1987.07.27-31 夏山合宿 会津駒ケ岳より中門岳へ

桧枝岐部落を初めて訪れたのは50年以上も昔のことだ。結婚したばかりの妻を語らって、平家落人部落という名にひかれて尾瀬から沼田街道を下って七入りに出る旧道を下った。いわゆる会津裏街道と呼ばれた道だ。私の持つ五万図は「昭和二十三年十月撮影空中写真平面図化法」と右から書いてある恐ろしいものだ。尾瀬沼の横を通る広い道が通っているのだが、実際は険しい山道で、本当に昔の旅人はこんな道を通ったのだろうかと思われるようだった。
道行沢を下に見るあたりに大きな滝があった。当時の五万図には出ていない。我々は「般若の滝」と名付けようと決めた覚えがあるのだが、その後いつのころからか、抱返ノ滝という煽情的な名が記載されていることに気づいた。
七入りからバスに乗れたのは、会津駒への登山者用だったのだろう。そこから桧枝岐に出て歌舞伎舞台などを眺め、翌日駒ケ岳を歩いて大杉岳から南下したら、自衛隊の服を着た人たちがたくさんいて道路を作っていた。今の御池だった。まだ尾瀬が混雑する前のことである。
以来会津駒ケ岳は私の愛する山の一つとなった。小学校低学年だった息子たちは、稜線に無数に飛んでいた赤とんぼを覚えている。また、一人で出かけて七入りからの登りで夕立に襲われ、稲妻が目の前を横に走るのを見る経験もした。

そんな私が頂上から1km足らずの中門だけを知ったのはずっと後のことだった。このことを思い出すたび思い出すのが『徒然草』の第五十二段である。
仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人徒歩よりまうでけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得てかへりにけり。      さてかたへの人にあひて、「年頃思ひしことはたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも参りたる人毎に山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれとおもひて、山までは見ず」とぞいひける。少しの事にも先達はあらまほしき事なり。


石清水は山の上にあるのに知らずに帰った男の話。私も越後駒に登ることが本来の目的だとして中門岳まではみなかった。中門岳を初めて訪れたときこの第五十二段を思い出して切歯扼腕したことを思い出す。中門岳は何度来ても美しい。

1987.07.27
熊谷6:42=羽生・舘林・佐野・栃木・下今市=会津高原11:36/12:30=桧枝岐スキー場入口14;30(幕営)
鬼怒川から渓谷沿いに会津高原駅へ。高原駅から田島。それぞれ別の第三セクターによる新線という。
途中断続的に激しい雷雨。スキー場入口は今年からキャンプ指定地から外されたとのことで心配しながら降りる。民宿で聞いて管理人に会って依頼すれば快くOKしてくれる。静かな草原で我々ともう一張りのみ雨激しく、シュラフを心配しながら眠る。

1987.7.28
天気図では梅雨前線の間近で雨の音激しく、黒雲の重く垂れこめる空を眺めて、今日は停滞と決定。天幕の隅にたまっている水を掻い出し、トレンチを掘る。断続的に激しく降る中を桧枝岐部落へ散歩に出かける。遭難碑、歌舞伎舞台、石像等を見物し、共同浴場まで。帰路たちそばを食べ、コーヒー。雨の中時々陽が差し始める。明日は大丈夫ならんか。夕食時ミーティング。部員は駒ケ岳へは絶対行くとの意向。久しぶりに意欲的な姿勢がうれしい。中華丼の夕食も美味。

