1986.07.26-30 夏山合宿 白馬連峰 初めての清水平

1986.7.26
熊谷07:49=高崎=篠ノ井11:17/20=松本12:38/13:36=白馬16:30/38=猿倉17:06ー白馬尻18:30

1986.7.27
幕営地-馬尻小屋-葱平-稜線幕営場(泊)

1986.7.28
幕営地-旭岳ー清水平12:45ー雪田(旭岳頂上ピストン13:30/50)-幕営地14:05
旭岳の裾をまわって清水平へ。誰もいない静かな砂礫地にコマクサの群落が点在する。夢の別天地だ。正面に鹿島槍が秀麗な姿を見せ、爺岳から針の木岳への稜線が懷かしい。スケッチ上は左から五竜岳、鹿島槍岳、爺岳、針ノ木岳。スケッチ下は白馬幕営地よりの旭岳。

1986.7.29
幕営地-白馬山頂-小蓮華岳11:00-白馬大池11:45/13:15-蓮華温泉キャンプ場(幕営)
小蓮華岳からの下り、白馬大池を見下ろす斜面で休憩。右手の雪田と大池の青の対比が美しい。

1986.7.309
幕営地06:40ー蓮華温泉07:10-平岩駅-糸魚川-直江津-長岡-本庄18:45

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2002.08.26-27 守門岳・浅草岳


守門岳には17年前に保久礼から出発して、西側からのぼった。並び称される浅草岳が残っている。山仲間を誘ったところ守門岳にも行きたいという。ならば別なルートでと奥只見側からのアタックを試みた。幸い両者の中ほどに国民宿舎浅草山荘があり、車道がかなり奥まで入っている。それぞれが日帰りコースで頂上に立てるようだ。但しそれだけ大きな斜度を覚悟せねばなるまい。

2002.08.26
本庄06:20=小出IC08:20=大白川守門登山口09:00~15ー展望台10:45~55ー水場11:50~12:00ー三の芝12:20~25ー昼食12:35~13:20ー守門岳(1537m)14:10~45ー三の芝15:23ー登山口16:50~17:05=浅草山荘17:20(泊)
出発していきなり急登。昨年の鳥甲山と同じ。頂上はガスに包まれて見えず。湿度髙く猛烈な暑さ。眺望もきかない。水場に下って美味い沢水に生き返る思い。三の芝に來て道はようやく緩やかになる。草原状の氣持好い場所だ。ニッコウキスゲが数本咲いている。ただもうエネルギー切れ。「囚人だって5時間たてば食事の権利がある。」とはKの言。すぐにラーメンの昼食とする。ここからはなだらかな稜線が続き、トラバース気味にルートを辿り最後の100mを詰めると1537mの頂上だ。氣持好い頂上だがガスで眺望がきかないのが残念だ。下りは2時間半で登山口へ。

2002.08.27
国民宿舎08:30=桜曽根林道登山口8:45ーカヘヨボッチー前岳11:00ー浅草岳(1586m)昼食11:25~13:00ー登山口14:55~15:10ー浅草山荘(入浴)15:20~16:00=小出IC=赤城高原SA(夕食)18:00~30=本庄19:20
林道は中腹を大きく回り込んで桜曽根に。登山口から道はまっすぐに前岳へ。樹林帯の左手に昨日の守門が大きい。灌木帯が切れると前岳。目の前に頂上にまで広々と続く草原が現れた。「浅草」とはこのことだったのかと感動とともに合点がいく。前岳から頂上に緩やかな木道が続き、池塘が散在する。風が草をなびかせ、チシマフウロが愛らしく、山上の別天地だ。頂上の岩に腰を下ろして田子倉湖方面をスケッチする。田子倉湖の先に見える高い山は燧岳かと思うが確かではない。右に辿れば越後三山となるはずだが。次回のチャンスがあれば二十万分の一の地図を携行しよう。それにしても浅草というので永井荷風か誰かが命名したのかなどと思っていたのが恥ずかしい。

