1970 1970  夏山合宿 北アルプス 針の木雪渓‐黒部五郎岳‐笠ヶ岳 北アルプスの最奥部へ

北アルプスは白馬岳から始まって後ろ立山連峰・裏銀座を縦走し、槍・穂高で終わる。穂高の南に乗鞍岳があるが、離れていて縦走コースには普通入れない。その後ろ立山連峰と裏銀座の結節点、まさに北アルプスの中央にあるのが針ノ木峠だ。
この名称は山に対して失礼ではないかと私は考えている。後ろ立山というのは越中側から見た名称で、白馬岳・不帰(かえらず)・唐松岳・五竜岳・鹿島槍ヶ岳・爺岳・鳴沢岳・針の木岳と名山名峰を連ねた山並みを後ろにある山とひとくくりにしてしまったのは、江戸時代まだ山が障壁でしかなかった頃の呼び名がそのまま残ったものだろう。
裏銀座という呼称もアルプス銀座銀座或いは表銀に対する「裏」であって、「裏日本」という呼称が差別用語だという意味でやはりもっといい呼び方があっていいと思う。しかも裏銀座というとふつう烏帽子から南の山嶺を指すことからすると、針の木から烏帽子の間にある蓮華・北葛・船窪が可哀想ではないかという思いを懐いている。
さて、ここで針の木峠の話に入る。ぼくは針ノ木峠というと、二つのイメージを持ってずっと憧れてきた。ひとつは日本三大雪渓のひとつであること。南アルプスの初日に登る大樺沢(おおかんばさわ)が入らないのが気の毒なのだが、これは三大雪渓が北アルプスを対象としているからだろう。白馬雪渓・剣沢は大きな雪渓で、針の木雪渓はどうかと期待が高まった。もう一つのイメージは、織豊政権時、佐々成政が追い詰められた果てに最後の望みをかけて家康を頼って雪の針の木峠を越えたことだ。時代の流れに抗して自分の節を通したというだけで、ぼくは彼のファンなのだ。彼らはどういうルートを通ったのか。豪雪の中を現在の我々のような装備も持たず、登山のトレーニングなど積んでいなかったであろうあの時代の武士が凍死者や滑落・転落を出さずにアルプスを越えたなどというのは信じがたい話だ。今回それを確かめる山行となることも期待の一つではあった。

1970.07.23-24 大沢小屋から針ノ木峠・針ノ木沢へ

ようやく話が実際の山行に入る。1970年7月23日扇沢から山に入った熊谷高校山岳部11名(現役8、顧問2、OB2)は大沢小屋で幕営、翌24日4:30出発。針ノ木峠に7:30に着き針の木岳をピストンで9:00に戻った。頂上の20分休憩の時間に、せめてもとスケッチブックを取り出した。南には薬師岳が大きく横たわって我々を歓迎してくれている。そして来し方を見下ろす。一筋續く雪渓。針の木雪渓は素晴らしかった。白馬雪渓のような広漠とした雪渓、剣沢のような雪原を思わせる広々とした雪渓と異なり、急傾斜の雪の細道は雪渓の文字にぴったりで、両側の緑の灌木が我々を見守ってくれているようだった。この日の雪渓は途中で寸断されるところもなく、峠直下までしっかり我々を導いてくれた。スケッチは針ノ木岳山頂より、左から薬師岳、越中沢岳、五色原。
私はまだ目の前に広がる山々を歩き通しておらず、部員たちに紹介することができなかった。わずかに目の前の爺ヶ岳のとがった双耳峰をそれと指摘できただけだった。今回針ノ木峠は通過点で、ゆっくり山の姿を心に刻む時間はなく峠に戻って9:20に針の木谷に向かって出発。

ここまでの快適な歩みは一変する。この時の五万分の一の地図は昭和32年(1957)のもので、今持っているいちばん新しいもの(昭和53年・1978)には始め九十九下りになっているのだが、当時の地図は一直線です。初めからものすごい下りから始まり、次いで針の木沢によってけずられた谷の断崖絶壁の縁を降りるルートになった。真下に針の木沢が小さく見えます。下りはとばす山岳部なのだが、とてもではない。5時間20分下って小南沢との合流地点の少し開けたところに着いたので、其の沢の砂地にビバークするとした。谷底に幕営するのは山の原則違反だ。もし夕立でも来たら増水して命の保証はない。でもすでに部員の体力は限界に来ていた。黒四ダムの平の渡しまであと1時間ははかかる。この日の行動は10時間10分。部員はよく頑張った。その時のスケッチがこの写真である。ぼくが山岳部顧問になって二枚目のスケッチだ。顧問4年目になっていた。
今考える。真冬にこの針の木沢を上るのは不可能だと思う。積雪は2mを越えるだろう。山を知り尽くす地元の猟師に案内させても急こう配のルートはどう考えても無理だ。加えてもう一つの、ザラ峠への富山側からの上りも同じです。カルデラ地形で最後は垂直に近い傾斜です。「さらさら越え」という伝承とともに、佐々成政の真冬の針の木越えというのは現実には不可能であるというのが今回の針の木谷の山行の結論的判断です。糸魚川ルート説が一番妥当ではないだろうか。

