1988.08.08ー13 大雪山-化雲岳 キタキツネとにらめっこ

大雪山から十勝岳まで辿ってから16年経つ。白雲から高根ケ原そして忠別へのプロムナードを紹介したくて妻を誘う。五万図で見ても、これほど緩やかな稜線はほかにない。期待が膨らむ。

1988.8.08
本庄06:19=羽田08:50/09:50=千歳11:30/12:26=旭川14:35/15:00=旭岳温泉16:20

1988.8.09
旭岳温泉幕営場06:47ーロープウエイ発車場07:10=終点07:25ー姿見池07:47/08:00ー旭岳10:15/50ー間宮岳(昼食)12:00/38ー北海岳13:25/35ー白雲岳分岐14:50/15:00――白雲岳天場15:25
ロープウエイからはじめてトムラウシ・オプタテㇱケ・噴煙の十勝を見る。トムラウシは堂々としていい山だ。あの横を通った時のことを思い出す。姿見池への途中、足元にシマリスを見る。人を恐れず逃げない。鳴きリスの姿も。砂地の頂上から北海岳へ。さらに白雲のトラバースルートから下って白雲の天場へ。前回ヒグマの姿を見て小屋に避難した場所だ。今日は姿を見ない。
 
1988.8.10
白雲岳天場06:17ー忠別沼09:55/10:17ー忠別岳(昼食)11:00/12:15ー忠別避難小屋天場13:50
白雲天場から緩やかに下って高根が原へ。目の届く限りコマクサの群落。一本目(最初の休憩)でヒグマ対策としてコッヘルの蓋に空き缶をセットする。時折すれ違う人たちの付けている鈴やカウベルの澄んだ音色と大違い。ガランガランと鳴り響く音響は、却ってヒグマがなんだろうと不審に思って寄ってくるのではないかと冗談も飛び出す。ヒグマ除けならぬヒグマ寄せなるべし。
平ヶ岳の頂上とも呼べぬ頂上で絶壁の縁に休んでプラムを食べる。目の下に原生林の緑に囲まれた高原沼が青空を反射して美しい。沼から沼へ登山道が見え隠れして続いている。危険なルートとの注意表示があるコースだが上からはヒグマの姿は発見できない。先ほど源頭の雪渓を通過したヤンベタップの谷が深い。
小さな礫の続くコマクサの原をあるいて、なだらかな丘を登って忠別沼へ。先に行くのがもったいなくてつい休んでしまう。沼の美しさのみならず、空も青く深かった。飛行機雲が白く輝いて延びていく。ハイマツ帯を潜り抜けて忠別岳頂上へ。ガスカートリッジで湯を沸かしラーメンの昼食をとる。山のラーメンはうまい。ここまでと逆に西側は足元が見えないほどの絶壁なのに、東側はなだらかなスロープで見事なお花畑だ。ここから先、五色が原から化雲岳まで同じ構造だ。忠別川に削られたカルデラなのだろうか。
13:50忠別岳石室横の天場に着いて、のんびり歩いた。2日目はここまで。雪田の下の沢は水量が豊かで、手の感覚がなくなるほど冷たい。夕刻キタキツネが訪問してきた。何気なく天幕の入り口を開けたところ、1メートル先に四つ足を踏ん張ってきょとんとした顔でぼくを見ていた。目と目が合って、何とも愛らしい。キツネもどうしたらよいか戸惑ったようだ。妻を呼ぼうとしたが、次の瞬間身をひるがえして走ってハイマツの中に消えた。この山行のみならず、この夏通して最大の収穫となった。


                                                                                
1988.8.11
忠別岳天場05:00ー五色岳06:50/07:10ー神遊びの庭ー化雲岳08:25/53ー小化雲手前ピーク09:45/10:00ー小化雲トラバースルート10:25ー池塘湿原12:05/40ー羽衣瀧展望台14:25/40ー天人峡温泉15:20/17:35ー旭川駅18:40
3時の目覚ましは気付いたものの眠気に勝てず起床4時過ぎ。朝の陽射しの中汗をかいて五色稜線へ出る。頂上からトムラウシが正面に大きく、スケッチする暇もじゅうぶんないほどにたちまちガスが遮る。此処から化雲までお花畑のプロムナードだ。青空の下でガスの名残をまとうチングルマの綿毛が美しい。注意して見て気付いたことだが、赤いチェーンを巻いたような可憐な綿毛だ。神遊びの庭も動きたくなくなる所だ。雪田から滴る水のうまさ。この辺に幕営したら最高だろう。
トムラウシの王冠に似た雄姿を左にしつつなだらかな草原を化雲岳へ。金峰の五丈岩に似た岩塊をもつユニークな頂上だ。オレンジに蘇生の思い。
ここから長い下りが始まる。旭岳・白雲岳を目前にして初めはお花畑の中を緩やかに、やがてハイマツ帯に入ると標高差200メートルの急傾斜となって1515天人峡温泉に着く。山旅はここまで。温泉に汗を流して旭川駅へ向かう。