1987.7.29
幕営地6:00ー水場8:20⋰40ー駒の小屋9:30ー会津駒ケ岳-中門岳ー駒の小屋(泊)
時間通りに出発。30分後から急登が始まる。一人が遅れ出す。今日の戦闘はS。0とともに快調だ。二本目はなんとか水場までと1時間半ほど歩く。ようやく着いた沢の水が冷たく喉にしみる。ひとあえぎして緩やかになり、向かいに駒の尾根が緑に美しく見え始めて、石楠花の咲く木道へ出る。見覚えのある道なり。肩に小さく小屋が見え歓声がわく。道は草原の中を行き、池塘が現れ、木の階段を上がりきればそこが駒の小屋。かつて小屋の前にあった天場はなく小屋泊まりせねばならない。炊事にかかろうとして大きな誤算を発見。前回あれほど多量にあった雪田が影もない。水場として予定していた我々にはショックで、太鼓判を押していた私に恨みの声しきり。前回は8月であったにかかわらず、駒の池の中まで雪田がつづいていたのに。致し方なく池の赤い水を煮沸して使うことにする。小屋の管理人に聞けば、今年は雪が少なかったとか。
部屋に荷を置いてサブザックで駒ケ岳、中門岳へ出発。中門岳は私も初めてのコースだ。青空の下快適に歩く。緑の草原に池塘が美しく。ほとりにワタスゲが白く揺れて幻想的雰囲気が漂う。雲の流れる姿も美しく水面に映る。木道は行き止まりでぐるりと円を描いて戻る。昼食後出発。イワヒバリの巣を木道の陰に発見する。薄茶色の卵が4個。数多い山行で2回目だ。目を転ずれば尾根の向かいに平が岳。残雪はすでに沢筋にわずかにみえるのみ。あの白く輝いていた雄姿とちがって何やらみすぼらしい。緩やかな起伏をたどって駒ケ岳トラバースルートから駒の小屋へ。
暮れてゆく小屋で管理人の息子さんと語る。スキ―指導員の彼の語る雪の駒ケ岳の素晴らしさ、水を運ぶ苦労など1時間ほど。ビールをごちそうになり部屋に戻る。更にウイスキーでついに酔いつぶれて眠る。大きないびきなりしと後で聞く。
ミーティングの中で明日のルートを検討する。裏燧ルートから十字路へのルートは停滞があったため中止。尾瀬沼から燧を往復することを決定。酔いの中。

1987.7.30
駒の小屋6:00ー大津岐峠7:20-七入分岐8:35~45-御池ロッジ10;30~12:20=沼山峠12:45‐尾瀬沼キャンプ場13:40(幕営)
今日も予定通り出発する。5年ほど前に辿った尾根道にトンボを追った息子たちの姿が浮かぶ。小屋の親子も鎌をもって出発。大杉岳のルート整備にと言う。好調に辿って大津岐峠・七入分岐へ。美しい草原もここまで。前回天幕を張った池塘は美しい姿でそのまま残っていた。
ここから大杉岳へ。樹林帯の路が暑い。頂上手前に開けた草原あり。ワレモコウ、リンドウが可憐だ。ショートパンツに着替え、なんとなく頂上を越えて一気に下る。一人調子悪し。日射病ならんか。
御池ロッジの冷たい水で顔を洗い、コーヒーで握り飯の昼食をとる。なんということなく尾瀬沼キャンプ場へ。天幕設営後現役が食事を作るまでと、顧問は散歩に出る。一人は夕景を撮影するとのこと。残り二人は尾瀬沼畔で生ビールを飲みヤナギランの丘で長蔵氏の墓に挨拶をして無事を謝した。

1987.7.31
幕営地4:00ー燧ケ岳7:30~8:05-幕営地10:00~11:20ー三平峠12:00ー大清水14:15~15:40=沼田17:30~43=本庄19:20

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1985.08.29-31 守門岳

この山も我が山の師である吉川氏の呟きから始まった。いつだったか吉川氏が「新潟には守門岳、浅草岳といういい山があるんですよ」と呟いたことがある。浅草というと樋口一葉や永井荷風が連想されて山としてのイメージは結ばなかったが、守門という名の響きは私を捉えた。私の好きな白毛門と響きが通い合ったからかもしれない。地図を見て栃尾という山奥のさらに奥だということも私の心を誘った。それから何年経ったか。

1985.08.29
本庄=湯沢(昼食)=長岡=栃尾=栃堀=避難小屋(幕営)
栃堀、急坂の道の両側に民家が続く。栃尾は錦鯉の養殖産地。不思議な土地だ。林道をたどって終点にテントを張る。林の中に開けた草地だ。

