この夏山合宿の記録に期日は7月21日から7月27日とある。計画表では28日まで、8日間である。埼玉県高体連山岳部の規則では合宿は7日以内となっていたが、熊高山岳部はこれを山中7日間と解釈して前後の列車・バスは日程に入れなかった。もちろん拡大解釈である。それが通ったのは、これまでの実績を認めてほしいという吉川先生の要求があったからなのだろう。黙認されたようだ。
熊高山岳部の「テンノウ」と異名を持つ吉川敏夫顧問は県下で最も早い時期に山岳部を創立した男で、規則に縛られることを嫌う詩人肌の人であった。私は高校で氏の教えを受けたが、まず思い出すのは、当時畑の中の学校だった赤甍校舎は春になると牛糞を鋤きこむ匂いが漂ってくることがあった。そんなある日、授業中みんなが「くせえな」とこぼしていると吉川氏いわく「風薫る五月というでしょう。これですよ。」と平然とリーダーを読んだりしていたものだった。はからずも山岳部で同じ顧問となり、授業中には見せなかったいろいろな面を知り、特に山への愛情などを学ぶこととなった。私に山の魅力を教えてくれた町田瑞穂氏は本庄高校で山岳部を立ち上げた人だったが、同じ年代の人だったようだ。その世代の教師たちが高体連山岳部顧問のリーダーとなって、各校山岳部・ワンダーフォーゲル部・登山部の顧問研修会をもってくれた。私は12月の富士山での冬山訓練で、大根おろしのような氷の雪面で滑落停止の練習を繰り返し、オーバーズボンやヤッケをぼろぼろにしたことを覚えている。
また,地吹雪の中、吾妻連峰をスキーで横断し、小さな温泉小屋でどぶろくで深夜まで語り合ったことも・・・そのほかその後の顧問としての気構えや技術的な自信を授けられたことが大きな財産となっている。
今回その吉川氏と同じく先輩顧問の松井氏にいわば夏山縦走見習のような形でつれられて出かけたのがこの夏山合宿であった。松井氏は身体は細いが全身ばねのような体力を持っておられた。秋田の高校から転勤してきて、スキー部の顧問も兼ねていた。

1968.07.21
熊谷駅0:24=(信越線・篠ノ井線・大糸線)=信濃大町9:28/10:00=(バス)=七倉11:00ー濁沢幕営12:35
バスを降りてから炎天下を歩く。トロッコの軌道が延々とつづいてその上を歩くのが暑かった。高瀬川に造られるダムの工事のための軌道だろうか。私の持つ5万分の1「槍ヶ岳」は、1961年版にはまだ高瀬ダムはなく、1986年版には記載されている。調べて見ると、高瀬川には上流から高瀬ダム、七倉ダム、大町ダムと三つのダムがつくられている。初めの二つは着工1970年、完成1979年とあるので、我々が歩いたトロッコ軌道はそのための資材を運ぶために設置されたものであろうか。
また高瀬川の最上部は三俣蓮華岳に突き上げる伊藤新道である。1961年版には槍ヶ岳への登山路が2本記されているが、新しい版には消えている。ダムの出現が山へのアプローチを変えたようだ。
ともあれ、1時間半の行軍で、濁沢の出会いに着いた我々は、夜行の疲れもあり、明日のブナ立て尾根を控えてもあって、ここに幕営することとした。

1968.07.22
2時に起床。星空が美しい。いよいよ北アルプスの縦走路までの登りの日だ。1300mから2551mまで1200m差の急登に挑む。
4:20 あたりが白む中出発。つづら折りの急登が続き、8時には腹が減りみなバテる。Hが遅れだす。2208mの三角点で休憩。10:30ようやく稜線に飛び出す。烏帽子分岐だ。庭園のような風景の中を烏帽子岳へ。雪渓の水が冷たくなんとも美味。11:30山頂着。のんびり12:00まで休憩する。頂上よりの展望は、針の木、船窪、蓮華、三つ岳、野口五郎、水晶、赤牛、薬師、五色が原、立山三山、剣等と360度、興奮する眺めだ。それぞれ雪渓が美しい。スケッチを済ませ烏帽子小屋へ向かう。13:00烏帽子小屋下に幕営。水場はなく、小屋で50円/ℓで買う。テント横より燕・槍・穂高が目の前だ。

1968.07.23
夜空の下に大町の灯が美しい。4:15出発。今日は雲の平まで。稜線歩きは楽しい。快適に歩いて三つ岳に5:10.そのまま野口五郎岳6:55/7:20.野口五郎岳の五郎とはゴーロ(岩がごろごろしている場所)の意という。さもありなん。10:10/45水晶小屋で昼食をとる。時間がなく水晶探しは後日としよう。なだらかな稜線を辿り、左下に鷲羽池を小さく眺める場所で右折して祖父岳経由雲の平へ。五色が原のような平坦な草原をイメージしていたが、傾斜もありハイマツが近くまで迫っている。黒部の源流は小さな雪渓だった。ハイマツの緑と映じ合って美しい。12:25雲の平山荘の手前で幕営。目の前に黒部五郎岳が大きい。テントの中よりスケッチする。水が冷たい。

