私の住む本庄台地を北に下って畑の中に立つと、北西に真っ白な浅間山が秀麗な姿を見せてくれる。
火と吐く命秘めながら
しずかに眠るかの山よ
ああ大いなる火の山を
見つめし若さ今も忘れず
私の青春期の入口で、伊藤久雄が歌った歌だ。この「火の山」とは浅間山のことだと私は解釈して、こっそり自分の歌としてきた。
初めて頂上を踏んだのは20歳の初夏だった。以来その数は20回を越えている。コケモモを摘んだり、山菜を採ったりで訪れた回数を入れると数え切れない。浅間は私の山(私だけのという意味にあらず)となっている。
とすれば、このブログに、浅間とのかかわりを残していく事も許されるのではないかという思いがある。浅間山には忘れられない思い出がいくつもあるのだ。爽やかなものの方が多いのだが、今でもそのときの事を思い浮かべて、ぞっとするものもある。今日は後者の話を。

もう一歩で爆裂口に
40年以上も前、私は山岳部の顧問として、高校生5名と一緒に、浅間を越えた事がある。1969 年02月08日と記録がある。
熊谷発00:16の夜行列車は満員で、途中から乗るわれわれはデッキに入るだけで精一杯だった。3:03中軽井沢下車。スケートセンターまでバス、そこからタクシーで峰の茶屋には未明の4時半に着いた。強風が周りの樹木を揺らして音を立てており、星空だけが微動だにせず頭の上に広がっていた。これから始まる山行に緊張が高まる。
そのまま出発して、森林限界で持参した朝食をとり、アイゼン装着。小浅間のコルまでくると、小浅間が朝焼けの空にくっきりと立っていた。
そこから試練が始まった。次第に風は強くなり、すぐに強風の吹きすさぶ世界となった。独立峰の特徴だ。ただ、富士山のように突風が襲うということは無いようだ。それでも風でバランスを崩せば滑落の危険がある。飛ばされないように身体全体をぐっと前に傾けて、さらにアイゼンの8本(当時われわれが使っていたのは鍛造8本爪だった。重く頑丈だった)をしっかり踏み込んで、ピッケルを構えて、一歩一歩慎重に進む。富士山の雪は青氷のようだが、浅間はウインドクラストした雪がビシッと斜面に付いていて、アイゼンの爪はしっかりきく。風に飛ばされて厚さは数センチしかない。普段の山行はリーダー(後にはサブリーダー)が先頭に立つのだが、視界不良、強風ということで、途中から顧問の私が先頭に立った。左前方からの吹雪で、みな左側の頬に氷が張り付き、目出帽(我々はメダシ帽と言わず、メデ帽とよんでいた)と髪の毛は左側が真っ白になった。
単調な登りだが、東前掛け(2400m)への登りから傾斜が増し、吹き付ける雪で視界はまったく利かなくなった。5万分の1の地図を広げ、現地点を確認して進む。ごうごうと吠え叫ぶ風に抗して身体をさらに前に倒し、斜面が30㎝くらいのところに見える。後ろに続くメンバーに大声で声をかけるのだが、風で聞こえているのかどうか分からない。初めて経験する厳しさに、高校生は必死のようだ。顧問に対する信頼感があるから黙って続いてきてくれると思うと、私も必死になる。
そのときの私の気持ちは、敢えていうなら「無」だった。一歩一歩足を運びながら、吹雪と対決しているという意識はない。むしろ一種の喜びのようなものが私を満たしていたと記憶している。浅間山に入れてもらっている、浅間山の厳しさを私が受け止めて、私がそこに包まれる事をねがっている。私はまだ大丈夫ですという気持ち。これは、自然を征服してやろうといいうような傲慢さ(自然を征服するという、いわば西洋的な自然観は私にとって傲慢なものだった)とは異なるものだ。その気持ちは意識的なものではなかった。つらいとかもっと俺を試してみよとかとは無縁な、「無」の境地だったと思う。
目の前の真っ白な雪の斜面を見ながら歩を進めていた私が、ふと「ん?」と立止まった。目の前の白が、それまでと違ってやや灰色を帯びているのだ。ブリザードのような雪のため、その境目は見えない。私は確かめようとピッケルで目の前を薙いでみた。何の手応えもない。初めなんだか分からなかった。次の瞬間、あ!自分は噴火口の縁に立っていると気づいた。ぞっとする思いと同時に、後続の生徒に大声で「とまれ!くるな!」と叫んだ。数メートル後退させて、私もそこまで戻ったとき、改めて恐怖で足が震えた。もしあの色の変化に気づかず、もう一歩前に出ていたら、私は噴火口の中に転落していた事になる。生徒たちが留まってくれればいいけれど、そのまま続いたらどうなったか。この恐怖は42年たった今もリアルに蘇ってくる。冬山の恐ろしさである。

