1976.12.25-30 冬山合宿 上州武尊 恐怖の雪山

これまで私が経験した雪山は、春山で奥秩父、南八ヶ岳、北八ヶ岳、巻機山、鳳凰、安達太良で、5月の連休まで含めれば谷川の日白山・平標、平ヶ岳、尾瀬が入る。冬山となると上州武尊、浅間、巻機、白砂だ。春山の気温、雪質と冬山のそれとは全く違う。ワカンの靴で一歩踏み出すたびにふわっと舞い上がる冬山の雪の結晶の美しさは、今でもわたしの思い出の中に大切なものとなって、なにかのたびに蘇ってくる。
もちろん冬山の嚴しさは、恐ろしい。その一つは浅間山で、それについては別の所で書いた。今回は上州武尊について。

上州武尊をジョウシュウホタカと読める人は山の通であると何かで読んだ。武尊の本来の読み方は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のタケルノミコトだ。私の町の秋祭に山車が巡行される。山車の後部に2メートルほどの人形が設置され、せり上がる仕組みになっているのだが、その中の一つに日本武尊がいる(ある)。その祭りを支える町内会がタケル会と名付けて「武」の字を当てている。
古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊となっていて、文学的には政治色のにおいの強い日本書紀を避けて古事記を問題にしている。日本にも英雄時代があったというテーマのなかで、倭建命は浪漫的英雄と位置付けられている。英雄とは、後の絶対的権力者としての古代天皇と違って、一族を率いて自ら戦いの先頭に立ち、部族の運命を切り開いていく、そういうリーダーをさす。倭の五王のひとり雄略天皇が中国の皇帝に差し出した文章にそれが示されている。
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んずる日もなく・・・(現代語訳)
熊襲を討ち、蝦夷を討伐し、或はその戦いの中で消えていった幾多の英雄がいた。それらを一人の武将に形象したのが倭建命・日本尊だ。そのヤマトタケルが父の命で東国を討伐して回った時、この山に登り頂上で遠く来し方に思いをはせている。いまヤマトタケルの銅像が立っている。東南を眺めているヤマトタケルは、走水(東京湾の首の部分)で自分に代わって海に身を投じて海神の怒りを鎮めた弟橘姫をしのんでいるのである。                     
山岳部の戲け者がある年の冬山合宿で、いよいよ明日は下山というので、この銅像のヤマトタケルに別れの接吻をした。途端に唇が張り付いて離れなくなり、引きはがした時は悲惨なことになっていたというエピソードが長く伝えられた。別な時だが、晴れた日の午後3時に陽だまりでうとうとしていて、気温を計ったら-19℃だった。素肌と金属は相性が悪い。
ちなみにヤマトタケルは本庄の辺りも通過している。私の父は幼い私に、「あの林はヤマトタケルが休んだ林だ。」と指さして教えてくれたことがある。金子兜太は「狼を龍神とよぶ山の民」という句を詠んでいる。龍神が両神になったと考えておられた。ヤマトタケル伝説では、両神山は日本武尊が東征した際、このユニークな山を八日間見続けて歩いたので八日見と名づけ、それが両神の名になったという。その話をし、先生の説の方が説得力がありますと話したところ、嬉しそうな顔をされたのを覚えている。秩父を愛し、両神を愛された先生の顔が浮かぶ。
なおヤマトタケルは武甲山に甲を奉納したことになっている。武甲の武はタケルの意味だ。これも余談だが、ヤマトタケルは常陸から甲斐の國に入りそこから武蔵、上野、碓氷を通って信濃に出たとある。ルートを考えれば、雁坂峠を越えたと考えるのが自然で、そこから秩父に出て上里を経て上州武尊を通り、碓氷峠で「吾妻はや」と詠嘆した。北関東に残っているタケル伝説は日本書紀が基になっているのだろうか。