1968.07.24
今日のコースは、まず雲の平から黒部川を渡る。対岸の稜線に出ればもう立山連峰だ。裏銀座の山々とお別れだ。
4:45雲の平幕営場(と言ってもどこへでもテントを張れるほど広かった。)を出発。2463mの三角点を過ぎてもなだらかな下りだったが、そこから15分で黒部の谷に向かって急降下がはじまる。
7:08薬師沢出会いで黒部川を渡る。黒部川はここからわずか行くと両岸切り立った断崖となり、上の廊下、下の廊下へと続いて行く。我々は薬師沢の谷に入りしばらくなだらかな登りとなる。8:45薬師沢を過ぎると登りが一気に急となる。わたしはここでエネルギー切れとなってしまった。足がどうにも上がらない。見かねた松井氏が非常食のチョコレートを出してくださった。不思議なことにエネルギーが充填された感じで足が進む。部員たちも限界に近い状況となる。稜線近く傾斜が緩やかになったところで1時間の大休憩を取り昼食とする。
今日の予定は薬師避難小屋までだったが、幕営地がないと告げられ、太郎小屋の先のコルで幕営とする。11:35になっていた。顧問とOBは雪渓で冷やしたビール。OBのO君のもってきたコーヒーが何とも言えず美味。此処は折立峠から入る人たちが多く、テント村は盛況。夜いつまでも煩かった。彼らの中には空身で薬師を往復するものが多い。
ミーテイング時の今日の反省。下りの後の登りはきつい。下りでエネルギーを使ってしまってはいけない。登りのためのエネルギーを確保しておかねばならないー身にしみて感じたことだった。明日は薬師越え。でっかい山だ。

1968.07.25
今日から立山連峰に入る。立山、剣までまた長いコースとなる。
4:00出発。朝焼けの薬師岳を目指す。期待通り6:07頂上到着。右手に大きな圏谷群が黒部の谷に落ち込んでいる。スケールの大きな豪快な景だ。20分休んで、北薬師を目指し白い花崗岩の砂礫の中を進む。北薬師7:10/20。ワンピッチで間山へ。ここで35分間昼食をとる。ここまでは順調だった。2200mのスゴ乗越から越中沢岳の登りでTがバテる。急な登りが続く。今日は沢岳手前、スゴの頭とのコルでビバークという声もあったが、そのまま行く。五色までの決意で。越中沢岳到着13:08。少し多めの休憩をと思っているところに雨が降り始めた。急いで出発する。いやな登りだったが頂上からの下りはなだらかだ。ガスの中すぐに快適な場所に出た。13:45五色は目前だが今日はここでビバークすることに決定。ガスが晴れて、振り返れば沢岳が高く、薬師が大きい、雪渓の水が冷たく、人影はなし。

1968.07.26
出発4:45.昨日の続きのなだらかな下りの後、鳶岳の急登へ。5:45頂上着。ここで昨年南アルプスで会ったという同志社大の女子パーテイに合う。10分休憩の後五色が原へののんびりした下り。いつか来た道。五色が原の流れには氷が張っていた。1日寝そべって空を眺めていたい気分。ザラ峠に急降下して向う側へ登り返す。獅子岳の急登でエネルギーを使い果たし、空腹のためダウン。鬼岳頂上は巻いて東面で昼食とする。8:25ー55。1時間で竜王岳を越えて一の越着。10:00発。ここからが苦しかった。立山の雄山・大汝・富士折立の三山、さらに真砂・別山をOBにハッパをかけられつつ一歩一歩。剣御前に13:00、一の越から3時間かかっており、13:20剣沢についた時は食欲もなくなっていた。これまでこんな長い山行を経験しなかった自分にとっていい試練となった。しばらくしてようやく元気になり、目の前の剣岳をスケッチ。豪快な岩の殿堂だ。剣沢も大きい。下って行けば秘境と言われる仙人池に行ける。池に映る剣岳を見てみたい。
明るいうちにシュラフに入ったが、21時頃より台風のための烈風が吹き始めて目が覚める。明日が心配だ。

1968.07.27
強風が吹いている。剣岳登攀は断念して下山することに決定する。朝食を取りテントを撤収して5:50出発する。剣岳は学生時代に3人の仲間と訪れ山。アタックザックで行動できたのにと未練が残る。剣御前小屋に登り返して、雷鳥沢を走り下りる。みくりが池手前で、昨年まで勤務していた川越女子高校の楠川、小峰、永瀬の3氏の引率するパーテイに会う。在任中登山部を作ろうと話し合ってきた実が結んだのだろう。祝福して別れる。
室堂からバス。とうとう終わったという感慨しきり。下界はやけに暑く、風もなかった。10:36富山発の北陸線で熊谷へ。

一人分経費
列車  熊谷ー大町    860
富山ー熊谷   1,600
バス  大町ー七倉    150
室堂ー富山    970
食費          1,800
幕営料・水        500
計           5,880
他に個人として 富山駅での鱒ずし 300

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