1970.7.25 五色が原
今日はまず黒四ダムの平の渡しが第一目標。小南沢を05:00に出発した我々は05:50に平の渡しに到着、小舟に乗って(それでも発動機がついていた)対岸に渡る。1963年に完成した黒四ダムはまだ1957年版の私の五万図(五万分の一の地図)には描かれていない。それでも渡し場の名称は記入されている。急流をどうやって渡したのだろうか。
そこからの急登はつらくはあっても私にとっては懐かしい登りだ。学生時代、二人の友と一週間立山・剣を歩いたとき3日間寝そべって過ごした五色が原に通じる道なのだ。二日目の夕方猛烈な雷雨に見舞われ、雨が上がった後ザラ峠まで散策に出かけた時の、夕陽に輝いていた立山カルデラの赤い壁の色ははっきりと脳裏に焼き付いている。三日目我々は尾根からヌクイ谷に降りてダムまで降りてみた。三日間だれにも会わない静かな山だった。二人の友のうち一人はすでに鬼籍に入ってしまった。冒頭に書いた、私に立原道造を教えてくれた男だ。本と音楽とくにフルトベングラーを愛しながら権力への静かな怒りを生涯持ち続けました。もう一人は途中から県会議員に転身しました。本ばかり読んでいたために頸椎を損傷し、今苦労しています。50年前我々は若かった。ラジウスが買えなかった貧乏学生だった我々は石油ストーブをザックに詰めて立山・剣に入り、その足で五色が原を訪れたのだった。草原と言ってよいような快適な幕営地だった。今回五色が原のテントサイトは雪解け後の土が露出する原で10年前の草原のイメージはない。「感動というのは一遍こっきりのものだよ」と言った時任健作(『暗夜行路』)の言葉が悲しく浮かぶ。今回快適に歩いたので五色小屋に着いたのが12:30。昨日かなり消耗したので、今日はここまで。テントを張る部員たちはうれしそうだ。特に食料のコメや果物を出す部員は明日から少しでも荷が軽くなる。顧問の持つ食料が使われるのは最後でいいよと言ってある。南に薬師岳が大きい。でも高低差は昨日今日とは違って楽に歩けそうだ。「山の彼方に憧れて・・」と私に山を教えてくれた先輩の好きだった歌が口に上ります。雷鳥(生物の名は片仮名表記とすることになっているのですが、雷が鳴る天気に姿をあらわすという習性を考えると漢字を使いたくなる。それ以上に熊高山岳部の部誌が「雷鳥」なのだ。)もすぐ近くまで我々を見に来てくれた。明日は間山の幕営場が予定地。雪田が残っていてくれるといいけど。明後日薬師を越える。
目の前に、昨日辿った針の木岳が鋭い岩峰を天に突き上げている。厳しいルートだった。下山する登山者は雪渓側を選ぶのが分かる。我々は誇っていい。天気図をとり早い夕食を取って、ミーテイングを終え、明るいうちにシュラフにはいった。天気図では明日も晴天が約束されている。

1970.07.26 越中沢岳を経て間山へ
抜けるような青空に今日の天気を保証されて、5:35五色が原を出発。越中沢岳から振り返ると昨日幕営した五色ヶ原が美しく雪田を抱いている。その彼方に立山・劔が。先方を望むと、薬師岳の左に雲の平、その向こうに槍の穂先が天を指し、大キレットをはさんで穂高連峰が大きい。間山着がちょうど12:00。今日の行動は6時間半。ゆとりを持って幕営。

