その一
昨年春出版した『幼な子とともに歩んで』の年度ごとの目次のページに、描いてきたスケッチブックからいくつかの山の絵を載せました。愛着のあるものばかりの中から一つを選ぶのは他を棄てるということで、つらいことでもありました。時々眺めていて、描いたものすべてについて、その時々の状況や今に残る思いを文章に残すことができれば、わたしの山行を振り返るよすがとなるだろうという思いが次第に成長してきました。

山の紹介ということになるともう『日本百名山』があり、その哲学的思索に裏打ちされた紹介に挑もうなどという野心はありません。あくまで私の半世紀余りにわたる山歩きをまとめて、一人の男の生きた姿を定着したいという思いです。 スケッチブックを前にするとそのときどきの状況がうかんできます。絵筆をとるゆとりがないことの方が多く、帰ってから思い返して色を付けたものもあります。日本画の河合玉堂のスケッチブックには素描の上に鉛筆で赤・青・黄などと書いてありました。帰ってから彩色するのでしょう。そのまねをしたものもあり、撮った写真で補ったものもあります。その時の感動をそのまま残しておきたくて素描のままにしたものもあります。
ぼくだけの思いがこもった絵を人の目に曝して何の意味があるかとの思いが常に付きまといました。それを越えさせてくれたのは、絵というのが記録写真と違ってぼくの目、心、思いというフィルターを通したものであること、すなわちここに定着したものがぼくの生きた五十年という歳月を提示しているものであるという考えでした。 くだくだしく書いてきましたが、ただ絵を見て気に入った絵があればそれを眺めていただきたい、それだけで結構です。そんな絵がひとつでもあればうれしいことです。

ここでも『幼な子とともに歩んで』を産むに力を尽くしてくれたアッチャンに触れることになります。アッチャンはスケッチブックの写真を全部カメラで撮影してくれました。文章をつけることをけしかけてくれたのも彼です。一つのものを生み出すのに自分一人の力ではかなわないということを再び認識させてくれたことになります。ありがとうございました。

その二
恥ずかしながら、「初めに」の項を訂正させてください。上記を「その一」とし、「その二」を付け加えなければならなくなりました。
「その一」はこの『我が山行 岩田龍司の場合』を構想した段階で書いたものです。そこでは私のスケッチとその説明をするつもりでした。ところが書き進めていくうちに煩悩が頭を持ち始め、それがどんどん膨らんできてしまうのです。それは、私の山行というのはたまたまスケッチに残した山についてだけでは収まらないという思いです。スケッチするゆとりのなかった山行にも今振り返ってみると万斛の思いが込められていて、それが蘇ってくるのです。スケッチした山だけに限定してしまうと私の山の人生は貧しいものになってしまうという思いでもあります。
今手元に私の山行の一覧表があります。季節ごとに新人歓迎合宿・夏山トレーニング山行・夏山合宿・秋山トレーニング山行・送別山行・冬山合宿・冬山トレーニング山行と分かれていて、また別に個人山行の項があります。数えたら491回ありました。うち高校の山岳部、登山部、登山愛好会の顧問としての山行が49.9%を占めます。私の山行は半分が高校生といっしょでした。遭難一歩手前という状況になったこともあり、生徒が雪面を100m以上滑落したこともあり、あるいは寒さで凍傷になった生徒が帰宅後足の親指の中身が外に流れ出てしまったということもありました。ドカ雪の中、森の中をリングワンダリングに陥ってさまよったこともあります。猛吹雪の中先頭の私が視界を失って、あと一歩で爆裂口に落ち込むところだったこともあります。
そんな悲しみを伴う山行の思いでとともに、大きな山塊を頂上目指して登っていくときの憧れと充実感、山頂に立った時の達成感と安堵感、暮れていく天場で自分が大自然と一体となっていると感じる幸福感、そんなひとこまひとこまが蘇って、あの時の仲間は今どうしているか、懐かしさに胸を灼く思いとなることがあります。彼らとの山行もここに残したい。スケッチするゆとりもなかったけれど、それだけに忘れられない思い出として残っている山行を記録する機会としたい。そんな思いで書き記したものがあります。
同じことが個人山行についても言えます。単独行もあり、思いを共有したい友を誘ってというのも多い。家族と一緒にというのも私の大きな喜びでした。スケッチこそないけれど、私の中に大きな財産として残っているあの山この山の思い出を一つでも多く残しておきたいという思い、それをこの『わが山行 岩田龍司の場合』に加えたいと思います。

カテゴリー: 2022 はじめに

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