1988.8.12-13
旭川(特ライラック4号)08:00=札幌(快速マリンライナー)09:34/10:56=黒松内14:32/16:29=長万部(特北斗12号)16:56/17:23=函館(快速海峡16号)18:46/54=青森(特はくつる)21:14/48=大宮06:12/31=本庄07:29

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1986.08.18-20 岩手山 

深田久弥は、かつてトムラウシをはじめて望見したときに、「あれにのぼらねばならぬ」と、激しく憧れた。その言葉が好きで、ぼくも針の木から鹿島槍を歩かねばならぬとか、槍・穂の大キレットを歩かねばならぬと、心に刻んで自らに必然性と課してきた。
岩手山も「あれに登らねばならぬ」の山ではあったのだけれど、中身はかなり違っている。前者は純粋にその山の姿或いは風格に対する思いであるのに対し、ぼくにとっての岩手山はその背後に大きなものを持つ存在としての山だった。これはぼくだけのものではないが、また極めてぼく個人の生涯をかけたものでもあった。
僕が啄木に初めて接したのは高校生の時である。文学少女だった叔母の書棚の中から石川啄木集を引っぱり出してのめり込むようにして読んだ。たまたま夏休みで,万葉夏季大学を受講するために早稲田大学に通う生活のなかだった。この万葉夏季大学も叔母の誘いであった。会場は早稲田だったが、講師はたくさんの大学から第一線の万葉学者が来て、自分の設定したテーマのもと2時間ずつ万葉の魅力を語ってくれた。この夏季大学が、のちのぼくの生涯を決定づけたのであるが、ここではこれ以上は本題から外れるので今日はここまで。
ぼくを啄木から離れられなくしたのは、望郷の歌だった。ひとは自分の生まれた場所から離れることによって初めて故郷を持つという。生まれた場所と故郷とは必ずしもイコールではない。「信ずるところに現実はあるのであって、現実は常に人を信じさせてくれない」と太宰は言ったが、それは故郷についても至言である。望郷を切なく歌った幾多の詩人はみな、現実の故郷と憧れの故郷との乖離に涙している。
啄木も同じである。
 石を持て追はるるごとく故郷を出でしかなしみ消ゆる時無し
と歌いながら、
 やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
と歌う。(本当は三行書きにしなければ?)
ぼくの場合も同じだなんて言うと甘いと言われそうだけれど、気分的にあるいは精神的にすっかり啄木に共感してしまったのである。
故郷を出た啄木は函館、札幌、釧路と逃げるように遠ざかり、ついに東京に出る。そして思想的に自分自身を大きく変えていく。大逆事件を機に
 我は知る、テロリストの悲しき心を
と歌うところまで行きつく。ぼくは啄木の後を歩きながら、権力の本質にふれてしまった。ぼくはここでも自分の生き方を決定づけられてしまったのだ。(いうまでもないことだが、ここでいうテロリストは現在の無差別攻撃のテロを行うテロリストとは異なるものだ。)
その啄木が岩手山を歌っている
 神無月岩手の山の初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ 
ぼくも心の中にこういう山を持ちたいと願い、幸いなことに今持っている。

