八ヶ岳に初めて登ったのは二十歳の時だったと記憶している。幼友達のS君と北八つだった。夏沢峠から硫黄を往復して北上し、麦草ヒュッテに泊った。半世紀前の麦草峠はまだ車道などは通じておらず、麦草と呼ぶ短い草が生える小さな草原に小さな小屋が立っていた。夕食後小屋のオヤジさんと話が弾んだ。話の終わりころ、オヤジさんは名残惜しそうに「結婚したら二人でここへ来いよ。おれ山を下りておまえさんたちに三日間小屋を明け渡してやるよ。誰も来ないよ。」と繰り返したものだ。誰も来ないなんて今では考えられないが、当時「北八つ彷徨」などという言葉がはやり始めたころで、本当に我々以外だれも姿を見せなかった。10年ほどたったろうか。懐かしい場所を訪れるつもりで行ったところ、車道が北八つを横断していて、峠には立派な二階建ての建物が聳え、かつての小屋は影も形もなくなっていた。喧騒が立ち込めていて、私は建物に入る気も失せて素通りした。「感動は一遍こっきりのものだよ」とは何に出ていた言葉だったろう。以後、北・南八つにはなんどものぼった。幽霊が出ると聞く県界尾根、ブルガリアの娘さんが「寒いので入れてください」と入ってきた本沢温泉の川原の露天風呂、蓼科山頂小屋のピアノで聴いた孫娘の「エリーゼのために」、権現岳の天場で星座を語りながら遅くまでながめていた星空、見知らぬ若者とスピードを競って最後は息絶え絶えになって辿り着いた横岳石室小屋、それぞれの山行ごとに忘れられない思い出がある。これから述べるのはにらみ合っている雄カモシカの脇をそっと通り抜けた日の山行だ。
1997.09.27
本庄06:00=佐久IC=麦草峠=美濃戸口09:45~10:00-赤岳鉱泉13:30(泊)
本庄北高PTAOB・OGの3人と車で出かける。
20年ぶりに泊った赤岳鉱泉は新しい棟が増築されて、1部屋に向い合せの二段ベットが設置されているだけのへやだった。小屋の西は緩やかなスロープとなっていて、雪の中にテントを張った懷かしい場所だ。
1997.09.28
鉱泉06:40-行者小屋7:10~20-(地蔵尾根)-地蔵の頭09:00~20ー赤岳山頂(2899m)9:45~10:40-中岳コル11:20~40-阿弥陀コル12:00-阿弥陀岳山頂(2524m)12:30~45-阿弥陀コル13:05~35-行者小屋14:20~50-美濃戸16:20~40-美濃戸口17:30=望月町=本庄21:30
快晴の気持ちいい朝を迎えた。空気は冷たく、稜線が白く見えるのは霧氷だろう。行者小屋から稜線までの最短距離を取って、地蔵尾根を登る。写真は地蔵の頭からの赤岳。同行のKは「赤岳じゃあない。白岳じゃないか。」と呟く。空中の水分が岩肌に凍り付いて白く輝いている。凍て附く空気が急登を登り切った肌に心地よい。
ここから30分たらずで赤岳頂上へ。雲海がまだ上昇しきっておらず、北アルプスや南アルプスが見えないのが残念。
次の写真は頂上直下から赤岳、横岳、硫黄岳を振り返ったところ。(私以外の二人はさっさと向こうの世界へ行ってしまわれた。)
真ん中に横岳の大同心が突き立っている。硫黄の南面はじょうご沢。春山では青氷の世界だ。
赤岳から西にルートをとる。中岳を越えて阿弥陀岳へ。背後の「白岳」が大きい。15分の休憩を取り、いよいよ下山へ。阿弥陀のコルから始めはトラバース気味に下る。ここで思いがけない状況に出くわした。下山道のすぐ横にカモシカが2頭、頭を突き合せんばかりににらみ合っている。恐る恐る近附くと、グエーグエーと低いうなり声を発している。50cmも離れていないすぐ横を刺激しないようにそっと通り抜ける。手を伸ばせば届く距離だ。万一興奮しているカモシカが人間に角を向けて跳びかかってきたら、ただでは濟まない。緊張したまま3人が通り過ぎても、2頭は2頭は全く動かない。初めに動いた方が負けと言っているかのようだ。すぐ横に見たカモシカは大きく恐ろしかった。
ここから沢に下りる。春山では尻をついてザックをかかえて滑り降りたボブスレーコースで、行者小屋手前まで降りる快適なルートだった。
行者小屋から先は往路の逆ルート、美濃戸口からK氏の車で本庄へ。
スケッチは1974.3.28のもの。春山合宿のテント前から描いたもので、この山行の時のものではないが、懐かしい絵なのでここに掲げる。