もう一つの問題。なぜこの山の表示、武尊をホタカと読むのか。タケル山、タケルのミコト山と読まないのはなぜか。
ホタカとは本来穂高なのだ。北アルプスの穂高と同じ意味である。「穂」とは尖った山容を言った。温泉地伊香保の原義は「嚴めしい穂」だった。伊香保神社の岩峰を見れば頷ける。
上州武尊を人々はホタカと呼んでいた。2160mの高さはこの辺で群を抜いている。農民はホタカのお山に雪が来た、ホタカのお山に雪形の爺さんが現れた(?)などと言って、日常のナリワイにいそしんだのだろう。ある時、日本書紀に通じたお偉いさんが、風土記のごときものにこの山を武尊と記した。ところが人々はホタカさんと言って親しんでいる。武尊山と書くけれど読む時はホタカヤマと読む、命名に固執したのだ。
以上が岩田説である。お粗末様。

肝心の山行の話に戻ろう。わたしが冬休みの冬山合宿で上州武尊に初めて入ったのは、熊谷高校に赴任した年だった。28歳だったから若かった。水上から湯の小屋行きのバスに乗り上野原入り口で下りて歩き始める。降りしきる雪の中を部落を拔け畑を拔け、いよいよ山道に入る。初めての経験に不安と期待に胸がいっぱいだったことを覚えている。この年以来私の年末の一週間は、ほとんど上州武尊の雪の中だった。14年間の在任中9回が上州武尊、他が巻機と白砂だった。年賀状はいつも正月に書いた。

これから記す山行記録はスケッチなど許してくれなかった。代わりに晴天に恵まれた、私のはじめての武尊のスケッチを置こう。上州武尊の主峰沖武尊(通称オキホ)の肩2000mのベースキャンプからの景である。

 
1976.12.25 重たい雪の中、雪女が――
本庄07:41ー水上09:15/10:00――上野原入り口10:50/11:00――炭焼跡11:30
 水上駅に冷たい雨の中に着く。バスの途中から雪になりしもベタ雪。上野原入り口で下車して歩き始めると、濡れてくる。いやな雪だ。ただ集落のはずれの応永寺を過ぎるあたりから本格的な雪になる。道は上野原高原の林に入る。途端に雪が深くなり、ここでワカンをつける。ラッセルは膝までの深さ。30分で炭焼き跡へ。もう炭焼き窯らしいものは何もない。ただすぐ横に沢が流れており、人の生業を支えていたであろうことが想像できる。ここで一日目の幕営のため設営する。
 この沢には一つのエピソードが残っている。7年前の冬山合宿のときのこと。夕食を終えて、当番の一年生がひとり沢で食器を洗っていた。何か人の気配を感じた彼はふと後ろを振り返ってみた。そこに見たのは、白い着物を着て髪を長く足らした女性の立ち姿だった。「ユキオンナ!」ぞうッとした彼は食器も何も投げ捨ててテントの中に飛び込んだ。叫ぶ彼の声で仲間が外に出てみたが誰もいない。彼も出てきて不審そうにあたりを見回していたが、「その杉の木だったかもしれない」とつぶやく。私はこの幻視の話が気に入って、その年の年賀状の版画に、テントの横にひっそりと立つユキ女の後ろ姿を使った。

1976.12.26 他高生のおかげでラッセルなく
炭焼き跡08:30ー宝台樹尾根11:00ー1600地点ーコル12:30/13:00ー避難小屋14:00(幕営)
朝、玉川工山岳部がテントの横を通っていく。アタックザックで7・8名。出発後今度は狭山高に追い抜かれる。こちらもアタックザックで10名ほど。おかげでトレースができて、こちらラッセルなしで快適に歩く。これまで他校生に会ったことはなかった。どこまで登るのだろう。一年生がバテてペースが遅れる。50㎏超の荷物で、初めての雪だ。無理もない。宝台樹尾根に出たところで一本立てる。配られた羊羹が美味かった。そこから左へひと喘ぎすると須原尾根の1600地点に辿りつく。空腹をこらえてさらにこぶを二つ越え、その先のコルで昼食。玉工高、狭山高の戻るのに会う。
雪の舞う中を尾根から20m下って避難小屋に到着。誰もいない。この避難小屋は床板は燃やされてしまって全くない。地面がむき出しだ。寒い小屋を避けて幕営とする。我々だけの世界。雪さらに烈し。

1976.12.27 猫岩をまいて壁をよじる
避難小屋08:45ー第一の壁の下ー猫岩ー沖武の肩12:30
昨日の狭山高が再び登って来て猫岩下まで往復していった。お陰でラッセルがらくになった。ただ問題はこの猫岩から先だ。まずこの猫岩が最大の難関だ。垂直の3mほどの崖で、秋のトレーニング山行を兼ねた下見では木の根に摑まり足場にしてなんとかなったのだが、雪に覆われたうえに大きなザックを背負った部員にとってはとんでもない難関となる。年によっては正面からアタックしたこともある。しかし今回はルートから外れて横の草付きを登ることとした。これも先頭と最後とでは条件が大きく異なる。最後の方は雪はスリップした後で足場の確保が難しい。今年は特に雪が多かった。小1時間かけて全員登攀。
岩場を登り詰めた上は処女雪。エネルギーを使い果たしたのか、空腹だからか、ラッセルがこたえる。30分後ようやく肩のテラスに到着し、降りしきる雪の中天幕を設営し、ようやく昼食。その後風上にブロックを積む。ワカンの紐が凍り、指が痛い。晴れ間なく夜になってさらに雪烈し。顧問はスキットルからウイスキーを含む。寒さのせいで胃に全くこたえない。それでも眠りにつける。現役は可哀想だ。

1976.12.28 雪山の美しさ
ベースキャンプ――沖武尊――武尊像――池――家の串分岐11:20/50――池――尾根道――BC
目が覚めて外に出ると、天幕が雪で半分埋まっている。全員で雪かき。雪烈しく風強し。目出帽、ゴーグル、オーバー手袋、オーバーズボン、ワカン、ストックの完全装備で前武尊岳を目指す。緊張感からみな無口だ。吹きさらしの沖武尊から日本武尊の銅像を経て池(もちろん雪に埋もれている)まで降りると風下に入る。しかしそこから家の串分岐まできて、雪は深くなり、これ以上先に行くのは無理と判断し、戻ることを指示。来た道を戻るなか沖武尊の尾根に出ると雪が止み、青空さえ見えだした。天候の好転は気分まで変える。目の前に雄大な景が広がる。浅間が大きく、振り返れば至仏山が間近だ。赤城の裾野に渋川の町並みまで見えた。風は強いが雪山の美しさを皆堪能した。ただ青空はベースキャンプにつくまで。ふたたび雪が舞始め、夜に入りますます激しくなる。ただ明日は下山。いつも半日で上野原高原山の家に着く。何も心配しないで眠りについた。