岩手山というと、もう一人を語らなければならない。ぼくは啄木の後、宮沢賢治を知った。三番目の赴任校に宮沢賢治に身も心も入れ込んだ少女がいて、ぼくの浅薄な知識は彼女の前になすすべを知らず、彼女は卒業後盛岡に移り住んで、宮沢賢治とともに生きる道を選んだ。ぼくも改めて読み返し、『なめとこ山の熊』の魅力に虜となった。『注文の多い料理店』の二人の男は訪れた世界に対しまったくの異邦人で、結局はじき出されてしまう。しかし『なめとこ山の熊』の小十郎は熊を殺すことで生きているのに、その世界から憎まれてはいない。その世界を宮沢賢治は自分の世界として描き出す。ただ最後の場面、大熊が小十郎を殴り殺しながら、「おお小十郎お前を殺すつもりはなかった。」と叫ぶ。この部分がはじめ解らなかった。はじめのころは、この世界は殺すか殺されるかの世界だ、殺されないためには相手を殺さなければならないという世界であるので、これはやむを得ない行為だ、本当は殺したくなかったのだという意味だろうと考えていた。でも釈然としない。もしそうだったら、「殺すつもりはなかった」は「殺したくはなかった」でなければいけないのではないか。この二つは質的に異なる。そんなふうに考えたところで止まったまま何年か経った。
きっかけが来た。岩手山に行こう、あの山は宮沢賢治にとってイーハトーヴのひとつなのだから。そう考えた時、イーハトーヴって何だろうと改めて考えた。言葉の意味は手掛かりになるかと、いろいろ探る中に、イーハは「イハ」だ。旧仮名遣いで「岩(いは)」だ。「岩手」を延ばして読むと「いーはーて」となり、「イーハトー」のとなりだ。賢治の愛したイーハトーヴは岩手の土地の意味で命名されたのだろう。これは賢治のイーハトーヴを矮小化してしまう考え方だろうか。あくまでも語源的に考えただけのことで、内容的に岩手とイコールになるなどと考えたわけではない。でも、北上川の岩礁風景からイギリス海岸という名が生まれたという事実と比べると、何か一歩賢治に近附けたような気がするのだ。
それに勢いづいて、むかしの「殺すつもりはなかった」に帰ってみた。読み返してみて一つの解釈が浮かんだ。大熊は小十郎をこれまでの仲間のための復讐として襲ってきたのだろうか。もしそうであれば「殺すつもりはなかった」は出てくることはない。ではなぜ襲ってきたか。殺されるより殺すという,大岡昇平のいう戦場の論理は以前のように「殺すつもりはなかった」にそぐわない、それは以前考えたことだ。

今回の結論にうつる。熊は「ポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲」から逃れられないことを知っている。では可能な限り遠く逃げて命を惜しむか。
それができればむしろ楽なのだが、大熊の矜持がそれを許さないのだ。正面から正々堂々と向って行って打ち殺される、それが誇り高い熊の最後だ。熊はそう考えて「両足で立って」小十郎にかかっていったのだ。緊張した場面が次のように展開される。
  小十郎は落ちついて足を踏ん張って鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走ってきた。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。
  ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞こえた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黑く搖らいでやって来たようだった。犬がその足元に噛みついた。と思うと小十郎はがあんと頭          が 鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。
熊は最後の最後に鉄砲が火を吹いて自分が打ち殺されることをはっきりと知っていた。ところが鉄砲は不発で火を吹かず、熊はそのまま突進するしかなかった。予想したことと反対に熊は小十郎を殺さねばならず、それが「おお小十郎おまえをころすつもりはなかった。」のことばとなったのだ。そう考えれば熊の言葉は理解される。
熊たちは小十郎を愛している。小十郎が熊を憎くて殺しているのでないことを知っているからだ。それを示す最後の言葉がいい。
 熊ども、ゆるせよ。
自分を殴り殺した熊を「ゆるしてやるよ。」ではなく、「うらみはしないよ。」でもなく、「許せよ」が持つ重み。それがなめとこ山の熊と小十郎の関係なのだ。宮沢賢治の世界の魅力がここにある。

1986.8.18 テントを忘れて
本庄06:40=大宮08:08=盛岡11:20/12:59=大更13:42/45=燒走キャンプ場15:30 
とんでもないスタートとなった。列車の中で確認してテントがないことに気付いた。フレームやペグはある。いつもザックの一番下に入れるのを、なぜ忘れたろう。泊りがけでない時、念のために携行するツエルトを、今回不要として出したまでは覚えている。代わりに入れるべきテントは今部屋の隅で見捨てられた思いを味わっているだろう。
どうするか。深田久弥であれば野宿したろうか。とりあえず盛岡の町で山屋を探し、テントのレンタルができるかどうか聞いてみようと思った。町について山屋はすぐに見附かった。しかしレンタルの制度はなかった。途方に暮れたような顔をしていたのだろうか。店員がテントの製造所を紹介してくれた。行ってみると、店の主人は「それならリースでいいでしょう、どうせ家にはあるのでしょう。」と親切に言ってくれた。但し一番小さいものでも5人用ビニロン製の重いもの。ぼくは自分に罰を与えるようなつもりで、その重たいテントを借りることにした。ザックには入らない。上に紐でくくり付けると大きな荷となった。
花輪線に乗るとすぐに姫神山が秀麗な姿を見せる。啄木が「神の住むか」と見たのもむべなるべし。好摩というこれも啄木によって馴染んだ駅から東北線に別れ、大更で下車。タクシーの窓から落葉松林のむこうに岩手山が大きい。浅間追分が原を思わせる景だ。燒走溶岩流の押し寄せた末端にキャンプ場があった。岩手山がさらに大きくそそり立つ。
いよいよここから登りが始まる。今日の中に2時間ほど登っておけば明日が楽になると思いしも、1時間少々で道は勾配が急となり、戻ってテントを張れる場所を探す。何組か下山者が通り過ぎる。キャンプ場まで車で入りサブザックで往復する人たちだ。子ども、少女たちもいる。ぼくの装備が大袈裟に見えてくる。
テント設営後、燒走り溶岩流の上に立って見た。赤いザクザクとした溶岩の堆積だ。浅間の東登山道の溶岩は白っぽい。こちらは鉄分を多量にふくんでいる。浅間の頂上から鬼押し出しへ下った日のことを思い出した。黒い溶岩の塊の上を下って、皮の登山靴の表面がボロボロになった。この溶岩流も同じだ。少し登ったり下ったりして戻る。宮沢賢治の『気のいい火山弾』に登場する身体に帯を巻いた火山弾はこの岩手山にある或いはあったのだろうが、付近を見わたしたが見つからない。見附かるはずもない。
アルファ米で夕食。19時半真っ暗な中を下山する足音も聞えた。夜中、天幕の横に動物の徘徊する物音。イタチ、あるいはリスの類ならんか。やや傾斜する天幕に眠る。

