深田久弥は、かつてトムラウシをはじめて望見したときに、「あれにのぼらねばならぬ」と、激しく憧れた。その言葉が好きで、ぼくも針の木から鹿島槍を歩かねばならぬとか、槍・穂の大キレットを歩かねばならぬと、心に刻んで自らに必然性と課してきた。
岩手山も「あれに登らねばならぬ」の山ではあったのだけれど、中身はかなり違っている。前者は純粋にその山の姿或いは風格に対する思いであるのに対し、ぼくにとっての岩手山はその背後に大きなものを持つ存在としての山だった。これはぼくだけのものではないが、また極めてぼく個人の生涯をかけたものでもあった。
僕が啄木に初めて接したのは高校生の時である。文学少女だった叔母の書棚の中から石川啄木集を引っぱり出してのめり込むようにして読んだ。たまたま夏休みで,万葉夏季大学を受講するために早稲田大学に通う生活のなかだった。この万葉夏季大学も叔母の誘いであった。会場は早稲田だったが、講師はたくさんの大学から第一線の万葉学者が来て、自分の設定したテーマのもと2時間ずつ万葉の魅力を語ってくれた。この夏季大学が、のちのぼくの生涯を決定づけたのであるが、ここではこれ以上は本題から外れるので今日はここまで。
ぼくを啄木から離れられなくしたのは、望郷の歌だった。ひとは自分の生まれた場所から離れることによって初めて故郷を持つという。生まれた場所と故郷とは必ずしもイコールではない。「信ずるところに現実はあるのであって、現実は常に人を信じさせてくれない」と太宰は言ったが、それは故郷についても至言である。望郷を切なく歌った幾多の詩人はみな、現実の故郷と憧れの故郷との乖離に涙している。
啄木も同じである。
石を持て追はるるごとく故郷を出でしかなしみ消ゆる時無し
と歌いながら、
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
と歌う。(本当は三行書きにしなければ?)
ぼくの場合も同じだなんて言うと甘いと言われそうだけれど、気分的にあるいは精神的にすっかり啄木に共感してしまったのである。
故郷を出た啄木は函館、札幌、釧路と逃げるように遠ざかり、ついに東京に出る。そして思想的に自分自身を大きく変えていく。大逆事件を機に
我は知る、テロリストの悲しき心を
と歌うところまで行きつく。ぼくは啄木の後を歩きながら、権力の本質にふれてしまった。ぼくはここでも自分の生き方を決定づけられてしまったのだ。(いうまでもないことだが、ここでいうテロリストは現在の無差別攻撃のテロを行うテロリストとは異なるものだ。)
その啄木が岩手山を歌っている
神無月岩手の山の初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ
ぼくも心の中にこういう山を持ちたいと願い、幸いなことに今持っている。
岩手山というと、もう一人を語らなければならない。ぼくは啄木の後、宮沢賢治を知った。三番目の赴任校に宮沢賢治に身も心も入れ込んだ少女がいて、ぼくの浅薄な知識は彼女の前になすすべを知らず、彼女は卒業後盛岡に移り住んで、宮沢賢治とともに生きる道を選んだ。ぼくも改めて読み返し、『なめとこ山の熊』の魅力に虜となった。『注文の多い料理店』の二人の男は訪れた世界に対しまったくの異邦人で、結局はじき出されてしまう。しかし『なめとこ山の熊』の小十郎は熊を殺すことで生きているのに、その世界から憎まれてはいない。その世界を宮沢賢治は自分の世界として描き出す。ただ最後の場面、大熊が小十郎を殴り殺しながら、「おお小十郎お前を殺すつもりはなかった。」と叫ぶ。この部分がはじめ解らなかった。はじめのころは、この世界は殺すか殺されるかの世界だ、殺されないためには相手を殺さなければならないという世界であるので、これはやむを得ない行為だ、本当は殺したくなかったのだという意味だろうと考えていた。でも釈然としない。もしそうだったら、「殺すつもりはなかった」は「殺したくはなかった」でなければいけないのではないか。この二つは質的に異なる。そんなふうに考えたところで止まったまま何年か経った。
きっかけが来た。岩手山に行こう、あの山は宮沢賢治にとってイーハトーヴのひとつなのだから。そう考えた時、イーハトーヴって何だろうと改めて考えた。言葉の意味は手掛かりになるかと、いろいろ探る中に、イーハは「イハ」だ。旧仮名遣いで「岩(いは)」だ。「岩手」を延ばして読むと「いーはーて」となり、「イーハトー」のとなりだ。賢治の愛したイーハトーヴは岩手の土地の意味で命名されたのだろう。これは賢治のイーハトーヴを矮小化してしまう考え方だろうか。あくまでも語源的に考えただけのことで、内容的に岩手とイコールになるなどと考えたわけではない。でも、北上川の岩礁風景からイギリス海岸という名が生まれたという事実と比べると、何か一歩賢治に近附けたような気がするのだ。
