私の父は釣りが好きで、私は小学校低学年の頃父に連れられてよく利根川に出かけた。夕暮時になると瀬音が大きくなるように感じられて、子ども心に心細さを感じたことを思い出す。父は釣りが終わると、私に泳ぎを教えてくれた。20mほど下流にいる父の所まで顔を上げずに泳いでいく。利根川に親しむ原点となったものでもあった。
少年期の私たちにとっても、利根川は遊びの場の延長だった。利根川を泳いで下れるというのは、自分に一つの自信を与えてくれることであり、餓鬼大将に率いられて遊ぶ一団の中でグレードを一つ上げる証でもあった。夏休み明けにクラス仲間の間で、利根川の本流を泳ぎ渡ったというのは讃嘆の対象になった。
ただ私の泳ぎは抜き手と平泳ぎだけだった。高校の水泳大会のクラス全員のリレーでわたしだけがクロールができず抜き手で泳いで目立ってしまった。利根の激しい波を横切るのにクロールの息継ぎは適さない。また平泳ぎで浮いているだけで100mでも200mでも運ばれる利根本流の感覚が身についているわたしにとって、プールの動かない水の中を進むのは疲れるだけだった。
利根の本流の手前半分は烏川・神流川の水で、半分過ぎると途端に水が冷たくなり、透明度も増し、細かい泡が混じっていて、飲んでも美味かった。数年後、日本が復興し始めると上流の工業排水が問題になったり、水難事故が起こったりして、小中学校では利根川で泳ぐことを禁止した。
私はいい時期を過ごしたといえる。

そんな私が、後年山へのあこがれを知るようになった時、利根の川原から上信越の山々を眺めて、この川の水源に立ってみたいと思うようになったのは、必然的なものがあったのだろう。私に山へのあこがれを教えてくれた町田瑞穂氏はやはり利根川の源流に惹かれたようで、まだ八木沢ダムができる前、谷川をワイヤーで吊ったモッコで対岸に渡ったという話をしてくれたことがある。沢登りの技術を持たない私は、群馬側から水源にたどり着くことを諦め、新潟側からを選んだ。
利根川の源流を抱く山は大水上山という。越後三山のうち越後駒ケ岳、中ノ岳と辿り、八海山を右に見送ってそのまま南下すると兎岳があり、其の900m先の平坦部が大水上山だ。頂上から東南に平ヶ岳へのルートが延びているが、今回はそのまま南下して丹後山で稜線に別れて十字峡に下ると其の先にバスの終点に着く。そこから六日町に出られる。2泊3日の行程だ。相棒には大雪ー十勝を一緒に歩いた新井氏を語らった。1枚目のスケッチは、二日目雨上がりの越後駒の小屋と駒ケ岳。緑が何とも言えず美しかった。

1974.08.07
本庄06:45-小出09:10/45-枝折峠10:30/11:00-小倉山-駒の小屋15:30
小出から銀山湖への道は今立派な墜道ができている。たぶん冬の雪や春先の雪崩を避けるためのものだろう。その道は銀山湖の縁を縫って延々と尾瀬御池まで延びている。途中に平ヶ岳への登山口がある。私が行った時はまだその道は出来ていなくて、今旧道と言っている道だった。未舗装でバスが急カーブすると、乗っている我々の席は道からはみ出して深い谷の上に出てしまうようなスリル満点の道だった。枝折峠に停留所があった。いま車道は枝折峠の下を走っている。
枝折峠の枝折とはいい名だ。平家の落人がこの山に入ったとき、枝を折りながら帰りの道しるべにしたとかいう説を読んだ氣がする。新しい山に入る時の緊張感が伝わってくるようだ。私が共感したくなるような感情である。
登山道は緩やかなブッシュの道で、小倉山を過ぎてしばらくすると急登になった。駒の小屋について幕営の準備にかかった時、怪しかった天気が一気に夕立となった。激しい雨と雷鳴に見舞われて、我々は駒の小屋に逃げ込んだ。顔中髭だらけのおやじさんがいて、はじめこわかった。我々より先にテントを張った登山者が食事の殘りを土中に埋めたと言ったのに対し、「山を破壊する気か。お前らに山に来る資格はない。」と怒鳴ってきたと我々に話した。しばらくして登山者は「済みませんでした。私たちは帰ります。」と言って山を下りて行った。彼はきちんと後始末をしたというつもりで報告したことが、間違った処理だと言われてショックだったのだろう。ちょっと気の毒ではあった。
怖い感じのおやじさんは話し好きだった。その日、登山者は我々二人だけだったこともあって、我々の歩くルートを細かく説明してくれた。中の岳へのルートは1キロ1時間以上かかる厳しいものだ、向こうからここにたどり着いた男がいて、藪を漕いだ結果ターザンのようにぼろぼろの姿で現れたよなどと語り、我々をひるませたりした。酒を酌み交わしながら夜が更けていって、明日いっぱい歩かねばならないのにと私たちは心配になるようだった。