雪中彷徨
その山行の恐怖はそれだけで終わらなかった。噴火口から10メートル下ったところを周って西側に出たのが10時過ぎ、急な下りを走るように下って、湯の平にたったのが11時だった。風はそれまでがうそだったかのように無くなり、雪だけが激しく降っていた。部員全員気が抜けたように座り込んで昼食のパンを食べた。気が抜けたようにと言ったが、緊張が緩んだということであって、後になって聞いてみると、生徒は厳しい試練を乗り越えた誇りと喜びが若い身体に一杯になっていたようだった。(写真は別の年の湯の平。青空がうそのようだ。)
第二の試練はその後すぐにやってきた。アイゼンをワカンに付け替え出発したのだが、樹林帯に入ったとたん雪が深くなり、すぐにルートを見失ってしまったのだ。歩いても歩いても樹林帯を抜けられない。膝上までのラッセルはすぐに交代が必要となり、全員次第に疲労の色を濃くしてきた。どうやらリングワンダリングに陥ったようだ。私はルートファインデイングを諦め、コンパスをつかって真西へ向かうよう指示を出した。黒斑の壁にぶつかれば、左折して蛇堀川源頭の谷に出られるという判断である。それは的中した。林を抜ける事ができたのだ。はげしい雪をすかして、目の前に黒斑の白い壁が立ちはだかった。
しかし、その時すでに、満員の夜行列車で一睡もしていない部員たちは体力の限界に達していたのだ。いきなり、「先生、灯が見えます」とひとりが叫んだ。私はぎょっとした。夕暮れを思わせるような激しい降雪のなかだ。これも後になって本人に確かめたのだが、ほんとうに赤い灯が見えたという。わたしは、その部員の頬を叩いて、「しっかりしろ!」と怒鳴った。怒鳴った後、今夜はここでビバークしようかという思いがよぎった。でも、黒斑の絶壁を左に辿れば谷に出るというのは分かっている。苦しいラッセルを続けて、谷に入り込んだところで登山道がクロスしていて、標識の杭に出会った。全員救われた思いで休憩を取る。他の部員も二度幻覚を見たと言っていた。
その後はもうただ下るだけ。浅間山荘に到着したときは、前の広場にみな身体を投げ出してしばらく動けなかった。無事下山できた喜びをかみしめたのはその後だった。
それにしても、16歳17歳の部員はほんとうによく頑張った。初めての浅間で、あのブリザードのような吹雪、雪の樹林での彷徨は、山のマイナスイメージを植えつけてしまったかと思った。後で聞くと、実際彼らの頭に遭難の二字がよぎったという。しかし彼らはみごとに状況を乗り越えた。その精神的な強さと誇りが彼らを支えてくれたのだろう。一人の退部者も出なかったのだ。それから今日まで長い月日が流れた。あの日のトレーニング山行の体験が、彼らの人生に何らかの意味を持ったかもしれないと考えるのは楽しい事である。

カテゴリー: 1969 浅間山賛歌