北アルプス縦走コースのうち途切れているのが3か所ある。針の木から烏帽子、槍から北穂、奥穂から西穂だ。岩田学園60周年記念事業としての卒園者名簿作成、熊谷女子高80周年記念誌編集、旺文社教科書編集会議と、今年の夏は特に忙しい。そういう中で、今年行かなければもう行けなくなるのではないかという強迫観念のようなものに突き動かされて設定した山行だ。息子が同行してくれるとすれば今年のみとなろうから。父の夢を実現してやろうという配慮が彼の中に働いたのだろうか。父の申し出に二つ返事で「いいよ」と答えてくれた時はうれしかった。高校で山岳部にいたのに北アルプスは初めてというのも理由の一つに入っていたか。連日の猛暑のなかで身体を動かすことを節約しているような状態で、体力に不安はあるが同行者が心強い。5月の浅間行の際「もっと早く歩いていいよ」と言った息子だ。
1990.8.17
列車はすべて座れて大町まで。但し秋雨前線が東北地方にかかって次第に南下してきている。台風が台湾の東にあり今のところ北西に向かっているがいつ北上するかわからない。そんな懸念を裏付けるかのように大糸線から眺めるアルプスは半分から上すべてガスの中。息子は次第に気が進まなくなってくる気配。
大町からバスで扇沢へ。乗客は20名ほどなれど完全装備はわれわれのみ。いよいよ出発だ。大沢小屋へ。幕営地は先に中年のパーテイの一張りのみ。食事の支度をしているうちに激しい雷雨。一昨年ここに幕営したときとおなじだ。息子は明日帰ろうと言い出す。高校の山岳部の山行がほとんど雨だったことを思うと無理もない。天気図を描いても良い徴候なし。自分もふとそんな気になりかける。
やがて止み、天幕の外で先に張っていた人と言葉を交わす。「小屋の人に、これは夕立ではないと言われた」とのこと。前線の動きが活発なのであろう。でも先ほどは虹が出たという。息子と明日の朝決定することとし眠る。ダンロップテントは激しい雨にも何食わぬ顔、頼もしい味方だ。
1990.8.18
明るくなって目が覚める。外へ出て見ると蓮華岳の稜線が鮮やか。先のパーテイと再び話す。新潟のひと、二組の夫婦で、昨夜は天気予報で雨が激しくなると聞き、女性を大沢小屋に避難させた由。針ノ木峠で黒部胡と立山・劔を見て下りてくる予定という。息子に我々もとにかく峠まで登ろう、場合によってそのまま下りてくることも考えようと提案。下から20名以上の中年女性グループが到着したのと入れ替わりに07:10出発。雪渓に出たところで会った若者にアイゼンの必要性を問えば、「ほとんど高巻き、雪渓はずたずたです」とのこと。少々残念だ。実際高巻きは急峻で鎖に取り付いたり不安定なルートだったりで、帰路ここを下るのは勘弁という感あり。最後の登りがきつかったが、10:30予定時間内に峠に出た。一昨年の水場は枯れている。テント設営が済み外で寝転んでいると、針の木岳へ向かうグループの一人が「もう今日は終わりですか」と心底羨ましそうに言う。次の天場は種池だが8時間以上かかる。途中ででビバークするのだろうか。先着テントが一張り。名城大の二人で、「劔から白馬、日本海まで」と度肝を抜くようなことをさらりと言う。往復30分かかる水場まで行ってくるという息子に感謝。私一人であれば1ℓ150円の水を小屋から買って済ませたであろう。待っている間にスケッチ。天気は安定してきた。予定通り先に進もう。夜10時半外へ出て眺めた星空は圧倒的な美しさだった。スケッチは、針ノ木峠より烏帽子・三つ岳を経て槍・穂高。
1990.8.19
3:00起床。息子は頭の上に広がる星空に大きく感動の声を上げる。
