この絵を何の機会に見たのか、同僚の美術の教員が、「岩田さんが何でこんなおとなしい絵を描くんだ」と言ったことがあります。もしかすると、「枯れ木も山の賑わいだ」などとうそぶきながら、文化祭の山岳部の展示に並べたのを見たのでしょうか。なんのポイントもないアピール性もない絵だという意味でしょう。その通りなのですが、ぼくには初めての油絵だったというだけでない、大事な意味を持つ絵なのです。
これは追分ヶ原から見た五十年前の浅間山です。この絵を描く何ヶ月か前、ぼくはひとり追分ヶ原の北の端にテントを張って一晩過ごしたことがあります。キツネだか雉だかの甲高い鳴き声が一晩中響きました。翌日そこから浅間の頂上を目指しました。普通の人々が選ぶ登山道は、峰の茶屋から頂上を踏んで西の湯の平におりて浅間山荘に下るコース、あるいはその逆コースでした。追分ヶ原コースは最後の前掛け山の斜面を直登するコースが閉鎖されて、天狗の露地から湯の平を回らなければならなくなって、もう誰にも会わないルートになっていました。

追分ヶ原を教えてくれたのは、学生時代の長野県諏訪出身の男でした。彼が大事そうに口にする詩人立原道造の『萱草に寄す』の舞台が追分ヶ原だったのです。

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を(「のちのおもひに」冒頭)

当時サルトルや大江健三郎を論じあっていた我々にとって、立原道造の抒情性は驚きでした。しかもその抒情にぼくは捉えられてしまったのです。表向きには権力と対峙する生き方を選び取りながら、内側にそっと立原道造をいつくしんで、ぼくは青春期をおくりました。ここに出てくる「林道」で、立原は村の娘と出会うのですが、それは中山道からいちだん上の今の1000m道路だったのだと思います。今は車が我が物顔で走り抜ける舗装道路になってしまいました。

かなしみではなかつた日のながれる雲の下に
僕はあなたの口にする言葉をおぼえた
それはひとつの花の名であつた
それは黄いろの淡いあはい花だった(「ゆふすげびと」冒頭)

ぼくは今、車を避けながら、萱草(忘れ草)のイメージを探っています。

追分ヶ原の絵が手放せないのは、もうひとつあります。先に述べたカンゾウと追分ヶ原とのつながりはかならずしもこの絵でなくても他に用意することができます。この絵でなくてはという意味があるのです。
それはこの絵が五十年前の追分ヶ原を示しているということなのです。この絵を描いたのは、追分ヶ原コースに入って三十分ほどのところにある駒飼いの土手と呼ばれる場所の先です。今このコースは昔追分ヶ原と呼ばれていたあたりから全面的に松林や雑木林となっていて、空はまっすぐに上を見ないと見えません。五十年前は登山道からはるか向こうに浅間が見えました。ぼくたちはその山の姿に憧れながら歩を進めることができたのです。ちょうどそのころ追分ヶ原に植林が行われ、人の背丈もないくらいの松の苗木が原一面に植えられたのです。それが五十年経つ中で20m・30mの高さに成長した。ここ何年か、びっしりと生えていた森を切り開いて新しい林道がつくられ、伐採のチェーンソーの音が響くようになりました。松やカラマツは伐採されても雑木林は皆伐できないのではないか。そうなるとこの
絵のような追分ヶ原は再現されないのではないか。
五十年前の追分ヶ原を絵にとどめたのは意識したことではありません。山の絵を描きに行こうと誘ってくれた友がいたからこそとどめ得たのであって、一緒に描いた人たちへの感謝の思いは消えません。結果的にこの景をのこすことができたことを僥倖だったとでも言いたい思いがあって、この絵が手放せないでいます。
今は1時間半ほど歩いて血の瀧の先まで来ないと浅間は見えません。自然も長い時間をかけてその表情を変えていく、そんなことの証しとしてこの五十年前の拙い絵を冒頭に置くことにします。