それに勢いづいて、むかしの「殺すつもりはなかった」に帰ってみた。読み返してみて一つの解釈が浮かんだ。大熊は小十郎をこれまでの仲間のための復讐として襲ってきたのだろうか。もしそうであれば「殺すつもりはなかった」は出てくることはない。ではなぜ襲ってきたか。殺されるより殺すという,大岡昇平のいう戦場の論理は以前のように「殺すつもりはなかった」にそぐわない、それは以前考えたことだ。
今回の結論にうつる。熊は「ポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲」から逃れられないことを知っている。では可能な限り遠く逃げて命を惜しむか。
それができればむしろ楽なのだが、大熊の矜持がそれを許さないのだ。正面から正々堂々と向って行って打ち殺される、それが誇り高い熊の最後だ。熊はそう考えて「両足で立って」小十郎にかかっていったのだ。緊張した場面が次のように展開される。
小十郎は落ちついて足を踏ん張って鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走ってきた。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。
ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞こえた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黑く搖らいでやって来たようだった。犬がその足元に噛みついた。と思うと小十郎はがあんと頭 が 鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。
熊は最後の最後に鉄砲が火を吹いて自分が打ち殺されることをはっきりと知っていた。ところが鉄砲は不発で火を吹かず、熊はそのまま突進するしかなかった。予想したことと反対に熊は小十郎を殺さねばならず、それが「おお小十郎おまえをころすつもりはなかった。」のことばとなったのだ。そう考えれば熊の言葉は理解される。
熊たちは小十郎を愛している。小十郎が熊を憎くて殺しているのでないことを知っているからだ。それを示す最後の言葉がいい。
熊ども、ゆるせよ。
自分を殴り殺した熊を「ゆるしてやるよ。」ではなく、「うらみはしないよ。」でもなく、「許せよ」が持つ重み。それがなめとこ山の熊と小十郎の関係なのだ。宮沢賢治の世界の魅力がここにある。
1986.8.18 テントを忘れて
本庄06:40=大宮08:08=盛岡11:20/12:59=大更13:42/45=燒走キャンプ場15:30
とんでもないスタートとなった。列車の中で確認してテントがないことに気付いた。フレームやペグはある。いつもザックの一番下に入れるのを、なぜ忘れたろう。泊りがけでない時、念のために携行するツエルトを、今回不要として出したまでは覚えている。代わりに入れるべきテントは今部屋の隅で見捨てられた思いを味わっているだろう。
どうするか。深田久弥であれば野宿したろうか。とりあえず盛岡の町で山屋を探し、テントのレンタルができるかどうか聞いてみようと思った。町について山屋はすぐに見附かった。しかしレンタルの制度はなかった。途方に暮れたような顔をしていたのだろうか。店員がテントの製造所を紹介してくれた。行ってみると、店の主人は「それならリースでいいでしょう、どうせ家にはあるのでしょう。」と親切に言ってくれた。但し一番小さいものでも5人用ビニロン製の重いもの。ぼくは自分に罰を与えるようなつもりで、その重たいテントを借りることにした。ザックには入らない。上に紐でくくり付けると大きな荷となった。
花輪線に乗るとすぐに姫神山が秀麗な姿を見せる。啄木が「神の住むか」と見たのもむべなるべし。好摩というこれも啄木によって馴染んだ駅から東北線に別れ、大更で下車。タクシーの窓から落葉松林のむこうに岩手山が大きい。浅間追分が原を思わせる景だ。燒走溶岩流の押し寄せた末端にキャンプ場があった。岩手山がさらに大きくそそり立つ。
いよいよここから登りが始まる。今日の中に2時間ほど登っておけば明日が楽になると思いしも、1時間少々で道は勾配が急となり、戻ってテントを張れる場所を探す。何組か下山者が通り過ぎる。キャンプ場まで車で入りサブザックで往復する人たちだ。子ども、少女たちもいる。ぼくの装備が大袈裟に見えてくる。