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2000.5.4-5 尾瀬皿伏山


雪の中に泊るなんてと渋る同級生のMを、雪の中ではない雪の上だと説得して平ヶ岳行を計画し、片品役場に鳩待峠へのバスを問い合わせたところ、今年は雪が多くて開通は16日の予定という。平ヶ岳は断念せざるを得ず、代わりに30年前の雪辱戦をと皿伏山行に決めた。30年前の5月10日、妻と三平峠から富士見峠への外輪山登山を試みたことがある。初めから雪が降っており、皿伏への途中で猛吹雪となって動きが取れなくなった。夜となって目の下に見えた十字路の灯を目指して下って、途中の沢を腰まで水につかりながら渡渉してやっとたどり着き、危うく助かったことがあった。三平峠に戻るべきだったと今でも後悔している。
Mは学生時代スキー部にいて雪にはなれている。ただ山スキーは経験なくもちろん雪中幕営も初めてだ。幸い大清水まではバスが出ていた。

2000.05.04
本庄6:05=大清水8:45~09:15=一ノ瀬10:45~11:00-尾根(昼食)11:55~12:35-三平峠13:00~13:30-大清水平14:30(幕営)
関東平野は晴れていたが、大清水からは曇り、一ノ瀬近くで雨が降り出す。幸い大降りにはならず。一ノ瀬から1mの雪の上を歩く。22㎏のザックに付けた山スキーが樹の枝にかかって歩きづらい。九十九坂を終わって尾根に出た地点で昼食をとる。コンビニで買ったおにぎりと、ガスで沸かしたカップ豚汁。雨は細かい雪に変わる。登山者のうちスニーカー姿もちらほら。三平峠で他の登山者と別れて沼に下らずスキーを付けて大清水平へ直行する。殆ど平らな斜面を真西に向かう。50分ほどで突然ひろびろとした雪原に出る。少し早いが幕営。準備が終わって明日のルートの登り口を探しに出る。新雪はわずかで、スキーを付けると落ち込むことはない。雪の暑さは2mはありそうだ。直径4,5mほどのすり鉢状の雪面に雪解けの水がしみ込んだ跡が見える。
 
2000.05.05
7:15天場発-皿伏山頂9:30~11:00-大清水平幕営地11:30~12:40-一ノ瀬14:15~28-大清水15:08~30=鎌田・大寄居湯16:00~30=本庄19:45
山スキーにシールをつけて出発。楽な登りだ。シラビソの樹林帯を2時間余りで頂上へ。広々とした平地。目の前に至仏山が青空の下に美しく輝いている。笠ヶ岳がとがった頂を見せている。目の下には切れ込んだ崖のような斜面の底に緩やかな尾根が白尾山を経て富士見峠へ続いている。ここを降ったら登って来られまい。
Ⅿは斜面を見つけては滑っている。「少し休まないか」と声をかける。雪山の美しさを味わってほしいという気持ちだ。だが山の姿に興味を示さない。「こんなところでもたもたしたくない」との返事が返ってくる。「おれは少しもたもたしたいんだ」となだめてスケッチをする。
帰りは樹間を縫ってのんびり滑り下る。大清水平でテントを撤収し三平峠へ。ここから傾斜が急になる。Ⅿはひるまないが、私のスキー技術では樹間のステップターンは不可能だ。私はワカンに履き替えて下る。さすがに九十九坂からはⅯもスキーをはずした。その後は競走のように歩いて大清水へ。鎌田の銭湯が至福の安らぎの時間となった。

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1993.03.31-04.3 ドイツアルプス Hopfensee

 

ハイデルベルクやロマンティック街道を一度訪れたくてドイツの南部を訪れた。ミュンヘンでは夜のコンサートがあり、ブラームスのドイツレクイエムを聴くことができ、ロマンティック街道終点のヒュッセンへ向かう途中、ホプフェン湖越しにヨーロッパアルプスを眺めることもできた。ヴァイツエンビールの美味しさも知った。絵は夕暮近くのホプフェン湖風景。 

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1990.11.18 両神山 おおかみを龍神と呼ぶ山の民 金子兜太


               
両神山には何度か登った。幕営がほとんどだった。一度妻と清滝小屋に泊ろうとしたことがあったが、あまりの混雑に辟易して急遽テント泊に切り替えたこともあった。いちばん思い出すのは、1980年の夏山トレーニング山行で、日向大谷口から登ろうとしてバスの回転場にテントを張った時のことである。まだ日が高い時間だったが、急に雷雨に襲われた。当時のテントはまだ一体化しておらず、グランドシートと屋根部が別だった。豪雨となってテントの中を水が流れた。しばらくして止んだ後。気がつくと沢蟹が何匹もテントの中を這っていたのである。丁重にお引き取り願ったが、このとき「ミズミズシイ」テントという言葉が生まれて、しばらく語り草となった。スケッチは両神山梵天尾根より眺めた奥秩父の山々。右から三宝山、甲武信岳・木賊山・雁坂嶺・唐松尾山・雲取山。手前が十文字峠から延びる白泰尾根。
その後30年以上たって、両神が改めて忘れられない山となったことが生まれた。両神を愛した俳人金子兜太氏と話を交わしたことである。この時のことを旧著『幼な子とともに歩んで』に書いたが、ここに再録しておきたい。