1986.8.19 標高差1400mをたどる
幕営地06:30-第二噴気孔07:30-第一噴気孔09:00-笠不動平(茶臼ピストン)10:05/35-岩手山頂外輪山(昼食)11:30/12:30—不動平12:40/13:00-鬼ケ城頂上14:10/30]-黒倉山頂15:00/15-姥倉山15:35-湯の森17:00-松川温泉17:20(泊)
6時半出発。溶岩流に立てば朝日の中に岩手山が頭上に迫る。標高差1400mあるとも信じられぬほど頂上まで鮮やかだ。溶岩流を左にして樹林の中を上る。次第に勾配は急となり、風の通らぬ登山道で汗びっしょり。第二噴気孔跡は高台で、ここまで来ると爽やかな風が渡り、眼下の樹林帯の中に溶岩流が黒々と続く。15分休憩の後、再び樹林帯に入る。しかし山毛欅の原生林はすぐに尽き疎林となる。砂礫の道に足を取られながら登る。第一噴気孔のマグマの盛り上がった地点からトラバースルートとなり楽になる。チョコレートと水で休憩。ルートは岩手山の北に廻りこみ、再び樹林帯に入る。ツルハシ通過点で木イチゴの群落を見つける。疲れた体に爽快な味が沁みる。さらに大きく廻りこんだ地点はダケカンバの立つテラス。思わずまた休憩をとる。キウイが美味い。周囲にコガラの群れが訪れる。果物の香りが呼んだのだろうか。すぐ近くのコメツガに来て囀る姿が可憐だ。
出発して20分で笠不動へ。此処から最後の登りだ。桔梗、ミヤマアキノキリンソウの咲き誇る道を岩手山頂を目指す。コースタイム通りの時間で外輪山に到着する。壮絶な風景だ。爆裂口はいつまで噴煙を上げていたのだろうか。頂上(2040m)を往復し火口の縁を辿って下り口で昼食とする。ガスが流れ、風景が途切れることしきり。不動平まで降りると、「崩壊のためお花畑コースは閉鎖」の表示あり。予定していたのに残念だ。仕方なく鬼ケ城へ廻る。避難小屋がある。立派な建物なり。水があれば泊まりたいところだ。道は右眼下に御苗代湖と樹海を眺めつつ辿る。御苗代湖とすぐ横の御釜湖と池が二つあり、共に爆裂火口に水が溜まったもの。その昔大きな爆発があり、その火口壁が今外輪山となって北が屏風尾根、南が鬼ケ城となっている。山容は変わり、笹が高く古い山の姿となっている。再び来ることはあるまいと思うと、黑倉山も巻道でなく頂上を踏んで下る。頂上からの展望がすばらしい。秋田駒ヶ岳の上に鳥海山が大きい。旧火口と新山がシルエットになって霞んでいる。わずかの時間でスケッチ。右手は八幡平の緩やかな稜線が目の届く限り続いている。ゆっくりしたいところだ。
先を考え、未練を残しながら出発する。3、4分下の登山道への下りで右膝に痛みが走る。足をかばいつつ、それでも姥倉山のゆるい登りで何とか元に戻った。振り返れば岩手山頂がガスの中に見え隠れする。最後の記念シャッターを押す。此処から果てしない下りが始まった。ひざに不安を覚えつつ大事に下る。いやになるほど下って水場に着くも、いくつもの沢はすべて涸れており、夏の終わりを思わせた。やっとキャンプ場に着いた時はすでに17時を回っていた。誰もいない広場の隅に水道の蛇口あり。冷たい水が涸れた喉を通る。いくら飲んでも足りない。身体じゅうの細胞が脱水症状を呈している感じ。
松川温泉国民宿舎に着くまで汗したたりやまず。缶ビールを続けて2本飲むも渇きは止まらず。汗みずくの一日、ハードな一日がやっと終わった。温泉がありがたい。

