思い入れの深い山ほど訪れるのは後になる。人は死んだら魂は早池峰山に登ると遠野の人は考えた。大江健三郎の故郷の人たちも同じように考えた。死者の魂の登る山、柳田国男の紹介する『遠野物語』の世界は私にとって一度は訪れねばならぬ場所である。
現在の歴史は文字による記録によって作られている。文字を扱うのは特権階級でありその歴史は特権階級によりとらえられた歴史である。しかし歴史の主体は常民であり、その姿を明らかにする必要がある。口承文芸、民具、生活様式その他、文字による記録でない資料による歴史学の構築が必要である。柳田国男の民俗学はそういう骨格を持つ。何とも魅力的な学問である。その柳田民俗学の聖地である遠野市を訪れたいという灯はずっと私の心にともり続けてきた。
それだけに遠野の町から入るルートをと思いつつも、現在の早池峰登山ルートは山頂直下を通る車道を利用するようになっており、せめて下山路で遠野の町に近づいていこうと考えた。『遠野物語』を読んでからどれだけの歳月が流れたか。今年ようやく早池峰山行が実現する。出発一週間前まで飼い犬のアサマをどうするかについて迷い、いっそ車でつれていこうかとも思ったが、息子たちが引き受けてくれることとなり、おかげで新幹線山行となった。
1995.08.10
本庄07:47=大宮08:51~09:26=新花巻12:12~13:20=(タクシー)=河原坊14:10
新花巻駅は野中の駅。わずかに駅前広場を越えて一軒のみ売店・レストランあり。ビールとカツ丼で昼食を取り、タクシーで早池峰へ。500ccポリタンを忘れて、水は1.8ℓのみ。ビバークには心許ない。途中大迫町で肉を購入。パックの半分を売ってくれた。タクシー運転手によると、昨日は激しい嵐だったとのこと。今日も早池峰連峰はガスの中で顔を見せず。河原坊の自然センターは清潔で美しい建物だ。幕営料なし。今どき珍しい。天場には4~5張りあれど、皆マイカーで来た人たちのようだ。幕営地ゆえビールくらい売っているだろうとの予測は外れて何もなし。これも却って快し。夜雨断続的に降る。
1995.08.11
河原坊6:15ー小田越6:55~7:00ー御門口7:40~50ー竜が馬場8:30~45ー早池峰山頂10:05~40ー中岳手前ピーク12:00~40ー中岳12:50ー1415ピーク手前(ビバーク)14:30
明け方雨は止んだが一面ガスの中。出発時やや青空が頭上に見え始める。期待を込めて出発。見渡す限りブナの原生林が見事だ。小田越まで標高差190mの舗装道路。ゆったりした登り道だが、早く山道に入りたいと妻は不満そう。途中休んだ場所のすぐ先が小田越だった。山自体をご神体とするしるしの鳥居を入れて写真撮影する。ちょうど7時だ。そのまま登りにかかる。初めはシラビソの樹林帯、但し丈は高くない。ワンピッチで休んだすぐ上が森林限界だった。大きな石の背を踏んで登る。ガスの中目の下に薬師岳の下半分が大きい。
登るにつれて前方に岩壁が城塞のように迫るのが望まれる。五万図の等高線が極端に混んだあたりとなる。前後して家族連れが登っており、長老が少女に花の名を教えながら歩いている。ミヤマシャジン、タカネナデシコ,ナンブトラのオ等お花畑が美しい。次第に急な登りとなり、妻も苦しそうだ。最後,鉄梯子を登ればすぐ稜線に飛び出す。のんびり辿って行けば、岩場の上に避難小屋と社があり1914mの頂上だ。避難小屋は頑丈で清潔。中に先客十数名あり。外でのんびり休んで出発する。すぐ左に河原坊への急な下りを分ける。岩場を辿るあたりにハヤチネウスユキソウ、ヨツバシオガマ、さらにハクサンシャクナゲが美しく咲き乱れる。ハイマツの広がる気持ちよい平原という感じだ。
晴れていれば右手は緩やかな山なみが見渡せるはずなのにと残念だ。五万図にも「早池峰山の高山帯・森林植物群落」とあり、「早池峰自然環境保全地域」とある。一度来てすべてを堪能しようというのが欲張りなのかもしれない。
しかし下りが急になると状況が一変する。岩場の登降の連続となってなかなか進まない。地図からは読み取れない地形だ。アカトドマツの樹林帯に入り、マツボックリが鳥が止まっているように見えておもしろい。妻は不気味で恐ろしい、こういうところでビバークしたくない、避難小屋まで行きたいという。ただ次第に疲れてくる気配。中岳1679mの手前で昼食の大休止をとる。横を親子と思われる男性3名がすごいスピードで通り過ぎていく。今日のうちに下までいくつもりなのであろう。そのうち空が次第に暗くなり、そのうえ雨が降り始める。
すぐに出発して、2時間ほどなだらかに下り平坦地を見つけて天幕を設営する。水が1ℓしかなく、夕食もパン。コーヒーは1杯ずつ。何とも美味かった。夜も時々雨降る。
1985.08.12
ビバーク地6:05ー鶏頭山7:35~50ー七折瀧分岐8:20ー鶏頭山避難小屋8:45~9:10ー水場9:40~10:00ー岳バス停10:20~11:25=花巻12:40~14:15=遠野15:19
水を節約するため朝食は昨夜と同じ。ただ十分な睡眠のおかげで新たな体力を感じつつ歩く。1415m地点から明るい草原となる。空は晴れているが南側はガスの中。早池峰頂上も見えない。しかし天気が良ければ心も軽くなる。露で靴の中はびしょ濡れだが、なんなく鶏頭山頂上へ。のんびり休んだ後いよいよ急な下りへ。妻のペースが極端に落ちる。280m下りに下って鶏頭山避難小屋に到着する。造りたてのもったいないような建物だ。傾斜が緩くなる辺りからブナ・ナラの林が明るくなり、新緑の中を行くような気分で下る。903m地点の水場で最後の大休憩。水のうまさを存分に味わう。
10:20 岳部落着。薬師越えはガスの中ということで断念して、遠野へは列車でとする。早池峰山行が終る。天気がもう少し微笑んでくれていたらと、一抹の心残りあり。