1985.08.30
天場07:00-保久礼08:00/30-キビタキ小屋-大岳11:00-青雲岳-守門岳(1537m)12:15/40-青雲岳(昼食)12:45/13:30-大岳14:10/40-天狗岩屋-保久礼15:30/16:00-天場16:45/17:15=栃堀=小千谷=湯沢
出発して1時間。保久礼に着く。ホッキュウレなんて読める人はいるのか。立派な小屋もある。さらに進むとキビタキ小屋。私の父岩田五郎は子供のころから庭にやってくるキビタキが好きだったと語ったことがある。心惹かれる小屋だが、のんびり休んでいる時間はない。
 出発して4時間。ようやく四方を見渡せる大岳に着く。大岳から見た青雲・守門頂上への道は断崖の上。スケッチにおさめる。ガイドブックによれば、大岳、青雲、守門の東側はは爆裂火口だったとある。この絶壁はそれだったのかと見ると自然の営みのスケールの大きさに魅せられる。その上がこれから辿る、緩やかに伸びるルートだ。先端に守門岳が頭を持ち上げている。あそこまで行く。
まず網張まで130mくだる。そして最後の登りに向かう。なだらかな登りだ。手前のピークをアオグモとよぶ。これもいい名だ。そしていよいよ守門頂上へ。ついた途端目の下に見える田子倉ダムが目に飛び込んできた。振り返れば越後三山も。周囲360度山々が重なるが、まだなんという山か分からぬ。それでも辿ってきた道の終点に立って来し方を眺めるというのは至福の時間だった。広々とした青雲にまで戻ってビールを飲み昼食のラーメンを作りコーヒーを飲む。下りは元来た道だ。安心感があり、ゆっくりと下った。

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2010.10.05 本庄から見える山

本庄から見える山を全部登りたい、何十年もそう思い続けてきた。故郷本庄を慕い続けたころからだが、本庄に帰ってきて実際に山が目の前に姿を見せるようになってから特にその思いは強くなった。山が招いているようでもあり、その招きに応えずにいることが何か濟まない気持になってきたのでもある。
本庄台地を北に下った田んぼの中から山が見渡せる。東は筑波山から始まって、日光の山塊、庚申山と袈裟丸山、赤城山(黒檜・地蔵・荒山・鍋割)、子持山、間に谷川岳と白毛門・笠ヶ岳、仙の倉、手前に小野子山と十二ヶ岳、奥に白砂山と堂岩山、手前に榛名山、左奥に草津白根、手前に笹蒔山、浅間隱山、角落山と剣の峰、鼻曲山、留夫山、一の字山、上に大きく浅間山と剣が峰、妙義山(白雲・相馬・金洞・金鶏)、物見山、荒船山と経塚山、牛伏山、赤久縄山、西・東御荷鉾山、雨降山、父不見山、両神山、甲武信岳と両脇に三宝と破不山,雁坂嶺、手前に城峰山、向こうに白石山、手前に陣見山と十二天奥に外秩父。
ある晴れた秋の日、わたしはスケッチブックを手にしてでかけ、山の名を一つずつ確認しながらスケッチしてみた。これはうれしい作業だった。コピーしてつなげてみると、私があれほど慕ってきた山がすべて私の手元に置かれることとなった。私はそれらをつなげて一枚として部屋に貼ってみた。

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1997.05.25 剣の峰・角落山

1997.05.25
本庄11:15=霧積温泉13:04-稜線13:55~14:00-剣の峰14:25~30-角落山15:20~25-コル15:45-剣の峰16:20~30-霧積温泉17:10~30=本庄19:15