重装備の場合、網張温泉からリフトで1000mまで上がってしまうならともかく、下から登るなら不動平避難小屋で一泊したい。そうすれば山をゆっくり樂しめたであろう。1400mの登りと1200mの下りは一日の行動としてややゆとりがない。問題は水。ビールで補うことはどこまで可能か。山頂の缶ビールは何とも言えないものであった。
啄木記念館は立派な建物で、17・8年前よりずっと明るい光景となっている。記憶の中では小学校校舎は南に向いていたのだが。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1982.08.07-09 鳥海山 家族旅行

芭蕉は奥の細道の旅で、平泉から奥羽山地を越えて日本海側に出、山寺で「閑(しづか)さや岩にしみいる蝉の声」を読み、最上川を船で下り、羽黒山・月山・湯殿山をめぐっている。「雲の峯幾つ崩れて月の山」は私の好きな句だ。その後また川舟に乗って酒田の町に出た。酒田は後に北前船と呼ばれる船による西回り航路の要港であって、繁栄していた。芭蕉は酒田に九泊もし、その間象潟へも足を延ばしている。その象潟の干満寿寺に足を止めた時の文章に、
 此の寺の方丈に坐して簾を捲(まけ)ば、風景、一眼の中に尽て、南に、鳥海天をささへ其の陰(かげ)うつりて江に有。     
とある。「天をささへ」という表現、うまいなあと心に残っている。
その鳥海はその後東北の山を歩くようになって、どの山に登ってもすぐわかる山だと知った。天を支える山であれば行かなくてはならぬ。たまたま転勤して2年目で、夏山合宿は先輩二氏が担当してくれたので、家族で出かけることができた。

1982.08.07
本庄23:30=酒田08:29/08:53=鳥海山荘10:00/10ー横堂小屋(昼食)12:20/13:05ー東物見13:55/14:10ー西物見14:40ー滝の小屋(幕営)15:25
はじめてのブルートレインに中学1年と小学5年の息子は大はしゃぎ。よく眠って酒田着。駅前より鳥海山荘までバス。下車して初めはアスファルト道路。側溝に飛び込んだまま干上がった無数の雨蛙の子どもが哀れだ。草原に入り、山道に入り、今日はひたすら歩くだけ。樹林帯に汗をしぼられる中、途中の水場はうれしかった。好意を示してシャッターを押してくれる人あり、家族全員でカメラにおさまる。尾根に出たところが避難小屋だ。中学生くらいの娘さんを連れた男性と一緒になり昼食をとる。さらに登って灌木帯へ。15時半滝の小屋に到着。広くはないが気持ちよい天場だ。子どもたちは沢の水の冷たさにいつまでも戯れ、疲れを知らぬ様子。今日は七夕だが、明日を考え早く寝ることとする。