4:50いよいよ憧れのコースへ。冷たい風に追いまくられながら蓮華の肩まで来ると、針の木が一瞬モルゲンロートに輝く。槍も全貌を見せ、振り返れば鹿島槍から白馬まで全て見はるかせる絶好の天気だ。しかも眼下は広大な雲海。のんびりしたペースで着いた頂上はひろびろとしてコマクサの群落でいっぱいだ。季節的にもうあきらめていただけに心底うれしくなる。息子は関心を示さないように見えたが、あとであそこから動きたくなかったと述懐した。三角点で後から来た聾唖の若者にせがまれてカメラのシャッターを押す。頂上発06:30。大下りの途中で追い抜いていった彼は、我々が鞍部についた時は七倉岳の頂上にいた。七倉の登りにかかってペースダウン。このぶんでは今日は船窪手前の天場までかと気弱になりかかりしも、それでは明日のコースタイムが10時間になってしまうと考え、少しでも先へと頑張る。天場で水を補給して昼食をとる。
ここからのアップダウンが苦しい。両側とくに信州側の崩壊がすさまじく、そのため尾根まで削り取られて小ピークの連続となったのであろう。200m下りきると150mの急登という呆れるようなコースだ。2300mのピークを越え、船窪キレットにわずかなスペースをみつけたときはすでに13:30。今日はここに幕営しよう。七倉尾根から登ったという男性が我々の天幕を羨ましそうに見たが、さらに先へ行くと言って立ち去る。元気だ。夕食にのんだコーヒーのせいならんか、息子と二人眠れず。星も今夜は少しうるんでいる。
1990.8.20
5:10出発。いよいよメインコースを歩く日だ。いきなり梯子の取りつきから始まる。眼下は両側ともすさまじいガレだ。ルートはガレで寸断されており、用心深く歩く。船窪岳06:26.。船窪から不動岳肩までは深い樹林帯。ハイマツの上の大岩を越えると意外なほど広々とした頂上だった。8:40。グレープフルーツを食べて9:10発。また200m下り、230m急登せねばならない。しかし最後の登りと思うと登ってしまうのがもったいない感もあり。南沢岳直下の庭園のような平地に憩う。夢のような世界だ。10:35南沢岳到着。広々とした白砂の中でわずかな岩陰をもとめて昼食を取り11:10発。ここから裏銀コースになると実感され、山のたたずまいが異なっているのが分かる。烏帽子(2627m)へのなだらかなルートが安心感を与えてくれる。
烏帽子四十八池は美しい。猿の群れが悠々と我々のわきを歩く。ハイマツの実を食べるのだろう、齧ったマツボックリがいくつも落ちている。にせ烏帽子のトラバースルートに雪田あり。思う存分喉を潤し、カップに詰めてすすりながら、12:50烏帽子天場に到着。今回の山行最後の目的地だ。ここに水場はなく、小屋で買うしかない。
午后の陽射しを避けナナカマドの下に寝ころべば、寒くなるほどの澄んだ大気。22年前を思いつつ三つ岳とその先野口五郎岳をスケッチする。他に外人2人と日本人1人のパーテイが幕営したが、我々より下の方に張ったため静かな最終日となった。明日の体力への心配もなく、ゆっくりと憩う。夕食のラーメンもうまかった。
1990.8.21
トイレに行った息子は朝焼けの雲と松本の灯に感動して戻る。5:06下界へ向けて出発する。ブナ立て尾根を前半熊高山岳部ペースで走り下る。2208三角点を5:38に通過。下りに下って濁沢に6:50到着。水場の水のうまかったこと。心おきなく飲み身体も拭いて出発。新しいダムのため20年前を思い出させるもの皆無。山よさよなら。七倉に着くと10分前にバスが出たばかりだ。4時間待つ間に温泉に入り、昼食を注文する。いい山行だった。
篠ノ井から妻にTEL。「毎日山の天気の欄を見ていた。」との返事。待つ人がいるのは幸せだ。