テント設営後、燒走り溶岩流の上に立って見た。赤いザクザクとした溶岩の堆積だ。浅間の東登山道の溶岩は白っぽい。こちらは鉄分を多量にふくんでいる。浅間の頂上から鬼押し出しへ下った日のことを思い出した。黒い溶岩の塊の上を下って、皮の登山靴の表面がボロボロになった。この溶岩流も同じだ。少し登ったり下ったりして戻る。宮沢賢治の『気のいい火山弾』に登場する身体に帯を巻いた火山弾はこの岩手山にある或いはあったのだろうが、付近を見わたしたが見つからない。見附かるはずもない。
アルファ米で夕食。19時半真っ暗な中を下山する足音も聞えた。夜中、天幕の横に動物の徘徊する物音。イタチ、あるいはリスの類ならんか。やや傾斜する天幕に眠る。
1986.8.19 標高差1400mをたどる
幕営地06:30-第二噴気孔07:30-第一噴気孔09:00-笠不動平(茶臼ピストン)10:05/35-岩手山頂外輪山(昼食)11:30/12:30—不動平12:40/13:00-鬼ケ城頂上14:10/30]-黒倉山頂15:00/15-姥倉山15:35-湯の森17:00-松川温泉17:20(泊)
6時半出発。溶岩流に立てば朝日の中に岩手山が頭上に迫る。標高差1400mあるとも信じられぬほど頂上まで鮮やかだ。溶岩流を左にして樹林の中を上る。次第に勾配は急となり、風の通らぬ登山道で汗びっしょり。第二噴気孔跡は高台で、ここまで来ると爽やかな風が渡り、眼下の樹林帯の中に溶岩流が黒々と続く。15分休憩の後、再び樹林帯に入る。しかし山毛欅の原生林はすぐに尽き疎林となる。砂礫の道に足を取られながら登る。第一噴気孔のマグマの盛り上がった地点からトラバースルートとなり楽になる。チョコレートと水で休憩。ルートは岩手山の北に廻りこみ、再び樹林帯に入る。ツルハシ通過点で木イチゴの群落を見つける。疲れた体に爽快な味が沁みる。さらに大きく廻りこんだ地点はダケカンバの立つテラス。思わずまた休憩をとる。キウイが美味い。周囲にコガラの群れが訪れる。果物の香りが呼んだのだろうか。すぐ近くのコメツガに来て囀る姿が可憐だ。
出発して20分で笠不動へ。此処から最後の登りだ。桔梗、ミヤマアキノキリンソウの咲き誇る道を岩手山頂を目指す。コースタイム通りの時間で外輪山に到着する。壮絶な風景だ。爆裂口はいつまで噴煙を上げていたのだろうか。頂上(2040m)を往復し火口の縁を辿って下り口で昼食とする。ガスが流れ、風景が途切れることしきり。不動平まで降りると、「崩壊のためお花畑コースは閉鎖」の表示あり。予定していたのに残念だ。仕方なく鬼ケ城へ廻る。避難小屋がある。立派な建物なり。水があれば泊まりたいところだ。道は右眼下に御苗代湖と樹海を眺めつつ辿る。御苗代湖とすぐ横の御釜湖と池が二つあり、共に爆裂火口に水が溜まったもの。その昔大きな爆発があり、その火口壁が今外輪山となって北が屏風尾根、南が鬼ケ城となっている。山容は変わり、笹が高く古い山の姿となっている。再び来ることはあるまいと思うと、黑倉山も巻道でなく頂上を踏んで下る。頂上からの展望がすばらしい。秋田駒ヶ岳の上に鳥海山が大きい。旧火口と新山がシルエットになって霞んでいる。わずかの時間でスケッチ。右手は八幡平の緩やかな稜線が目の届く限り続いている。ゆっくりしたいところだ。
先を考え、未練を残しながら出発する。3、4分下の登山道への下りで右膝に痛みが走る。足をかばいつつ、それでも姥倉山のゆるい登りで何とか元に戻った。振り返れば岩手山頂がガスの中に見え隠れする。最後の記念シャッターを押す。此処から果てしない下りが始まった。ひざに不安を覚えつつ大事に下る。いやになるほど下って水場に着くも、いくつもの沢はすべて涸れており、夏の終わりを思わせた。やっとキャンプ場に着いた時はすでに17時を回っていた。誰もいない広場の隅に水道の蛇口あり。冷たい水が涸れた喉を通る。いくら飲んでも足りない。身体じゅうの細胞が脱水症状を呈している感じ。
松川温泉国民宿舎に着くまで汗したたりやまず。缶ビールを続けて2本飲むも渇きは止まらず。汗みずくの一日、ハードな一日がやっと終わった。温泉がありがたい。
重装備の場合、網張温泉からリフトで1000mまで上がってしまうならともかく、下から登るなら不動平避難小屋で一泊したい。そうすれば山をゆっくり樂しめたであろう。1400mの登りと1200mの下りは一日の行動としてややゆとりがない。問題は水。ビールで補うことはどこまで可能か。山頂の缶ビールは何とも言えないものであった。
啄木記念館は立派な建物で、17・8年前よりずっと明るい光景となっている。記憶の中では小学校校舎は南に向いていたのだが。