1982.09.13
夕食後3時間眠り夜行で。23:49が40分遅れ。待合室に待機中ホームより落ちし人ありとのこと。電車は空席多く、週日のためのみならず台風の影響なるべし。

1982.09.14
03:15越後湯沢着。駅で30分ほど眠り、タクシーで祓川まで(3800円)。ヘッドランプを付けて歩き出す。和田小屋より先行する女性二人の後を追いゲレンデを登る。リフト終点でルートハント。二人は小松原湿原に幕営という。いつか僕も行きたいルートだ。神楽峰を気持ちよく下ったが、お花畑から最後の登りが夜行の身体にこたえる。
やっと山頂に飛び出せば目の前に一面の草原が広がり、その中に光る無数の池塘。名前の由来の苗場だ。『北越雪譜』を思い浮かべつつ辿る。来てよかった。村営小屋でのビールも何ともうまい。烏帽子、岩菅の右に槍・穂高が見える。二人の女性も到着。二人は山岳会員という。冬山を雪洞で歩く人たちだ。楽しく語って別れる。彼女たちは小松原湿原へ。こちらはテントを張り、11-13時午睡。
太陽の眩さに目を醒まし、午後の山頂をスケッチ。小屋番の若者と話す。若い人の登山人口が減っているとか。昌次新道の下り口迄木道を辿る。下り口の先はいきなり絶壁を下るすさまじい道だ。池塘を眺めつつ戻って夕食をとる。18時就寝。

1982.09.15
4時起床。のんびりと5時30分発。日の出は雲量が多く見られず残念。昨日は雲が黄金色に輝いたのだが。秋山郷への木道を分けて赤倉山のルートをとる。湿原を一人気ままに歩けるのは樂しい。山頂の原から先端の崖上に出たところから嚴しい歩きが始まった。刈払いのない笹の中を分けていけば露で下半身ずぶ濡れとなる。苗場から離れた地点からすさまじい風倒木が待ち受けていた。踏み跡が見えない。稜線から外れた地点でルートを見失い、倒木を乗り越えて進む。衝撃的な事態に直面した。倒木から倒木へと飛んだ途端、向こうの木からこちらに突き出ていたシラビソの枝にまともにむねをつかれた。肋骨に当たったので助かったが、危うく串刺しになる所だった。串刺しになったまま動けなくなったらと恐怖に震えて、しばらく動けずにいた。それでも鞍部に出たところでやっと刈り払いの道に出会えて、赤倉山頂に出たのが8時を回っていた。佐武流山・白砂山への道はものすごい藪だ。とても進むことなどできない。
ここから道は分かれて下りとなる。赤湯まで2時間20分の道標あり。タイムを短縮せんと跳びだす。走り続けて赤湯着9時30分。小生まだ体力は大丈夫といい気持ち。
悲劇はここから始まった。鷹巣峠への登りが予想外の急な登り。足が上がらない。走って体力を使い果たしたうかつさが悔しい。下から来た爺さんはぼくににこにこ声をかけてあっという間に見えなくなった。仙人だったのだろうか。本橋まで3時間半というコースタイムは確認していなかった。赤湯まで來ればあとは楽な道と勝手に想像していたのだ。次第に心が折れてきて、林道に出たら車に乗せてもらえるだろうかなどと甘えだす。林道の始まり地点に沢があった。冷たい水に頭を突っ込み思う存分飮む。動きたくない。さらに1時間歩き土砂崩れを高巻きで気息奄々となって、残した握り飯を食べる。ひざの痛みが苦しい。トラックが通るかという望みを諦めて近道の山道へ。登りは這うごときペース。浅貝川は台風名残の増水で渡渉を強いられた。チョコレートがほしい。対岸で靴下を絞ってやっと出発し最後の登りで17号に出て、元橋にたどり着いたのはすでに13時20分。情なさに打ちひしがれる。まずチョコレートを買ってかじり、ラーメンを食べ、やっと缶ビール。心配した酔いはなかった。14:30のバスで無事湯沢駅へ。佐渡4号は空いていた。家族は東京からまだ帰っていない。ひとり風呂に入って手足を延ばし、ほっと息をついて山行が終った。

このスケッチについては後日談がある。
何年か後、たしか那須の鉄小屋だったと記憶するのだが、夕餉が終わって小屋の従業員の若者たちと山の話になった時、ぼくは自分の好きな山をスケッチしていると話してその日もって行ったスケッチブックを開いて見せたことがあった。別にうまい絵だと自慢するつもりはなかった。山が好きな人間の、山への対し方を紹介しただけのことだ。
その時思いもしないことが起こった。若者の一人がそのスケッチブックを手に取ったかと思うと、いきなり苗場山の絵、この冒頭に掲示した絵なのだが、それを「これをください」というが早いか、引きちぎってしまったのだ。ぼくは何が起こったか信じられなかった。すぐに我に返って「だめだよ」と言って取り返そうとした。怒ることも忘れていたようだ。若者は「お願いします」を繰り返して返そうとしない。ぼくはだんだん本気になって「返せ」と声を大きくして立ち上がった。成り行きを見ていた若者の仲間たちが口々に「返せよ」と言い出したので、若者は不承不承絵を返してよこした。あやまりもしない。一件はこれで落着したのだが、破り取られた絵はもとには戻らない。今になっても、若者がなぜ引きちぎったのかが得心がいかない。他人の絵を無断で引きちぎることが許されることではないことくらいわかっているだろう。それを越えて衝動的行為にかりたてたのが何だったのか。もしかしてぼくの絵に一目惚れしてしまったのだろうか。ぼくもこの絵が大好きなのである。

カテゴリー: 1982 苗場山