角落山とは見事に名付けたものと思う。鋭くとがったピラミッドの途中を鋭い刃物で斜めにスパッと切断したような姿を、古人は角の上半分が落ちたと表現した。あの切断面に立ってみたいと長い間憧れていた。
出発前に本庄東幼稚園の警報装置が作動するハプニングあり。さいわい庭木の整備に来た二郎氏に知らせておかなかったためと判明。だが出発が遅れた。霧積温泉からの登山道は鼻曲山へのみち。稜線に出た地点で右に分かれて剣の峯へ。標高差はほとんど感じないが、ユニークな岩山だ。そそり立つ岩壁の下を横切っていく。角落山へのコルから反対側の景色が見えたが、あとは植生に遮られて展望はない。頂上も杉の木立で何も見えない。本庄から見て想像していたより狹い傾斜地だ。
午后の陽射しが傾いて帰路を急ぎたくなる。本庄を早朝に出発していればゆとりをもって歩けたものをとの思いを残して帰途に就く。
スケッチは本庄から見た西北西の山々。浅間と浅間隠しの間、鼻曲と並んで角落山がある。

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2012.08.16‐17 谷川連峰南北縦走 孫娘は11時間歩いた

谷川岳は標高2000m足らずと低く、岩山でもあり、夏登る山ではないといわれるが、息子、孫娘と一緒に出掛けるには夏休みしかチャンスがない。なぜ谷川連峰か。息子とその兄が小学生だった時に家族で蓬小屋に泊まって谷川岳天神尾根までたどったことがあり、ひと世代後のメンバーと一緒に同じ山を登っておきたいという思いから選んだものだ。孫娘二人のうち一人が受け入れてくれた。

2012.08.16
一日目、天神尾根の登りは、避難小屋を過ぎるとブナの樹林帯が終わって、その先は岩場の連続となり、暑さがこたえる。関越自動車道の排気煙突を見ても、開け行く景色を見ても、孫娘は不機嫌そうだった。高校で山岳部員だった息子と息子が入学する前に山岳部顧問だった私だけが、上州武尊だ、至仏だ、笠だ、平が岳だと大騒ぎしていても、孫娘にとっては知らない山だ。かわいそうに、耐えるだけの登りだったのだろう。それでも肩の小屋が見えたときはうれしそうだった。ただ、肩の雪田が全く消えてしまっていたのは残念だった。真夏の雪の味を味わってほしかったのに。小屋は新しく、相部屋だったが気持ちいい部屋だった。
荷物を置いて、缶ビールだけ持ってトマノ耳(1963m)に出かける。目の下にマチガ沢が下っていて、その横に巌剛新道と緑の西黒尾根が登ってきている。むかし頂きにあこがれて辿ったコースだ。今思うと、その頃の方が山に対する敬虔な気持ちは強かったように思う。魔の山といわれる山に向かったからだろうか。あるいは夜行列車で着いて土合駅で仮眠して明け方歩き始めるというような行程だったことも一因だったろうか。1340mまでロープウエイで登ってあとは急ではあっても短い安全なルートであれば、それほどの覚悟はなくて済む。われわれの日常は畏敬の念などというものを失ってきているということだろう。
目の前には、湯檜曽の谷を隔てて白毛門、笠、朝日が迫り、右手正面に武尊山がすそ野を引いてどっしりと構え、最高峰沖武(おきほ)の左に隠れるように日光白根が顔をのぞかせ、剣ヶ峰の右にすっきりと皇海が聳えている。左に目を移すと巻機への稜線が伸びて、越後三山も指摘できる。いつもながら、山頂から眺める山々は遠い日への思いを誘い、立ち去りがたくする。
18時にカレーの夕食が終わるともう何もすることがない。息子と孫娘は食堂のテレビを見ながら小屋のおやじさんと話をしているようだ。外はガスが出て星空も期待できず19時過ぎに三人とも布団に入った。ところが20時に目が覚めてふと見ると、頭上の窓ガラス越しに星影が見える。二人を起こしてそとにでてみた。まずカシオペアが頭上に大きく広がり、天の川の中央に白鳥座がこれも大きく見える。孫娘に話すのだがまだ興味はなさそうだ。というより、星空の大きさと美しさに圧倒されていたようだ。
その時だ。息子が「花火だ!」と叫んだ。目の上の星空と別に、目の下には水上町の夜景が広がっている。声に促されて捜したのだが見つからない。ようやく目がとらえた花火は、私の持つイメージとかけ離れているものだった。下の方で小さく丸いものがいくつもついたり消えたりしている。音は全く聞こえない。花火大会の花火を上から見るなんて発想は今までなかったわけで、それはそれでまた感動的だった。

このスケッチは20年以上前のもので、平標山から今回のルートを眺めたもの。今回は左ページの谷川岳から左へ一ノ倉岳・茂倉岳をたどり、向こう側へ下った。後ろのピークは至仏山と笠が岳。

2012.08.17
二日目、5時40分小屋の前に出ると、一ノ倉岳から茂倉岳へのなだらかな馬の背の稜線が緑色に美しく延びているのが見えた。あそこを歩くと思うと嬉しくなる。
6:57出発。トマノ耳からオキノ耳へはまず下りだ。ここから思いがけずたくさんの花々が我々を迎えてくれた。ハクサンフウロのような夏の花からリンドウやワレモコウのような秋の花まで、豊富な種類のお花畑がずっと続いて、歩きながら楽しくてならない。右は断崖絶壁だが、左側はなだらかに谷に落ち込む笹原で、太平洋と日本海との分水嶺を快く辿る。昼寝の誘惑に駆られる縦走路だ。ただ一ノ倉岳までのアップダウン、特に下りは孫娘にとって厳しいものとなる。それでも茂倉岳(1977m)に8時30分に着いた。

ここから武能岳までが長い。それでも尾根が彼方まで延びていて目指す武能岳は200m以上低く楽しく歩けそうだ。タカネナデシコの群落に出会ったりして武能(1760m)には11時に到着。ラーメンの昼食を済ませて出発する。前回、蓬小屋からここまで登った時は、朝露で下半身はびっしょりになって大変だった。それでも小学生の二人は不平も言わずよく登った。30年以上昔になる。息子はこの蓬小屋からの緩やかな斜面を覚えていると嬉しいことをいう。

蓬小屋の手前を右に折れて湯檜曽の谷に700m下る。ここからの下りが残酷なものとなった。下っても下っても湯檜曽川ははるか下で、そのうち雷鳴がとどろき始め、さらに雨まで降ってきた。尾根で雷にあったら大変と背筋を寒くしながら休みを取らずに急ぐ。ようやく武能沢に着いたときは15時になっていた。雨はあがった。豊富な沢水で思う存分のどを潤し、息子と私は頭ごと水に着けて生き返った思いだった。
三人ともここを動きたくなくなっていたのだが、そうしているわけにいかない。全行程7時間コースなのにここまでにすでに9時間過ぎている。心を奮い立たせ、更に歩きに歩いてマチが沢に着いた時には11時間になろうとしていた。
孫娘は弱音を吐かない「お前は強くなったなあ。11時間も歩けるなんてたいしたもんだ。」と感心する私に彼女がぽつりと言った。「精神力で歩いているんだから。」私は感動してしまった。いつのまにかこんな言葉を口にするようになっている。山も花も美しく心に刻まれていたけれど、この言葉の前にはかすんでしまう。

この言葉に出会えたのがこの山行でばかりでなく、今年一年を通してのいちばんの収穫だった。
息子は息子で、30年前に思いを馳せていたのであろう。湯檜曽の谷への入り口で、「30年後におれの孫とここへ来るぞ。」と言挙げした。今回の三代一緒の山行を次は自分が長老として繰り返したくなったのだろう。この発言も孫娘に次ぐ傑作としてここに記録しておきたい。

今回の山行はハードだった。重い荷物を担当した息子は、下りで飛ばしたためひざを痛めてしまった。昔バスケットで痛めたのが再発したようだ。孫娘もしばらく山は・・と述懐したそうな。私も何日かももが筋肉痛となった。それだけ、この山行が貴重なものとしてそれぞれの心に保持されるようになったようだ。

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