1982.08.08
起床04:00出発06:10ー河原宿ー大雪路09:45ー伏拝岳(昼食)11:05/12:00ー大物忌神社・新山ピストン12:50/13:45ー七五三掛(しめかけ)15:00/20ー御浜神社16:05/20ー賽の河原17:00(幕営)
瀧を右手に見つつ出発。ひと登りで広々とした河原宿に。ゆたかな湧水と戯れていたい小5の息子。なだめて先を目指す。八丁坂の長い登りが始まる。雪渓に入り、上部でトラバースしてガレ場で休憩。ここから急登にひと喘ぎすればいよいよ鳥海外輪山のひとつ伏拝岳に飛び出した。目の前に広がる大きな眺望が圧倒的に迫る。外輪山の絶壁の下に雪渓が光り、向こうに鳥海新山が荒涼とした姿で尖っている。これから行く景色を眺めながら昼食をとる。十分休んだ後絶壁をへつって降り、谷底からやや登ったところが大物忌神社、修験道らしい名前だ。ここに荷物を置き新山頂上まで空身往復する。頂上はガスに閉ざされて眺望はきかず残念ながら戻る。大きな岩の上を跳び、或はくぐって雪の上に出る。豪快な石組だった。
小さな落石の散乱する雪渓を30分ほど下り、外輪山を越えるとなだらかな七五三掛(しめかけ)のお花畑だ。ニッコウキスゲが清冽で美しい。草原を下って鳥の海という名の池に出た。鳥海山という名の起こりなのか、或は鳥海山にあることから名付けられたのか。青空と草の緑と澄んだ水の色と、なんとも美しい場所だ。池を横に見るお浜神社へ。ここでハプニング発生。賽の河原の天場の申込をしようとしたところ、幕営禁止とのこと。あわててガイドブックに幕営地となっていてそれを前提に歩いてきたと抗議すると、ガイドブックがが誤っているという。子どもづれの家族が途方に暮れている姿を見たからであろう。その地図を見てきた以上禁止するわけにいかぬ、いいですよと言ってくれる。柔軟な姿勢がありがたかった。彼方下方にやや霞む目的地鉾立は距離を感じさせたが、きょうはここで自分たちだけと思うと別天地のようでうれしい。雪田からの流れは冷たく、草原は乾いており、人影はなく静まり返って、動きたくない場所だ。

1982.08.09
起床04:30出発07:15ー白糸滝07:55/08:10ー鉾立08:30/10:05=象潟10:50/(海水浴場)14:46=本庄20:45
朝、雪田にガスが湧き、天幕がぽつんと緑の草原にあり周りをブッシュが囲んでいる情景は何とも言えなかった。こういう所にせめて半日でものんびりいられたらいいのだが、帰りの列車も指定席であれば遅れるわけにいかぬ。曇り日の中を出発。もう今日は下山。さいごの天場の印象が深く、鳥海山への愛着は深い。いい山だった。大きさからすればもう一泊したほうが良かったろうか。快適に下ってあっという間に鉾立へ。大きな駐車場の隅にバス停があった。象潟の海岸で水浴。 

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1980.07.23-29 夏山合宿 ガスのなかの 朝日連峰 

東北日本海側の山は、中央に鳥海山(2236m)があり、その南に朝日連峰、飯豊連峰と続いて最後に会津駒ケ岳、尾瀬燧ケ岳、越後三山につながっていく。そのうちの北半分、朝日連峰と飯豊連峰は、中央部の磐梯山、吾妻山塊と一緒に磐梯朝日国立公園に含まれている。このうち朝日連峰と飯豊連峰はそれぞれ縦走できる山として我々を引き付けている。
そして東北の民はこの連峰の南北に街道を通して物資を交流してきた。朝日連峰の北側に羽越西線、朝日連峰と飯豊連峰の間に米坂線、飯豊連峰の南側に磐越西線が東西に走り、またしっかりした道路が通っている。朝日連峰に北から入るには鶴岡、南からは小国(ここは飯豊連峰の北の登山口でもある)。そして飯豊連峰の南の登山口として山都など懐かしい名前がすぐに浮かぶ。なお、朝日連峰の北には羽黒山・月山・湯殿山の出羽三山があるが、やや特殊なのでふつうは縦走コースに入れない。
1978年に熊高山岳部は夏山合宿で南の御沢から入り北の杁差(えぶりさし)まで全山を縦走した。これについては他の項で取り上げた。
1980年の朝日連峰縦走ははじめてである。顧問も未経験の山行であり、かなりの緊張を強いられた。天候にかなり祟られて、稜線歩きのすばらしさを味わえなかったのが残念である。

1980.07.23-24
本庄21:46=高崎22:05/40=(急行鳥海)=鶴岡05:30/06:20=(庄内交通バス)=大鳥07:10/40=(マイクロバス)=泡滝ダム98:20/30ー冷水沢手前09:24/33ー七ッ滝沢10:22/40ー大鳥池幕営場12:05
鶴岡駅からのバスの中ですでに雨。終点大鳥で30名ほどの同行者より一足先にマイクロをチャーターし東大鳥川沿いに泡滝に向かう。泡滝ダムから重い雲の下を歩き始める。沢沿いに登っていくうちに激しく冷たい雨が白く降り始める。五万分の一の地図にはまだない道はコースタイムより30分以上早い。冷水沢手前で休憩。ポリタンの水で漱ぐ部員を叱り、水は共同装備であることを教える。七ッ滝沢から離れた地点から九十九折の急登が始まる。横切る沢の水が冷たく美味い。登り終わって標高1000mのブナ林の峠を越えて大鳥池に出る。にぎやかな天場だ。設営後大鳥池畔を訪れる。黒く可愛いイモリを見た。

1980.07.25
天場06:00ー三角峰雪田07:54/8:28ーオツボ峰09:02ー以東岳(昼食)10:07/11:03ー中先峰11:58ー狐穴幕営地12:58
06:00発。相変わらず雲の垂れこめる中、いきなり急登から始まる。ぐんぐん高度を上げる足元に大鳥池が見え隠れする。三角峰はガスの中で視界なし。オツボ峰に向かうなだらかなコルに初めての雪田が現れた。雪田の末端に湧き上がる水が何とも言えず美味い。道の前途を忘れてのんびりと休息する。ショウジョウバカマが可憐で、皆動きたくない表情を見せる。
再びガスの中を出発。今日のハイライトの以東岳へ。辿り着いた山頂は依然としてガスの中だ。寒い。昼食を取っていると一瞬薄陽が射し、太陽の暖かさに一同感嘆する。完全装備の女子高パーテイが反対側から登って来て、Tシャツ・ショートパンツ姿の我々に驚嘆の声を上げる。寒いが、凍死するレベルにはあらず。
11時ガスの中を出発する。なだらかに下り、なだらかな中先峰を越える。晴れれば絶好の景色がみられるであろうにと心残りのまま歩く。ガスの中を下って狐穴幕営地に到着。おもしろい名だ。マタギが名付けたか。キツネをしとめた場所なのか、一人ぼっちのマタギが狐と交歓した話でもあったか。民話集でもあれば見てみたい。
そこへ偶然熊谷商業高校パーテイが現れた。顧問の鈴木氏と親しく挨拶を交わす。朝日越えルートで入山とのこと。朝日岳に一番近くまで車が入るルートだ。
到着後ガスが晴れた。ひさしぶりだ。少し登って以東岳方面をスケッチする。

1980.07.26
天場06:15ー三方境06:33ー北寒江山06:50ー寒江山07:20/35ー竜門山08:42/09:02ー西朝日岳09:53ー中岳鞍部雪田10:08/10:50ー中岳11:25ー金玉水幕営地(テント設営-昼食)11:40/13:45ー小朝日岳15:00/30ー銀玉水16:15/35ー幕営地16:53
今日も曇り。ガスで時折しか見えぬ山の姿が大きい。全体が見渡せぬため、余計そう見えるのかもしれない。三方境、北寒江山、寒江山、竜門山、西朝日岳は展望の全くきかない中をただひたすら歩いて登りかつ下った。西朝日岳を下った鞍部で雪田に出くわし、このまま進んだら時間が余ってしまうと大休憩を取る。行動中こんなのんびりすることはなかった。雪をアルミ食器で掻いてカルピスをかけるといくらでも食べられる。じゅうぶん休んでなだらかな稜線を下って中岳へ登り返せば大朝日岳手前の金玉水幕営地だ。午前中にゆとりの到着だった。幕営が終わり、昼食もとるとあとは何もすることなく、小朝日岳を訪問することとする。サブザックでの往復は楽しい。途中一瞬陽がこぼれる。ガスの切れ目に小朝日の絶壁がそそり立って高い。よじ登って頂上に立ったが、ガスのため眺望は全く得られず。グレープフルーツを食べて下り、復路へ。途中銀玉水へ寄る。冷たい湧き水に思う存分喉を潤し、久しぶりの陽射しの中をだるくなって帰着した。

1980.07.27
朝から雨。今日は停滞と決める。午后高山植物を探索。

1980.07.28
幕営地04:25ー大朝日岳04:53ー祝瓶山分岐06:53ー荒川08:45/09:30ー角楢小屋下第2吊り橋(昼食)10:30/12:30ー針生小屋13:45/14:00ー五味沢バス停15:50/17:15-(国鉄バス)―小国18:00/31ー坂町19:17/23:41ー高崎6:03/⒔ー本庄6:40
今日も依然としてガスの中。本当についていない。大朝日への緩やかな登りをつめ、頂上で小休止する。此処からいよいよ下山ルートだ。二つのルートがあり、祝瓶山といういい山を経由するコースに心惹かれながら、ここまで何も見えない登山道を歩かされたということがトラウマとなり、諦めて、まっすぐ荒川を目指すルートを選ぶ。
4時間下りに下って08:45荒川の流れに到着した。地図によると此処からは緩やかな河原の道となる。気が緩んで45分も休憩した。しばらく行くと青空が見えだし、あっという間に一面の青空となった。左手の尾根に祝瓶の急峻な山容が現れた。あれを越すのは楽ではなかろう。第2吊り橋手前で10:30、ちょっと早いが昼食とする。バスの時刻が17時過ぎなのでのんびり休む。
ところがここから先、荒川の渓流を渡る橋が問題だった。丸木橋一本の上にワイヤーが一本張ってあるのみ。ワイヤーはまだ少し頼みになるが、時に針金だったりして命の危険を感じることしばし。バランスを崩してキスリングを背負ったまま上の針金にぶら下がったりした時は特に緊張して、切れないでくれと心に叫んだりした。
針生平も過ぎ、急降下地点で部員と路が分かれ、「このまま下まで行くぞ」と叫んで走り下りる。道が再び沢に出たところで汗びっしょりのカッターシャツを洗い、長い時間待って合流する。下界は晴れており、五味沢バス停までの道がここも長い。

東北の二大山塊のひとつ朝日連峰の縦走はこうして終わった。すべてガスの中だったという感じで、印象に残る風景はと思い返しても、わずかに小朝日岳のそそり立つ頂上ともうひとつ狐穴から眺めた以東岳が浮かぶ程度。こんな山はこれまで経験したことがない。もう一度来なければ山に申し訳ないと思いながら、全員無事に下山できたことへの安堵感に浸って、飯豊連峰縦走の終着駅でもあった小国駅にバスを降りたのであった。
ただ、終わってから考えた。梅雨明け十日という言葉が山行の適期といわれるが、これは北アルプス以南についていわれる言葉であろう。東北の山については、逆に前線が北上してまるきり真下にいることになってしまうのではないか。朝日連峰縦走はその梅雨の前線を選んで歩いたということにならないか。とすればこれは顧問の責任だということになる。懸命に、ひたすら弱音を吐かず歩き続けた部員に、ごめん悪かったと詫びたくなる顧問であった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1978.07.26-31 飯豊連峰縦走

この年、夏山合宿で飯豊連峰を南から北へ全山縦走した。残雪が豊富で、ハイマツ帯と笹原とお花畑が続く飯豊連峰は、私の大好きな山だ。4回訪れたが、全山縦走というのはその時だけだった。男子校の山岳部だったからできたことだったのだろうか。普通は北股岳を境とした南半分が登山者が訪れる山だ。また北股岳から東に下るイシコロビ雪渓も楽しいルートだ。

今回のコースはとてつもなく長い。五万分の一の地図3枚に渉る距離である。特に4日目の行程は直線距離で10kmある長さだ。私はスケッチブックに大きな山を2枚残している。上の絵は山に入った一日目、種蒔山からみた飯豊本山、御西岳・大日岳(2128m飯豊連峰最高峰)。下の絵は飯豊連峰中央の北俣岳山頂(2025m)から俯瞰した石ころび雪渓。ともに時間がなく色彩がないのが残念だ。
山行で今すぐに浮かぶのは、山中最終日の杁差(エブリサシ)岳の朝のこと。猛烈なアブの大群に襲われたのだ。全員タオルで顔を覆い、撤収もそこそこに天場から逃げ出した。大型動物の死骸でもあったのだろうか。大きなキスリングを背負った部員のそれぞれのニッカボッカに何匹ものアブが食いついていて、皆で麓まで運んだ景は忘れられない。
この日、麓の大石川の川原にテントを張り、冷たい流れの中に身体じゅう浸かって汗と汚れを洗い落としたときの清々しさもまた忘れられない思い出となっている。
実はこの日、もう一つ忘れがたい景に出くわした。夕暮が近づいてきたころ、河原の対岸の疎林に村の男女の若者がやってきて酒盛りのようなことを始めたのだ。見るともなく見ていると、若い女性が群れから出てきて、ちょっと離れたところでさりげなくしゃがんで、また戻っていく。少したつと別な女性が同じように・・。それはいかにも健康な情景だった。ああこの地方にはまだ万葉時代の歌垣(カガイ)が残っている。私は見ていてうれしくなるようであった。高校生は気付いていただろうか。

7/26 熊谷=大宮=喜多方=山都=藤巻別=御沢(幕営)
7/27 御沢―地蔵岳―三国岳―七つ森―種蒔―切合(幕営)
7/28 切合―草履塚―飯豊山2105―御西岳(大日岳ピストン)ー天狗庭ー御手洗池乗越(幕営)
7/29 御手洗池乗越―烏帽子岳―北股岳2025―扇地神―地神山―頼母木分岐―鉾立峰―杁差岳-1636肩(幕営)
7/30 杁差肩―カモス頭―大石川東俣川(幕営)
7/31 大石川幕営地=越後下関=坂町=新潟=高崎=熊谷

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: