ただ、肩の雪田が全く消えてしまっていたのは残念だった。真夏の雪の味を味わってほしかったのに。小屋は新しく、相部屋だったが気持ちいい部屋だった。
荷物を置いて、缶ビールだけ持ってトマノ耳(1963m)に出かける。目の下にマチガ沢が下っていて、その横に巌剛新道と緑の西黒尾根が登ってきている。むかし頂きにあこがれて辿ったコースだ。今思うと、その頃の方が山に対する敬虔な気持ちは強かったように思う。魔の山といわれる山に向かったからだろうか。あるいは夜行列車で着いて土合駅で仮眠して明け方歩き始めるというような行程だったことも一因だったろうか。1340mまでロープウエイで登ってあとは急ではあっても短い安全なルートであれば、それほどの覚悟はなくて済む。われわれの日常は畏敬の念などというものを失ってきているということだろう。
目の前には、湯檜曽の谷を隔てて白毛門、笠、朝日が迫り、右手正面に武尊山がすそ野を引いてどっしりと構え、最高峰沖武(おきほ)の左に隠れるように日光白根が顔をのぞかせ、剣ヶ峰の右にすっきりと皇海が聳えている。左に目を移すと巻機への稜線が伸びて、越後三山も指摘できる。いつもながら、山頂から眺める山々は遠い日への思いを誘い、立ち去りがたくする。
18時にカレーの夕食が終わるともう何もすることがない。息子と孫娘は食堂のテレビを見ながら小屋のおやじさんと話をしているようだ。外はガスが出て星空も期待できず19時過ぎに三人とも布団に入った。ところが20時に目が覚めてふと見ると、頭上の窓ガラス越しに星影が見える。二人を起こしてそとにでてみた。まずカシオペアが頭上に大きく広がり、天の川の中央に白鳥座がこれも大きく見える。孫娘に話すのだがまだ興味はなさそうだ。というより、星空の大きさと美しさに圧倒されていたようだ。
その時だ。息子が「花火だ!」と叫んだ。目の上の星空と別に、目の下には水上町の夜景が広がっている。声に促されて捜したのだが見つからない。ようやく目がとらえた花火は、私の持つイメージとかけ離れているものだった。下の方で小さく丸いものがいくつもついたり消えたりしている。音は全く聞こえない。花火大会の花火を上から見るなんて発想は今までなかったわけで、それはそれでまた感動的だった。
このスケッチは20年以上前のもので、平標山から今回のルートを眺めたもの。今回は左ページの谷川岳から左へ一ノ倉岳・茂倉岳をたどり、向こう側へ下った。後ろのピークは至仏山と笠が岳。
2012.08.17
二日目、5時40分小屋の前に出ると、一ノ倉岳から茂倉岳へのなだらかな馬の背の稜線が緑色に美しく延びているのが見えた。あそこを歩くと思うと嬉しくなる。
6:57出発。トマノ耳からオキノ耳へはまず下りだ。ここから思いがけずたくさんの花々が我々を迎えてくれた。ハクサンフウロのような夏の花からリンドウやワレモコウのような秋の花まで、豊富な種類のお花畑がずっと続いて、歩きながら楽しくてならない。右は断崖絶壁だが、左側はなだらかに谷に落ち込む笹原で、太平洋と日本海との分水嶺を快く辿る。昼寝の誘惑に駆られる縦走路だ。ただ一ノ倉岳までのアップダウン、特に下りは孫娘にとって厳しいものとなる。それでも茂倉岳(1977m)に8時30分に着いた。
ここから武能岳までが長い。それでも尾根が彼方まで延びていて目指す武能岳は200m以上低く楽しく歩けそうだ。タカネナデシコの群落に出会ったりして武能(1760m)には11時に到着。ラーメンの昼食を済ませて出発する。前回、蓬小屋からここまで登った時は、朝露で下半身はびっしょりになって大変だった。それでも小学生の二人は不平も言わずよく登った。30年以上昔になる。息子はこの蓬小屋からの緩やかな斜面を覚えていると嬉しいことをいう。
蓬小屋の手前を右に折れて湯檜曽の谷に700m下る。ここからの下りが残酷なものとなった。下っても下っても湯檜曽川ははるか下で、そのうち雷鳴がとどろき始め、さらに雨まで降ってきた。尾根で雷にあったら大変と背筋を寒くしながら休みを取らずに急ぐ。ようやく武能沢に着いたときは15時になっていた。雨はあがった。豊富な沢水で思う存分のどを潤し、息子と私は頭ごと水に着けて生き返った思いだった。
三人ともここを動きたくなくなっていたのだが、そうしているわけにいかない。全行程7時間コースなのにここまでにすでに9時間過ぎている。心を奮い立たせ、更に歩きに歩いてマチが沢に着いた時には11時間になろうとしていた。
孫娘は弱音を吐かない「お前は強くなったなあ。11時間も歩けるなんてたいしたもんだ。」と感心する私に彼女がぽつりと言った。「精神力で歩いているんだから。」私は感動してしまった。いつのまにかこんな言葉を口にするようになっている。山も花も美しく心に刻まれていたけれど、この言葉の前にはかすんでしまう。
この言葉に出会えたのがこの山行でばかりでなく、今年一年を通してのいちばんの収穫だった。
息子は息子で、30年前に思いを馳せていたのであろう。湯檜曽の谷への入り口で、「30年後におれの孫とここへ来るぞ。」と言挙げした。今回の三代一緒の山行を次は自分が長老として繰り返したくなったのだろう。この発言も孫娘に次ぐ傑作としてここに記録しておきたい。
今回の山行はハードだった。重い荷物を担当した息子は、下りで飛ばしたためひざを痛めてしまった。昔バスケットで痛めたのが再発したようだ。孫娘もしばらく山は・・と述懐したそうな。私も何日かももが筋肉痛となった。それだけ、この山行が貴重なものとしてそれぞれの心に保持されるようになったようだ。