1990.11.18 両神山 おおかみを龍神と呼ぶ山の民 金子兜太


               
両神山には何度か登った。幕営がほとんどだった。一度妻と清滝小屋に泊ろうとしたことがあったが、あまりの混雑に辟易して急遽テント泊に切り替えたこともあった。いちばん思い出すのは、1980年の夏山トレーニング山行で、日向大谷口から登ろうとしてバスの回転場にテントを張った時のことである。まだ日が高い時間だったが、急に雷雨に襲われた。当時のテントはまだ一体化しておらず、グランドシートと屋根部が別だった。豪雨となってテントの中を水が流れた。しばらくして止んだ後。気がつくと沢蟹が何匹もテントの中を這っていたのである。丁重にお引き取り願ったが、このとき「ミズミズシイ」テントという言葉が生まれて、しばらく語り草となった。スケッチは両神山梵天尾根より眺めた奥秩父の山々。右から三宝山、甲武信岳・木賊山・雁坂嶺・唐松尾山・雲取山。手前が十文字峠から延びる白泰尾根。
その後30年以上たって、両神が改めて忘れられない山となったことが生まれた。両神を愛した俳人金子兜太氏と話を交わしたことである。この時のことを旧著『幼な子とともに歩んで』に書いたが、ここに再録しておきたい。

金子兜太氏の講演は大好評でした。凄絶なトラック諸島での戦場体験の話を踏まえて、正義の戦争などない、人は自然に死ななければいけない、戦場で死んではいけないと強調されました。また、+
水脈(みお)の果炎天の墓碑を置きて去る
を紹介して、「戦争で死んでいった人たちに何とか報いたい。その道は戦争などという忌まわしいことのない自由な世の中を求める事にある、と思い定めていた。」といわれた苦渋の言葉は忘れられません。私たちはその言葉をしっかり受け止めて、金子氏といっしょに歩んで行きたいと思います。
今回私が金子氏を送迎する係りを希望しました。氏の作品を読む中で、私の中に結んだイメージは、現代俳句の旗手であること、戦争体験をご自身の生き方の原点としていること、これが氏の中で統一されていて、さらにそれを支えるものとして産土(うぶすな)・ふるさととしての秩父に対する愛着があることでした。講演に先立って氏の紹介をする事になった私は、事前にわたしのとらえ方について、氏の意見をお聞きしました。氏はそれでOKであるといってくれました。
その中で、とくに私は氏の秩父に対する思いをお聞きしたいという希望を持っていました。「七十歳代後半あたりから、生きものの存在の基本は『土』なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を『産土(うぶすな)』と思い定めてきた。」(『金子兜太自選句解99句』)という言葉は私の大好きなものです。ふるさとを慕う人は信じられるというのが私の人生観でもあります。
氏の
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民
を挙げ、「私は、倭建命が秩父に向かう時に八日間見続けたことで、八日見が両神になったと学んできました。龍神が両神になったとする説はひじょうに魅力的です」というとうれしそうに頷いておられました。
私は最後のニホンオオカミといわれた剥製をみたことがあります。それは想像していたよりずっと小さく、ヨーロッパの赤頭巾ちゃんを一のみにしてしまう獰猛な狼とは似ても似つかぬものでした。山の民が龍神と呼んだということは、ニホンオオカミが山の民からある崇敬の念を持って眺められていた、人々の近くに生きていたことを表しているとおもわれます。写真は頂上両神神社の御神体を示す柱。「大神」は「狼」です。その山の民とは柳田國男がいうサンカ(マタギ)でしょうか。秩父出身の男に、両神山の麓にサンカの末裔が住んでいると聞いたことがあります。
サンカと称する者の生活に付ては、永い間に色々な話を聞いて居る。われわれ平地の住人との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにして居らぬ点、次には定まった場所に家の無いと云ふ
点であるかと思ふ。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたやうであるが、その多くは話としても我々には伝はって居らぬ。(柳田國男「山の人生」)
マタギは冬分には山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕れば其肉を食らひ、皮と熊胆を付近の里へ持って出て、穀物に交易して山の小屋へ還る。時には峰づたひに上州信州の邊ま
で、下りて来ることがあるといふ。(〃)

『遠野物語』にも恐ろしい男にさらわれた娘と十三年過ぎて山中で出あった話が載っています。村の娘が我々と少し違う男の妻となったという話です。新しい血を入れるために村の女性をさらったのでしょう。我々とほとんど交渉を持たずに、峰から峰を渡り歩く種族が居たことは確かでしょう。そんな人たちが狼を龍神と呼んだのは、きわめて自然な事だったと考えられます。我々が既に失ってしまった世界が、かつて秩父にも存在していたと知ることは、なんとも貴重なもののように思えてなりません。
金子兜太氏の講演から離れて、夢想に似た話となりました。ほんとうに夢想でしょうか。民俗学は、文字に記録されない部分にこそ、常民の姿があるという立場をとります。もしかすると、これこそが歴史のほんとうの姿かもしれません。金子兜太氏の句は、その歴史的な事実を本能的につかんだものかもしれないと思っています。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: