南アルプスというのは、ぼくにとって北アルプスとはまた違った魅力を持つ山々だ。南アルプスというと東に前衛として鳳凰三山があげられる。それに対して、北にも前衛と呼んでいいような甲斐駒ヶ岳がある。前衛というにはあまりに立派な山だ。中央線に乗って甲斐盆地を出はずれるころ、甲斐駒の荒々しい山容が迫ってくる。八ヶ岳からも甲斐駒は大きい。
その甲斐駒と野呂川を挟んで対峙しているのが、日本第二位の高峰北岳だ。現在南アルプスの縦走路は北岳から始めるのが普通である。私が熊谷高校に赴任する前の山岳部は、伊那谷からバス1時間半で戸台まで入り、1日がかりで北沢峠へ。そこから大カールの仙丈岳を通り仙塩尾根に入って野呂川に500m下り、1000m登り返して北岳へというものすごい歩き方をしたことがあると聞いた。顧問の松井氏の話である。
南アルプスは、縦走する場合普通真ん中辺の三伏で南北に分けて行うのが高校の山岳部では普通になっているようだ。北部はいうまでもなく北岳がメイン。そこから稜線歩きが楽しめる間の岳へ。さらに次の名山塩見岳が待っている。
南部は大きな山塊が三つ、荒川三山、赤石岳、聖岳があって、茶臼岳の手前から畑薙ダムへ1500m下降する。
茶臼は往復するが、その先はあまり行かないようだ。ただ易老岳・光岳が南アの南端とされる。名前だけ聞いても訪れたい山ではある。
今回、この北部・南部を一回の縦走で踏破することとした。日程は1969年7月21日~30日の10日間です。南アルプスとは名のみ聞いていてまだ一歩も踏み込んでいない。これまで鳳凰三山だけは3回ほど登った。今度はスケールが違う。大きな山肌に蟻のようなわれわれがが取り付いて動くともなく登っていく、そんなイメージが固定化されて、出発前からかなり緊張を強いられた。
1969.07.21
甲府12:30/55=(バス)=広河原14:38/45—野呂川広河原14:58
甲府からのバスが夜叉神峠を越えると目の前に北岳・間の岳の大きな姿が聳え、目の下の野呂川への谷が深い。明日はあの稜線に立つ。
1969.07.22
03:45出発。顧問もはじめてのルートで、出発からまごついてしまう。暁闇の中に大樺沢(おおかんばさわ)の水が白く光る。コマドリの甲高い声、その後オオルリのさえずりが美しい。06:50雪渓の下端に到着。10分休憩。水の冷たいこと、山の味だ。此処から雪渓の登り。次第に急登となる。凹面鏡の底となってたまらなく暑い。09:00ようやく稜線八本歯のコルへ出る。此処で昼食。北岳が圧倒的な姿で迫る。分岐に荷物を置き、09:50北岳ピストンに出発。10:48頂上着。頂上から仙丈、駒、鳳凰が雄大だ。仙丈はどことなく女性的なところを持つ優美さが感じられる。いっぽう東側はガスにおおわれていた。
稜線小屋へは正午直前に到着。一昨年12時間を要したという話が嘘のようだ。雪渓の雪にインスタントジュースの粉をかけて「赤城しぐれ」の2カップ分を食べる。スケッチをした後、FⅯでメンデルスゾーンの宗教改革を聞きながら午睡。至福のひと時だった。
1969.07.23
前日夕食後飲んだコーヒーのせいか、熟睡できず不吉な予感。06:00出発。リーダーは出発から飛ばした。間の岳への登りも快適に過ぎる。途中雪田で休憩を取り、間の岳に07:58着。日本第3位の穂高に1m足りないだけ。ただ、山高きゆえに尊からずの言葉が浮かぶ。間の岳には間の岳のよさがあり、山の良さとはそういうものが総体となって自覚されるものだろう。また此処は長野、山梨、静岡の三県が合わさっている所。地図を見ると静岡県がここまで頭をもたげている。大井川の源頭の谷がここまで延びているからであろうか。源頭の先の稜線に「井川越」なる地名が五万図に記されている。今の熊ノ平だ。信州から参州に抜ける道があったのだろうか。昔人の姿を思い描いていくと興味が尽きない。
やがて三峰岳、ここは仙塩尾根に合するところである。仙丈岳から塩見岳。長い長い尾根である。今は北岳からのルートがメインになっている。そこから標高差400mの下り、途中からなだらかになる。行く手に塩見岳、荒川岳が我々を迎えてくれる。目の前にはシナノキンバイの群落が美しい。熊ノ平の水場はうれしい。昔の旅人も此処で生き返った思いをしただろう。ここからなだらかな稜線歩きとなるが、此処から私が遅れだす。睡眠不足がこれほど大きな意味を持つことを知ったのは初めてだ。新蛇抜山という不思議な名前のこぶで昼食をとって少し人心地がつく。そのうちガスの中となり雨となり、12:50やっと北荒川のお花畑について雨の中テントを設営する。夜になり雨が激しくなる。明日はチンデン(停滞)か。
