山の絵を描きたい、ぼくの好きな山の姿を定着しておきたい、そう思って長い年月スケッチブックをザックの中に入れてきた。絵が僕の心の現れだというのではなく、或は絵を通してぼく自身を表現するというのでなく、というのは、絵が芸術だというのはそういうものであろうから。そんな大それたものでなく、もっと素直に山に向かって呼びかける、山もそれに応えてくれる、それがうれしくて山を描いてきた。
この絵はもしかするとそれでさえないのかもしれない。目の前に見た山でなく、心の中に残っている山を改めて確かめに行ったことから生まれたものだからだ。水上から利根川に沿ってのぼっていくとまず藤原ダムが現れる。その上に洞元湖の須田貝ダム、奥利根湖の矢木沢ダム、楢俣ダムと東京の水がめが続々と現れるが、ぼくの持っている1958年版の五万分の一の地図(以下五万図)にはまだひとつもできていない。八木沢ダムができる前、利根の水源をたどるためにモッコ渡しがあったころの話だ。ぼくに山の魅力を語ってくれた町田瑞穂氏(もう故人となられたので名前を出すことを許していただけるだろうか)の話にそれがあった。
ぼくはその山深いころの湯ノ小屋温泉にあこがれて、妻を語らい尾瀬の笠ヶ岳からロボット尾根を辿って下りたことがある。ぼくの持つ3枚の五万図のうち、昭和33年要部修正測量とある2枚目は3色刷りの最初だったようだが、その1712m地点に雨量観測所とある。昭和54年版にはもうない。登山道も上半分はなくなっている。たぶん雨量観測は自動計測だったので「ロボット」と命名されたのだろう。そしてすぐにその使命を終えたのだろう。それは長い長い下り道だった。真っ暗になってようやく着いた湯の小屋温泉発の最終バスはもちろんなく、そこの集落の一軒で外にいた夫人に訳を話したところ泊まっていきなさいという。憔悴した我々に情をかけてくれたのだろうか。人心地附いたところで湯に入って来なさいと言われ川に下りるとそこは近所の人たちが共同で使う温泉だった。今から思うと人の温かさに救われた一晩だった。
その人の情がうれしく有難くて、何年か後木の根沢に車道ができて出かけて見たのだが、そのあたりの様子は大きく変わっていてあの時のおばさんの家がどこだったか、もうわからなかった。
その後、湯の平高原から湯の小屋に下りる道があることを知り、その雪原の途中にミズバショウの群落を発見した時はうれしかった。尾瀬のミズバショウのように巨大化していなく、楚々と咲いている姿は人々にもてはやされる前の姿だった。うれしくて息子たちを連れて雪の原を歩いて訪ねたこともあった。そこから北へ20分も歩くと湯ノ小屋への下り道となる。その途中から目の前に広がる山々がこのスケッチだ。ロボット尾根が懷かしい。
カテゴリー: 1969 至仏山・小至仏・笠ヶ岳