金子兜太氏の講演は大好評でした。凄絶なトラック諸島での戦場体験の話を踏まえて、正義の戦争などない、人は自然に死ななければいけない、戦場で死んではいけないと強調されました。また、+
水脈(みお)の果炎天の墓碑を置きて去る
を紹介して、「戦争で死んでいった人たちに何とか報いたい。その道は戦争などという忌まわしいことのない自由な世の中を求める事にある、と思い定めていた。」といわれた苦渋の言葉は忘れられません。私たちはその言葉をしっかり受け止めて、金子氏といっしょに歩んで行きたいと思います。
今回私が金子氏を送迎する係りを希望しました。氏の作品を読む中で、私の中に結んだイメージは、現代俳句の旗手であること、戦争体験をご自身の生き方の原点としていること、これが氏の中で統一されていて、さらにそれを支えるものとして産土(うぶすな)・ふるさととしての秩父に対する愛着があることでした。講演に先立って氏の紹介をする事になった私は、事前にわたしのとらえ方について、氏の意見をお聞きしました。氏はそれでOKであるといってくれました。
その中で、とくに私は氏の秩父に対する思いをお聞きしたいという希望を持っていました。「七十歳代後半あたりから、生きものの存在の基本は『土』なり、と身にしみて承知するようになって、幼少年期をそこで育った山国秩父を『産土(うぶすな)』と思い定めてきた。」(『金子兜太自選句解99句』)という言葉は私の大好きなものです。ふるさとを慕う人は信じられるというのが私の人生観でもあります。
氏の
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民
を挙げ、「私は、倭建命が秩父に向かう時に八日間見続けたことで、八日見が両神になったと学んできました。龍神が両神になったとする説はひじょうに魅力的です」というとうれしそうに頷いておられました。
私は最後のニホンオオカミといわれた剥製をみたことがあります。それは想像していたよりずっと小さく、ヨーロッパの赤頭巾ちゃんを一のみにしてしまう獰猛な狼とは似ても似つかぬものでした。山の民が龍神と呼んだということは、ニホンオオカミが山の民からある崇敬の念を持って眺められていた、人々の近くに生きていたことを表しているとおもわれます。写真は頂上両神神社の御神体を示す柱。「大神」は「狼」です。その山の民とは柳田國男がいうサンカ(マタギ)でしょうか。秩父出身の男に、両神山の麓にサンカの末裔が住んでいると聞いたことがあります。
サンカと称する者の生活に付ては、永い間に色々な話を聞いて居る。われわれ平地の住人との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにして居らぬ点、次には定まった場所に家の無いと云ふ
点であるかと思ふ。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたやうであるが、その多くは話としても我々には伝はって居らぬ。(柳田國男「山の人生」)
マタギは冬分には山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕れば其肉を食らひ、皮と熊胆を付近の里へ持って出て、穀物に交易して山の小屋へ還る。時には峰づたひに上州信州の邊ま
で、下りて来ることがあるといふ。(〃)

『遠野物語』にも恐ろしい男にさらわれた娘と十三年過ぎて山中で出あった話が載っています。村の娘が我々と少し違う男の妻となったという話です。新しい血を入れるために村の女性をさらったのでしょう。我々とほとんど交渉を持たずに、峰から峰を渡り歩く種族が居たことは確かでしょう。そんな人たちが狼を龍神と呼んだのは、きわめて自然な事だったと考えられます。我々が既に失ってしまった世界が、かつて秩父にも存在していたと知ることは、なんとも貴重なもののように思えてなりません。
金子兜太氏の講演から離れて、夢想に似た話となりました。ほんとうに夢想でしょうか。民俗学は、文字に記録されない部分にこそ、常民の姿があるという立場をとります。もしかすると、これこそが歴史のほんとうの姿かもしれません。金子兜太氏の句は、その歴史的な事実を本能的につかんだものかもしれないと思っています。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: