北アルプスを白馬から槍・穂高までつなげて見たい、そんな願望を抱き始めたのはいつのころだったか。北アルプスを全山制覇したいという言い方になると僕の主義主張とは異なってくる。山は制覇するものではない、数をこなすことを目標にしてはいけない。ピークハンターという言葉をぼくは好まない。北アルプスにはぼくの好きな山がいくつもある。それらの総体としての北アルプスが僕は好きなのだ。あの山はもう登ったからもういいとはならない。白馬に登って白馬と心をかよわす。鹿島槍に登って、誰もいなくなる頂上で鹿島槍と対話する。そういうかかわりを求めているときに、ある山やある個所が抜けてしまうのは、その山や箇所に失礼ではないか。北アルプスが好きだということは北アルプスのすべての山が好きだということなのだ。人を好きだということと同じではないか。
そんなふうに考えて、北アルプスのルートを北から南まで全てつなげたいという思いを何年、何十年も懐いてきた。
その間、同じ山に何度か登る機会は持ったものの、種池から烏帽子の稜線が手付かずに残ってきた。中央にある針ノ木峠から北の種池までは、1973年の熊谷高校夏山合宿で歩くはずだった。白馬から針の木までという計画であった。しかし前日冷池(つべたいけ)テントサイトについたあとの天気図を見て驚いた。台風が日本のすぐ沿岸まで来ている。前日は17時過ぎまで行動していたので天気概況の時間は終わってしまっていて、台風情報に気付かなかったのだ。急きょ顧問・OBは相談し、翌朝下山することを決定した。冷池から針の木峠までのルートは幻に終わってしまった。
なんとかこのルートを歩きたいという思いを、15年後に実現させる機会を持った。この年、熊谷女子高登山部は飯豊連峰南部縦走を計画し、付添を他の顧問に譲った私はこの夏の山行予定が空いた。めったにないチャンスだった。梅雨明け10日が私に微笑んでくれるだろうか。
1988.7.27
本庄06:37=高崎06:56/07:10=篠ノ井09:20/29=松本10:29/59=信濃大町11:41/12:45=扇沢13:40――大沢小屋15:20
駅について汗びっしょり。高崎駅まで汗引かず。高崎発長野行は混んだ。座れたが、目の前の通路には女子高の登山部のミレーザックが5個並び、彼女たちが座れたのは中軽井沢を過ぎてからだった。そこまで全く姿を見せていなかった浅間が追分を過ぎるあたりから、青空の下に雄大な姿を見せる。懐かしさ一入。今回の山行に良い予感。
篠ノ井線は空いておりボックスにひとりずつ。かつて見たと同じくクルマユリとキスゲが美しく目に点じて過ぎていく。告げる人なし。一人旅の感しきり。「山を思へば人恋し 人を思へば山恋し」とは『たった一人の山』の浦松佐美太郎だったか。
大糸線から見る北アルプスは山腹より上が雲の中。2年前白馬からの帰りに見た、夕陽の中にシルエットに連なった山並みがイメージに懐かしく浮かぶ。途中から餓鬼岳、爺岳、鹿島槍ヶ岳が姿を現す。ボックスで一緒になった老夫婦と山の話をしながら大町へ。扇沢行のバスは黒部湖行の客ばかりで、登山者は私ひとりのみ。
ターミナルから意気揚々と歩き始めたものの、30分すると汗が噴き出て續かず、トレーニング不足を痛感する。クーラーの下で転寝して風邪をひいたのも原因ならん。針ノ木峠までの予定は思いもよらず、大沢小屋でダウン。幕営名簿は今シーズン7,8名のみ。今日は人影なし。夜に入り激しい雷雨となる。
1988.7.28
大沢小屋発07:50ー針の木雪渓取り付き08:20ー針ノ木峠天場11:40
4時に目が覚める。以前として雨激し。天幕内は水浸し。起きる意欲出ず。急場しのぎのトレンチ掘り。雨は次第に間歇的になり、小降りの中で小鳥の声が聞こえ始める。それを聞いているうちに、間近に聞くメボソムシクイの声におもしろい特徴を発見した。初めは美しい声とのみ聴いていたが、そのうちその声が、「クダロカナ クダロカナ クダルッ」「ノボロカナ ノボロカナ ノボルッ」と繰り返して囀っているようになった。自分の心を反映して、ある場合は「クダロカナ」になるかと思うと、また「ノボロカナ」にもなる。なかには最後に決心するかのように締めくくらず、未練がましく「クダロカナ」「ノボロカナ」のまま終わるものはある。ふだんゼニトリゼニトリと聞いていた鳴き声をこのように聞くのは初めて。聞く側の心のありようを露骨に反映する鳴き方ではあった。
そのうち天場のすぐ下の道を雨具に身を固めた人たちの姿が通り始めた。小屋に行ってみるとかなりの人数が休んでいる。船窪方面に行くという単独行の男を見てやはり出かけようと決心がつく。但し今回の体調では蓮華岳コースではなく種池コースにせざるを得ない。雨で重くなったテントを撤収し7:50出発。雪渓にかかって、雨は時折降るだけとなり、やがて晴れる。振り返れば爺岳の屹立する姿が美しい。但し足は重く、雪渓上部に来た時はほとんど気息奄々。針ノ木峠に午前中着いたものの、蓮華岳往復の気力もなく、ウイスキーを含みつつ、スケッチブックに鹿島槍・白馬方面と燕・槍方面を一枚ずつ、それなりに楽しい。すっかり晴れ渡った空の下、懐かしい山々を一つ一つ確認しつつ、次回はトレーニングを怠らず蓮華コースへ来ようと決心する。スケッチ2枚目は、手前が鳴沢岳、中央が鹿島槍ヶ岳、右が爺岳。スケッチ3枚目は、左に燕岳から大天井へのアルプス表銀座、右に烏帽子岳からの裏銀座、奥に槍・穂高。
天場は高校生のパーテイが夜遅くまで騒がしい。山のマナーが忘れられている。以前なら怒鳴ったものだが、最近は諦めの気持ち。満月の光にテントを照らされて眠る。
1988.7.29
針ノ木峠天場05:01ー針の木岳05:47/57ースバり岳06:33/50ー赤沢岳08:16/49ー鳴沢岳09:30/10:00ー岩小屋沢手前ピーク11:17/12:00ー種池天場13:25/13:35ー種池小屋14:03ー種池天場14:30
4時起床、5時出発。天場にはもう誰もいない。昨日の体調から考えて不安を抱きながら針の木への急登にかかる。しかし今日は体調良し。標準時間より早く頂上に着く。立山・劔が目の前に大きく広がり、15年も前に辿った針の木谷が深い。平の渡しから五色が原へ登った日が思い出される。目を転ずればこれから向かう爺岳方面が大きくうねっている。オレンジを食べ、早々に出発。初めの下りの両側のガレがすさまじい。前後して歩く大学生4人のパーテイは白馬から日本海まで行くとのこと。時間にとらわれない姿が羨ましい。スバり岳、赤沢岳も快適に過ぎ、鳴沢岳で中年4人組の男女のうちの女性から「ひとりでよく来られますね。」と声をかけられる。無精ひげの白く光る顔はずいぶん爺くさく見えたのだろう。一人のんびりとスケッチ。白馬から鹿島槍・爺ヶ岳が一望され、一つ一つの思い出がよみがえる(スケッチ1枚目)。道は黒部側を歩く部分が多く、風が冷たく汗をかかずに歩ける。空にはすじ雲が流れ、秋の気圧配置と同じよう。信越乗越手前の雪田の雪が喉にしみて美味かった。信越乗越山荘前で短パンに代えたころからエネルギー切れ。岩小屋沢岳手前のピークが緑も美しく、昼食を取ろうとしてつい誘惑に負けウイスキーを飲んでしまったのがいけなかった。途端に足がふらつき始めペースが落ちる。種池のキャンプサイトまでが長かった。種池小屋で改めて生ビールをジョッキに2杯、なんともうまかった。天場にもどって針ノ木岳と針ノ木雪渓をスケッチする。
種池の天場は今日は静かだ。ぐっすり眠る。
1988.07.30
種池天場06:07ー種池小屋06:25/40ー扇沢08:30/09:05ー扇沢バスターミナル09:20/30=大町10:10/20=松本=篠ノ井=軽井沢=高崎=本庄
4時半、目が覚めてベンチレーターを開けたとたん、目の前にベンチレータいっぱいの大きな満月に対面、うれしかった。
今日はもう下山。雷鳥の親子と登山道を共にし、爺岳に未練を残しつつ下山路へ。朝のヘリコプターが勇壮だ。扇沢で身体を拭い、生き返った気持で帰路へ。