『奥の細道』に
雲霧山気の中に、氷雪を踏んでのぼること八里、
さらに日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、
息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕(あらは)る。
笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。
とあり、
雲の峯幾つ崩(くづれ)て月の山
が掲げられている。芭蕉は布団もない小屋に一夜を明かしているのだ。深田久弥『日本百名山』には「のしゃがみ」という言葉が出てくる。今の我々にそれだけの覚悟があるだろうか。
もう何十年も前の話になるが、追分が原から浅間を目指して登り、天狗の露地に野営して頂上を往復し、下りてきたことがあった。家について驚いた。追分が原の隅に車をとめたのだが、近所の人が夜になっても車が置き放しだと警察に通報したという。遭難したのかもしれないということで、ナンバーから調べて自宅に連絡が行き、捜索隊が出るという。自宅の妻は、たぶん大丈夫だと思うと答えたというが、警察は私が連絡するのを待っていた。それが分かった時、警察に連絡してくれた人の行為を有り難いと思うと同時に、私のとった行動が自分勝手なものだったのだろうかと複雑な気持ちになったことを覚えている。
もうひとつ、熊谷高校山岳部が冬山合宿でドカ雪に見舞われ、一日停滞(動かずにいること)したことがあった。この時も捜索隊の騒ぎになった。翌日下りてきて最初の山の家から電話で全員無事なことを告げた。合宿では必ず予備日をとっていて、無理に行動することの方が危険な時は行程をずらすことがあるということが、下界の親の万一のことが起きたのではないかという危惧とぶつかってしまうことがある。今はスマホを持って行けば、谷に入り込んでいなければ何とかなるかもしれないが。
1998.07.26
志津温泉仙台屋旅館07:00=姥沢小屋07:20=リフト08:00-姥ヶ岳08:30~40ー月山頂上10:40~11:40-姥沢小屋13:40~14:00=本庄20:45
なだらかな緑の尾根とスロープ。氣持好い散策路だ。頂上は細い石段を登った上にある。月山神社は月山権現を祀る。月山権現は月読尊の垂迹だという。伊那那岐・伊邪那美の二神が最後に生んだ天照大神・月読命・須佐之男命のうち月読命は存在感の薄い神である。それだけにどこに祭られてもおかしくない。
芭蕉が登ったのは6月8日、太陽暦7月24日なので我々と一日違い。「氷雪を踏んで登る」とあるが、当時の方が寒かったのだろうか。
不思議なものを見つけた。「月山鍛冶屋敷」の表示があり矢印がついている。個人的な興味なので行ってみようと言わなかったのだが、『奥の細道』に
谷の傍らに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びてここに潔斎して剱を打ち、ついに月山と銘を切って世に賞せらる。
とあって確かめに行きたい気持ちはあるのだが、この文章は実は湯殿山に下る途中の谷の傍らの小屋のことなのだ。月山の鍛冶屋敷とは芭蕉の言う鍛冶小屋とは別物なのだろう。
また、芭蕉研究家の井本農一によると、初代月山は古文献によれば平安時代の人だが、現存する月山の銘を持つ刀はいずれも室町末期のものであるようで、後世月山を名乗る人が何人かあったもののようであり、また必ずしも月山の山中で鍛えたものばかりではなかったようである。
写真を見ると、我々は傾斜の緩やかな下山路をビールを飲んで下ったようだ。