1976.12.29 恐怖の雪山
BC08:45――猫岩の壁――避難小屋上13:00ー(昼食)ー1600地点――名倉沢――山の家林氏宅21:20
目が覚めると、ん?と目を疑った。テントが顔のすぐ上30cmまで迫っている。これはドカ雪だと気がついた。テントの入り口を開けると雪でまったくふさがれている。大変な日になるかもしれないという予感が心をかすめた。
ただ今日はいよいよ下山の日。例年午前中に下の上野原山の家に下りられる。自分を励まして深い雪の中を撤収。まだこの時点では何も気にしていなかった。ただ雪は深い。ラッセルは両足を深々と埋める。猫岩の壁は転落の危険があると判断してザイルを使う。ミッテルマン結びでグリップを確保した。
下の林に入って第一の壁に出る所でル―トハンテイングに誤る。雪山の下山は危険だ。雪の降る中視界はきかない。どちらが尾根につながる下りなのか、分からないのだ。顧問二人で道探しを強いられ、30分取られる。避難小屋を過ぎるころには全員空腹でラッセルに力が入らない。下りの場合トップはラッセルで雪を崩していく。二人目三人目が雪を固めて足場を作る。4人目以降は舗装道路を歩くようなもので、ラッセルの順番が来るまでに力を蓄える。普通であればこのローテーションで快適に下れるのだが、今日は雪が深く、ラッセルは直ぐに交代しないと続かない。この時点ですでに13:00を回っていた。私の頭にこれはちょっとまずいという思いが芽生え始めた。
1600地点に着く前の小さなピークで遲い昼食を指示した。パンとインスタントジュースの昼食は寒かった。雪の上に置くアルミのボウルのジュースがすぐに表面が凍り始める。
ただここまではまだ何とかなっていた。雪山の試練がこの後襲いかかる。1600地点から宝台樹尾根に入り、そこから名倉沢に入る。途端に雪が深くなった。沢の底はもっと深い。私はできるだけ上を辿るよう指示するが、ラッセルは腰の上までの深雪に動きが取れず、ペースがさらに落ちた。 宝台樹尾根と上野原高原の中間点で午後04:00をまわっていた。ラッセルは一人5mももたない。交代交代でラッセルを続けたが現役の体力に限界が迫ってきた。わたしは2年生でいちばん体力に頼みになりそうな一人を指名し、OBと私とで組んでラッセルを続ける作戦を取った。はじめのうちは何とか進めた。ところが30分もすると交代して5分も経たぬうちに、「先生おれ駄目です。」とギブアップしてしまった。え、もうお前しか頼りにできるのはいないのにと思ったが、これ以上叱咤するわけにいかない。もう一人の顧問は最後尾についてもらわざるを得ず、あとは私とOBでやるしかなくなった。
状況の深刻さが分かって、現役は黙り込んで話し声も聞えない。ビバークすることは不可能な斜面だ。一瞬雪洞のイメージが頭をかすめた。ファイト、ガンバの声を掛け合いながら進む。初めのうちは身体を前に倒して起き上がり、その凹んだ部分に足を置いて前へ進むやり方だったが、身体を前に投げ出すとストックを水平においても起き上がるのにかなりのエネルギーを要するので、そのうち膝をついてストックを前に出し起き上がるようにした。作るくぼみは小さくペースは落ちるが、何とか持続して進める。ようやく名倉沢の流れが緩やかになって炭焼き跡に到着。時刻は夜の8時をまわっていた。道は平たんになって雪の深さは半減してきた。なんとか上野原山の家の林氏宅までと、全員で必死のラッセル。そして何とか到着した時は09時20分。全員雪の上にザックを投げだしてしばらく動けない。林家の奥さんがだしてくれた紅茶の温かさ、美味しさ。そして熱い風呂。熱いのはいけないとぬるめだったそうだが、とにかく最高のもてなしだった。部員に湯でよく足の指を揉むよう指示する。さらに暖かい布団が待っていてくれた。厳しい一日の山行の終わりが我々を救ってくれた。電話で熊谷で待機中の顧問に、一日遅れたが、全員無事であることを伝える。

1976.12.30
晴れた空の下をラッセルなしの雪を踏みながらバス停へ。目の前に谷川岳・朝日・笠が輝き、なんとも美しい。厳しい雪山を乗り切ったわれわれを祝福してくれているようだった。

祝福してくれているようだったと書いたが、実は後日談がある。冬休み明けのミーテイングの中で、1年生の一人からとんでもない知らせを受けた。凍傷で左足の親指の中身が流れ出してしまったというのだ。13時間もワカンの紐で締め付けられていたためで、指を動かすよう指示しなかった顧問の責任が問われる場面だ。ただ生徒はもう済んでしまったことですと意に介さない風をしてくれた。私は責任は自分にあると謝罪した。ご両親にも謝罪に行くべきだったと今反省している。
もう一つの後日談。わたしも右足の親指を凍傷で痛めた。足先が10年余りしびれて感覚が鈍かった。ラッセルの順番待ちの時一生懸命締め付けられている指を動かそうとした。それでもこういう後遺症が残った。何も知らない現役部員たちにもっと声をかけるべきだったと思う。
ただ、救いはあった。20年経ったある日、山岳部の0B会で顔を合わせたこの時の部員たちは、みな懐かしそうに寄って来てくれた。あの日顧問はそれなりに必死だったのを部員たちは見ていたのだろう。例の親指が切断直前までいった男に親指の話をしてみた。見せてくれと言った私に「おれ、指紋のない男になってしまいましたよ」と笑いながら赤く光る指を出して見せた。彼にとっていわば闘いの証しとなっていたのだろうと思う。恨みがましいニュアンスはなかった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: