1984.7.25
熊谷06:53=大宮=米沢11:21/12:10=小国13:39/45=飯豊山荘14:48/15:18=堰堤下15:45(幕営)
飯豊は四度目なりしも今回のコースは第一回のものの逆。米沢から入るのも初めてだ。特急で米沢到着後駅前の喫茶店でコーヒーを注文し、持参のサンドウイッチで昼食をとる。米沢駅前には上杉謙信の「毘沙門天」の旗が列ぶ。20年前の大平温泉行を思い出そうとしたが手掛かりなし。
小国は大石川林道の下流の町。あの河原で身体を洗い、川の水を飲んだ。バスがついて時間がなかったのだろうか、駅は記憶に残っていない。今回駅からのバスは長者ヶ原停留所を素通りして梅花皮山荘まで。長者が原までの下りの道は長かったのにバスではあっけない。遠い日の姿が浮かぶ。温身平も知らずに通り過ぎて、バスは堰堤の下まできてしまった。夕立の中を天幕を設営する。
天幕を張り終わるころ上がった雨は、夜に入って再び激しく降る。稲妻、雨、沢音の中ウイスキーの酔いの中に眠る。
1984.7.26
幕営地06:07-石転び沢出合08:30-梅花皮(かいらぎ)小屋15:30-洗濯平手前(幕営)
朝、沢へ下る灌木の中、濡れた岩に滑って転倒。もみあげ上部に裂傷を負い出血。相棒の顧問は下山して医者の手当てが必要というが、ここまで来て登らずに帰れるかと消毒して出発する。雪渓までが長かった。1年生のKが遅れだし、新入部員のAも遅れだす。新人歓迎山行、夏山トレーニング山行、毎日のトレーニングを重ねてきた部員に合わせるのは無理かもしれぬ。今日はこれから高低差700m、3キロの雪渓を登らねばならぬ。
いしころび雪渓に入って30分歩き、デブリの土の上でアイゼン装着。風が冷たく寒い。登るほどにまだ色づかないアキアカネが雪の上で動けなくなったり死んだりしている。谷筋はトンボやチョウの頂上への通り道というが、雪のため命を奪われるのか。雪渓はトンボの墓場なのだろうか。
雪渓上部はガスの中。登ってきた雪渓を下に見ながら昼食をとる。出発するとAが苦しそうだ。声をかけつつ横を登る。最後の急斜面を土の上でなく雪の上を登る。アイゼンが外れたUが転倒。危険なので土の上へ導こうとピッケルでカッテイングして誘導中、あと一歩という所で再び転倒。襟首をつかんで引き留めたが、怯えたはUは草の上に出てもうまく歩けない。上では他の部員が急斜面に腰を下ろして待っている。落ちたら止まらないぞと怒鳴り付けて横の土の上に上がらせ、Uと合流し最後の斜面をトラバースして草付へ上がる。
雨が降り始めて登山道が滑る。突然ガスの中に梅花皮小屋が現れる。苦しい登りでKとAは消耗し尽くした感じ。
避難小屋は高校生で喧しく、洗濯平を目指す。しかしすでに良い場所は先着者に占められている。仕方なく引き返して洗濯平手前に幕営する。今日の夕立は14時。ずいぶん早かった。
1984.7.27
幕営地06:30-梅花皮岳-烏帽子岳08:53-御西小屋13:10-飯豊山頂上小屋天場17:00(幕営)
晴天。天場から目の前に大日岳が大きく、谷が深い。梅花皮岳・烏帽子岳と大日岳との間にゆるやかなピラミッド型に御西岳も見える。
全員の記念写真を撮って出発。昨日疲れ切った部員が辿った道を軽やかに踏み返して梅花皮岳へ。頂上手前のピークでAが嘔吐。休ませている間に北股岳とそれに続く門内岳をスケッチする。朝日連峰は陰で見えない。懐かしい場所を思い出しつつ雪田の上で昼食をとる。レモンがうまい。。烏帽子岳の下りで前任校の山岳部員だったOに出会う。大学(ICU)のワンゲルに入ったOはしごかれていて、私に気付くと縋りついてきた。強烈な日差しの中を御西小屋着。さきほどのOは仲良しで同じワンゲルに入ったIがいるかもしれないと言ったが、混んでいて分からない。すぐに出発して次の雪田の上で休憩をとる。飯豊本山へのゆるやかなスロープがハイマツの緑と雪の白に彩られて美しい。山頂への登りにかかったところでTが激しい腹痛を訴える。聞けば一昨日、昨日とほとんど眠っていないという。疲労している所へ雪を食べ急性腸カタルになったようだ。荷物を分け、他の部員は天場確保のため先行させ、休ませつつ歩く。陽が傾き、誰もいない本山頂上はトンボが乱舞していた。やっと着いた場所は乾いた砂地で、傍らが草地で気持いい。すぐ濡れた天幕を張り、シュラフを乾かす。Tはすぐに眠る。いっぱい寢て元気になってくれ。周りはお花畑が美しい。特にキスゲ。
夕食後、子守唄を口ずさみながら眠る。
1984.7.28
幕営地07:37-切合小屋10:30-地蔵小屋-御沢小屋18:58-川入・飯豊鉱泉19:40(泊)
日の出とともにガスが上がって、幸運にもブロッケンに会う。光の輪の中にめいめいの姿が浮かび興奮する。ガスが晴れると大日岳、御西岳、飯豊本山の雪田をかかえる姿が大きい。あそこを辿ってきた。天場が空っぽになって出発する。切合せで最後の雪田休憩をとる。他パーテイからコンデンスミルクを戴き感激する。
三国岳手前で心配していたTがダウン。荷を2年生に分け、2年生のKAとともに後発に。Tは発熱。三国岳のくだりで足をふらつかせぬかと懸念しながら地蔵岳へ向かう。ここからいよいよ最後の下りだ。途中で先発隊に追いつく。Kが歩けなくなっていた。Kも預かりひたすら下る。Kは泣きながら歩く。日没と競争しながらやっとのことで18:50御沢小屋に到着。今夜は小屋に泊ろうと皆を励まして川入鉱泉へ。小屋の主人は遭難対策の人。熊の胆を戴きTはやや落ち着いた。仏に出会った気分だ。山行の名残り。
1984.7.29
飯豊鉱泉06:25-一の木バス停06:50/07:15=山都07:50/08:35=新津=長岡=熊谷
長岡よりTと新幹線で一足先に帰る。Tは元気を回復して帰って行った。
熊谷女子高校4年目にして、初めて満足いく山行だった。2年生がよく頑張った。Nをはじめよく1年生(とくにK)の面倒を見てくれた。「がんばろう」と優しく勵ますNには敬服させられ続きだった。「先生私が荷物を持ちます」とダウンした後輩をかばったU、急遽この山行でリーダーとなったKA、それぞれの力とやさしさが1年生の信頼感を生んで、厳しかったこの山行を成功させた。見ていた私は何とか成功させてやりたかった。彼女たちがいなかったら梅花皮の峠から湯の平へ下ってしまったろう。
2年生、1年生、(顧問も加えて)の連帯感と共同体意識が快く残る山行だった。