1974.08.08
夕立の雨は翌朝になっても止まず、我々は出発できなかった。しばらくして止んだがその後は濃い霧で視界はきかず、その日は停滞と決める。昼近くなってせめて少しでもと標高差100mの駒ケ岳(2002m)まで往復した。何も見えなかった。
夕刻になってガスが晴れた。平ヶ岳とその向こうに尾瀬の燧、至仏、笠、会津駒が、左遠くに守門、浅草、眼前に荒沢岳と目の下に銀山湖が全部姿を現し、我々を感動させた。時間に追われるようにしてスケッチする。中央の平らな頂上が平ヶ岳、左が尾瀬燧ケ岳、右が至仏山だ。
夜髭のおやじさんとまた話す。おやじさんは「この山が好きだ。このまま静かな山、美しい山として残したい。」と語って、我々をしんみりさせた。

1974.08.09
おやじさんに別れを告げ出発。おやじさんの言葉でかなり緊張を強いられたが、天気も良く気分的に楽に歩けた。ただ駒ケ岳からの下りがきつい。檜廊下あたりだったろうか、灌木の根につかまりながら下る所には「短足泣かせ」などと書いた札が吊るされているところがあったりして、わらってしまうこともあった。多分逆コースの登山者向けのエールだったのだろう。たしかに中の岳から来る登山者は途方に暮れるようなルートかもしれない。我々は今日殆ど急登である中の岳へ の登りもそれほど苦しまずに済んだ。
中の岳(2085m)で昼食。駒ケ岳からの尾根の緑、平ヶ岳へと続く南の尾根の緑、ともに美しく誰にも会わない山は我々だけのもののような気持にさせて我々を幸福感でいっぱいにさせてくれた。
ここで八海山に延びる尾根を西に見下ろしながら別れて、南に兎岳を目指す。ほとんど下りで、小兎岳、兎岳(1925m)も5、60mの僅かな登りだ。そのままさらに100m下ると今回の目的地大水上山(1830m)に到着。13時15分。

辺りは一面のお花畑で天上の楽園そのもの。なだらかに下る斜面に雪田がある。ハート形の雪田の裾から水がしたたり落ちていて、谷に向かって流れていく。利根の源流に今私は立った。その喜びが身体の奥から突き上げてきて、わたしは言葉が出なかった。広々としたお花畑はハクサンイチゲとシナノキンバイで埋め尽くされて、腰を下ろすのに避けようがない。ごめんよといいながら花の中に寝そべって空を仰ぐ。私は長い間うごけなかった。1時間もそのまま時が流れた。
やっとのことで立ち上がった我々はほとんど平坦な尾根を丹後山までたどり、お花畑の中にテントを張った。1808mの頂上ともいえぬ頂上は今回の山行の最後を祝福してくれるように、静かで他に誰もいない世界に我々をいだきとどめてくれた。

1974.08.10
丹後山幕営地06:20-栃木平10:00-十字峡10:30-野中11:30-六日町12:10~37-本庄14:35
今日は十字峡まで1300mを一気に下る日だ。三国(さぐり)川の源流だというのもうれしい。山菜摘みで馴染み深い川だ。三国川が西から東へ。そこへ北から黑又沢が、南から下津川が直角に流れ込んで十字を造っている。
越後澤山(1860m)へ向かう稜線に別れを告げ、正面に阿寺山を見ながら急降下、栃木平で橋を渡り三国川左岸へ。ここまで來れば十字峡は近い。十字峡は深い谷の底だ。よくこんな地形が生まれたと自然の造形に感心する。そこからさらに1時間歩いて野中の集落へ。行動はここまで。バスが待っていて六日町へ。憧れの利根の源流に立った感動を抱えて山行が終る。