雨の音を聞きながら、芭蕉『奥の細道』の白河を越えて「旅心定まりぬ」と述べた言葉が胸の中を去来する。自分はまだ定まり切っていない。
1969.07.24
雨依然として激しく3:30朝食を取りミーテイング。天気図を見て天気好転の可能性なしと判断して停滞を決定。ひたすら眠る。
ここで言い訳を一つ。
夏休み初日からの合宿は私にはつらい。私の担当する教科にかかわっている。期末テストが終わって、生徒は解放される。私の担当する国語では終わった日からそれこそ睡眠時間を削って必死に採点しなければならない。数学などはその日のうちに答案を返す教師もいる。国語の場合もセンター試験のように選択肢から回答を選ぶような形であればあっという間に終わるだろう。私の目指すのは生徒が自分で表現することであって、どうしても一枚一枚悩みながら〇を記したり、こちらの意見を書き込んだりということになって、採点が終わると消耗しきってしまうのが常である。同僚で、勤務時間内に採点が終わるような問題づくりをすべきだと言って涼しい顔をしている教師もいる。それはその人の主義によるので、自分のやり方を変えようとは思わないのだが、それでもこの採点期間は地獄である。採点後の成績評価や成績会議資料の作成や通知表づくりは他の教科と同じであるが、疲れのとれぬまま終業式が終わり、翌日から若さで爆発しそうな現役と山に登るのは、どうしてもハンデイを負わされることになる。
そういうわけで4日目に一日テントの中に眠れるのは、何よりもありがたいことであった。
1969.07.25
05:40、辺りのお花畑の別れを告げ出発。初めは呼吸が苦しかった。一日寝ていて身体がなまったらしい。
それでも一日休んだ効果はてき面に現れた。右手に北荒川の大きなガレ場を見て進むうち、ハイマツの稜線にガスが晴れて、目の前に塩見岳が雄大な姿も見せた時、ああ来てよかったと嬉しくなる。
06:45北俣分岐。左へ行けば蝙蝠岳だ。直進し、ペースをあげて岩場を登り7:10、3052m(三角点は3047m)の塩見岳頂上に立った。岩場の周辺に今回の山行で初めてイワカガミを見る。雲海の上に遠く槍・穂高が美しかった。塩見はいい山だ。生まれる子が女の子だったら志保美と名付けよう。いつかきっとこの山に来て私の心を感じ取るに違いない。父親になった喜びをあらわに知らせてよこした畏友Ⅰのことが思われてならなかった。
山頂を07:25発。岩場を下って樹林帯に入る。権右衛門はトラバースルートで、本谷山を09:35に通過。三伏幕営地に09:55着。三伏峠小屋へ行き熊谷高校吉川顧問に電報「アメデ一ヒノビル、ミナゲンキ、イワタ」。戻ろうとすると小屋にいた中学生のパーテイの女の子に林檎を差し出される。くたびれた顔をしていたのだろうか。
戻って水場で汗まみれのシャツを洗濯。頭を洗うためお互いに水を注ぎ合う。いい一日が終わる。夜雨激し。
1969.07.26
霧雨の残る中、ラーメンの朝食をとり04:00出発。烏帽子岳へは標高差300mをダイレクト。左に塩見が秀麗な姿を見せる。お花畑の中を進む。今日の予定は高山裏露営地まで、8時半ごろ到着の予定だ。その先荒川小屋まで延ばすべきかどうか迷いつつ歩く。小河内岳は三角形の美しい山だ。頂上で頭上のガスの切れ間から青空がのぞく。今日も晴れるか。真下の草地の緑が目に染みる。肩まで降りた時聖岳の美しい姿が南に霞んで見える。あそこまで行く。荒川岳が左に大きい。塩見で見た幻の山だ。瞬間的にガスの中に隠れてしまう。「行くぞ。」リーダーが声を上げ、たちまちガスの中に沈んでいく。07:18大日影山と板屋岳の鞍部で間食のアンパンがうまかった。08:50高山裏露営地に到着。此処から荒川岳の急登が始まる。荒川小屋へはあと3時間。今日はここまでにしよう。長丁場なのだから。
それにしても露営地なんて古風な名前だ。他に一パーテイ、共立女子大のワンゲル部がのんびりしていた。尋ねると今日は休養日とか。うらやましい。飛ばすだけが山ではない。女声合唱が聞けた。我々の歌う山男の歌ではない。天使の歌声のよう。草の上で午睡。午后夕立あり。
1969.07.27
05:05発、いよいよ荒川岳の難所へ。ガスの中で右側の大崩壊は見えず、なんということなく前岳頂上へ。途中一瞬ガスが晴れて、カールの下方が一望のもとに見渡せた。ハイマツの緑が雨に濡れて美しい。その中を追い越してきた女子大パーテイが小さく連なって見える。荒川中岳は10分もあれば頂上に立てるのだが、先を急ぐ部員は横目に見て素通り。いつかまた来て楽しみたい山だ。
ルートは500mぐんぐん下って08:00荒川小屋へ。そこからは稜線の下を大きくトラバース。水平道をたどって赤石岳とのコル大聖寺平へ09:00到着。岩のごろごろしただだっ広いところだ。此処から再び400mぐんぐん登って小赤石岳に9:30到着。此処で10:05まで昼食。すぐ横を雛を4羽連れた雷鳥が逃げようとしない。お花畑と雪田がその背後に広がって、南アルプスは平和な山だ。100mほど登って3120mの赤石岳は10:23。
昨日の夜、米16合とジャガイモを出して荷が軽くなって快調だ。再び急降下となだらかな稜線の下りとなり、2780mのポイント百閒平に来た時、目の下300mに百間洞(ヒャッケンボラ)の草地の緑が小さく見え、其の先300mの高さの壁のような大沢岳が我々を待っているのが見えた。南アルプスはスケールが大きいというのはこういうことでもあったか、と妙に納得する。百間平はハイマツの原が広々と広がり快いところだが、今回の山行はゆっくりと味わうゆとりがない。300mを30分で下って11:45百間洞露営地着。今日はここまで。水が豊富で、他にだれもいない静かな幕営地だ。冷たい水に溶いたスキンミルクがうまかった。シャツを洗濯する。
1969.07.28
出発05:10、今日は聖越えだ。12月の富士山5合目から遠望した屋根型に白く光る聖岳のイメージが甦る。
早朝は急登も楽だ。昨日の百間平からの下りと同じ標高差を一気に登り返して06:10大沢岳へ。
昨夜も夢を見た。妹昭子の結婚式の夢。同行顧問のⅠ氏はその話を聞きホームシックだという。そうかもしれぬ。稜線はすさまじい絶壁の縁を行く。稜線から反対側の谷を見下ろすと沢が光って見える。あそこへ行けばすぐに人里へ出られそうだ。望郷の念に駆られた旅人は、昔からそこへ降りてしまった人がいるだろう。その人はどうしたろうか。
兎岳と聖岳のコルから聖の大きな山容が姿を現した。前前聖が3011m、奥聖が2978m、その間の稜線はほぼ水平で秀麗な山だ。振り返ると荒川岳と赤石岳が見え、その向こうに塩見が霞んでいる。あの向こうから歩いてきた。頂上は強風のガスの中。ガスの中にかすかに奥聖への稜線が浮かぶ。ハイマツに覆われた、心惹かれる景色だ。ただルートは前聖からそのまま先に下っていく。300m以上急降下して小聖の台地、さらに300m以上下って、聖平露営地に11:25到着。お花畑に囲まれた別天地だ。
1969.07.29
02:20起床。いよいよ畑薙ダムに下る日だ。ここまで皆よく頑張った。あと今日一日何とか故障なく下れることを祈る。
05:20出発。天気はガスと強風で寒さを覚えるほど。まず目の下に見えるなだらかな上河内岳を目指す。ルートは頂上を巻いてトラバースで下る。五万図に「御花畑」とあるが、ガスの中見えるのはむきだしの土壌。ただここは天然記念物・亀甲土壌である。水の流れ・染み入り方がこの模様を作ったのだろうか。不思議なことである。30分で茶臼岳頂上へ。08:10にになっていた。今回の南アルプス縦走はここまで。先の易老岳、光(てかり)岳という名に未練を残しつつ10分手前の下降分岐点に戻る。
ここからが今日の正念場。1500mを下るのだ。08:40発。初めなだらかだった山道がすぐにものすごい傾斜となる。九十九折れの下りを1時間、横窪小屋が現れる。5分休憩。道がややなだらかになったかと思う間もなくまた急降下。10:23ウソッコ沢のつり橋が現れて、ここで昼食休憩。地図ではこの先水平道とまではいかなくてもかなり緩やかになる。急な下りが2か所あるが距離的に短い。気分的に楽になり12:10畑薙大吊り橋に到着した。
今回最後の歩きがこの大吊り橋だ。畑薙ダムは私の1957年版の五万図にはまだ見られない。高度成長期に電力供給のためダムが日本中に造られた。その一つなのであろうか。とにかくこの吊り橋はものすごい長さなのだ。あとで調べたら181.7mあるという。その後揺れを防ぐためか幅広の横木が渡されたが、我々の時は中央の通り道の板が並んでいるだけの吊り橋だった。両側のワイヤを握りつつ、揺れる橋をバランスを取りながら進む、それはこの吊り橋を懸けた人を全面的に信頼するしかないという不条理な吊り橋である。もっともどんな小さなものであっても吊り橋というのはそういうものであるが、この橋の中央に差し掛かるやそんな諦念に襲われるのである。
とまれ、全員無事にわたり終わって、すぐ横の蓬澤橋幕営地にテントを張ることができた。12:20になっていた。
1968.07.30
バス停まで50分歩く。07:36のバス。3時間半も乗って着いた静岡は灼熱の町だった。電車の入り口横のパイプが熱いのである。静岡発12:16.東京経由熊谷着16:42。長い10日間だった。
スケッチは幕営地からのダム風景。吊り橋がかすかに認められる。