1970.07.27 薬師越え
いよいよ薬師岳を目指す日だ。実は薬師岳というのは不思議な山なのだ。なぜ薬師なのか。たとえば鳳凰三山は観音・薬師・地蔵と三仏そろっている。三つのピークを信仰の対象としたのだろう。八ヶ岳の阿弥陀岳は仏の阿弥陀如来であり、西方浄土を掌るということで、主峰赤岳の真西に位置することから信仰の対象となったのだろう。ではこの薬師岳はなぜ一つだけなのだろうか。あるいはなぜこの山を薬師如来に見立てたのだろうか。
実は薬師如来は仏教が渡来したころから病気を治してくれる仏として人々の信仰を集めた。病気だけでなく現世の希望をかなえてくれる仏でもあったのだ。天武天皇の病があつくなった時、妻のウノの讃良(のちの持統天皇)は病気平癒の祈願のため夫が始めた薬師寺建立を完成させている。現世利益の仏として信仰を集めた薬師如来は山岳仏教でもあちこちに山の名を残している。これから目指す薬師岳はそうした山だった。登山の対象となる前、薬師信仰を抱いた人々(修験者をふくめて)は鉄剣を携えて登り、頂上に奉納したと言われる。そんな歴史を持つ山に、信仰を持たぬわれわが登るのはちょっとたじろぐのだが、考えて見れば他の山々も山岳仏教の対象でない山などないようなものだから、あえて頑張って頂上を踏もう。他とセットでなく一つだけで薬師岳というだけあって、とにかく大きな堂々としたたたずまいの山だ。
間山の天場を出発したのが5:45。前衛の北薬師着が7:00。ここから左手が有名な金作谷の大カールだ。ただガスのため黒部川は見えない。カールを見下ろしながら2926mの薬師頂上に7:50。25分の休憩を取った。頂上一帯は花崗岩の砂礫が広大に広がって、なんだかとりとめのない感じだ。ここからの下りに注意しなければならない。なだらかな尾根が分岐していて、そちらに入り込んだら大変なことになるのだ。初めはなだらかでも、下は断崖・絶壁の連続する黒部川だ。7年前、ここで愛知大山岳部の12名が遭難して全員死亡している。1月、日本海側と太平洋側との二つ玉低気圧の豪雪と吹雪の中で起きた遭難事故だ。豪雪の中、一度下るともう戻れない。熊高山岳部も3年前、春山合宿の奥秩父縦走のなかで大変な目に合っている。愛知大は猛吹雪の中尾根を東南にそれて下ってしまったと思われる。南極越冬のための訓練だったというのだから、初心者ではなかったのだろう。
顧問は慎重に目を配りながらルートを辿る。避難小屋も過ぎて樹林帯に入りに薬師平に来てホッと一息ついた。そこから道はなだらかになり太郎兵衛平に着く。太郎小屋があり2373mの鞍部は、剣・立山から連なる立山連峰とこれから辿る黒部五郎岳との接合部になっている。右からは今はダムの底に沈んだ有峰部落からの道が、左からは雲の平から薬師沢を突き上げてくる道が合わさって十字路となっている。深田久弥が初めて薬師岳を踏んだのは有峰部落ルートだった。いまはそこまでバスが来ていて、薬師への一番近道のルートになっている。
太郎小屋の先で昼食。1時間10分取った。こんな場所をゆっくりと歩けるのがうれしい。ここから黒部五郎岳へのなだらかな、しかし長い稜線歩きとなる。かつては北アルプスの一番奥と言われたルートだ。左下に雲の平のなだらかな斜面、その向こうに赤牛岳が大きくどっしりと横たわり、その右に水晶岳の双耳峰が我々を見守ってくれている。最初のピーク北ノ俣岳でも20分の休
憩。左側の薬師・赤牛・水晶をスケッチする。北ノ俣から次のなだらかなピーク赤木岳2621mの間のコルで12:30。今日はここまで。黒部五郎は明日に取っておこう。今日の行程6時間45分。

1970.07.28 憧れの黒部五郎へ
いよいよ今日は黒部五郎岳頂上に立てる日だ。黒部五郎と言えば私の中では北アルプス最奥の山というイメージだ。とうとうここまで来たという思い、その感慨は多分北アルプスに惹かれた人であれば普遍的なものではないだろうか。
太郎兵衛平からまず北ノ俣岳は昨日越えた。黒部五郎岳は五万分の一の地図に( )で中ノ俣岳とある。東の三俣蓮華岳を主人公として北・中と名付けたのだろうか。薬師信仰で登った人たちは太郎兵衛平からこちらへは入り込まなかったのだろう。

6:00コルを出発。朝は皆元気だ。大幅にコースタイムを短縮して進む。ただ私の気持ちからすると複雑なものがあるのだ。北アルプスの最奥の山の頂上に早く立ちたいという気持ち。昨日早い時間に天幕を張ったのは今日元気に歩きたいという気持ちから。ところが一方で、こんないい山にそう簡単に登ってしまいたくない、もっとゆっくりと山を味わいながら歩を進めたいという気持ちが湧き上がって、なんだか口数が少なくなってしまった。
それでもペースは快適で、黒部五郎の頂上2839.6mに8:05に到着。頂上からの眺めはすごいものでした。北を望めば立山連峰(薬師まで含める)、薬師が大きくて立山・剣は霞んではっきりわからない。その右に赤牛、水晶、そして裏銀の山々。南に目を転ずれば、槍と大キレットをはさんで穂高。現役の部員にどこまで感動を伝えられるか。山への憧れは山の経験を少しでも積んだもののみが抱くものかもしれない。
頂上で記念撮影をし、未練を残しながら(わたしだけ?)直下のカールへ。深田久弥は
  黒部五郎岳の肩に着くと、目の下が、巨人の手でえぐり取ったように、大きく落ち込んでいる。三方を高い壁に囲まれて、いかにも圏谷といった感じである。
と述べている。真っ黒な大きなごろた石のカール上部の絶壁の根元に分厚い雪田が残っていて、末端から大量の水が吹き出ている。雪解けの水が地下水となって湧き出ているのだ。部員たちはもう夢中になって飲んでいる。絶壁を見上げると、真上がさっきまでいた頂上だ。氷河が気が遠くなるほどの長い年月をかけて削り取った場所で、私たちはもう動けなかった。日程を重ねて辿り着いたオアシスでもある。記録では1時間近く休憩している。ただ今日は双六小屋の天場まで行かなければならない。9:10号令をかけて出発した。全員タオルに雪を包んでそれを齧りながら歩く。こんな美味い雪を食べたことがない。北アルプス最奥の味だ。伝説的なと名付けたいような水の味でもあった。
ルートはカールの谷の底を選んだ。右手の尾根に旧道があって、黒部乗越で合流する。歩き始めるとすぐに岩が積み重なった場所に出た。モレーンだ。皆後ろを振り返り、名残を惜しんだ。1時間歩いて乗越で昼食。そこから500mの急登が始まり、三俣蓮華に12:05着。北アルプス後ろ立山連峰・裏銀縦走路と立山連峰との合わさる大事な場所だ。ただ今回は10分の休憩のみ。感慨に耽っている時間がないのが残念。此処からは双六岳のトラバースルートを取って1時間半、13:45今日の幕営地双六小屋に到着した。今回の合宿中もっとも貴重な素晴らしい一日だった。

1970.07.29 雲上の散歩道と秀麗な笠ヶ岳そして下山
 2:30起床。いよいよ山中最後の日。下で温泉が待っている。
4:10出発。小屋から大きな人数のパーテイが出てきて槍ヶ岳へ向かった。われわれは槍・穂高を裏側から眺めるコースで笠ヶ岳に向かう。 まずなだらかなアップダウンで弓折岳へ。此処から新穂高温泉に下れる。手前の鏡平コースは1986年版五万図にはできているが、1961年版にはまだ記載がない。向こう側の大ノマ乗越の記載はある。急降下の道だ。そこを左に見て進むと、「秩父平」という埼玉県人にはなんだかうれしい名前のスポットがあったので30分の休憩をとった。そこからの登山道が何といってもうれしい。ハイマツの緑の上を散策せよとでもいうような美しい稜線が笠ヶ岳まで続いているのだ。思わず写真に撮った。両側特に左は1500mの深さに切り立った断崖で底に蒲田川の左俣谷の沢がかすかに見える。その対岸は槍ヶ岳から続く稜線が大キレットで切れて穂高の大岩壁に続いている。今日はずっと北アルプスの勇者とでもいうべきこの山の姿を眺めながらの雲上の稜線歩きを楽しめるのだ。贅沢なルートである。スケッチも気が済むまで。進むのがもったいなくて、ピークともいえない抜戸岳で20分の休憩を取り、笠の小屋で1時間半の昼食休憩をとり、標高差100mを登るといよいよこの合宿最後の目的である笠ヶ岳2897.5mに着く。11:00になっていた。秀麗な三角形は飛騨側から見ると最も美しく信仰の対象となっているそうな。神あるいは仏の住む山と見えたのであろう。今は、延々と歩いてきた高校生にとって、この山の形の美しさへの讃嘆、頂上からの展望の大きさと美しさへの感動、そして何よりも1週間歩き通したことへの充足感、その他一人一人異なったであろう感慨、それらが彼らの心をいっぱいにしていただろうと思うと、山岳部としての活動のすばらしさを改めて思わざるを得ない。山頂での記念写真にみないい顔をして収まっている。


さてここから最後の難関が始まる。終点の槍見温泉が標高1000m。1900mの標高差を一気に下らねばならないのだ。身体の成長がまだ固まっていない高校生にとってこれはつらいというより危険な行為となる。11:30出発。山渓の登山手帳では4時間のコースタイムとなっている。途中錫杖岳の東を抜ける箇所だけ緩やかになっているのだが、あとは等高線の詰まった急降下のルートとなっている。ここまで来て怪我をしたら元も子もない。十分時間を取った。1時間下って5分の休憩、さらに35分下って25分、1時間20分下って25分休み、15:50ようやく目的地の温泉に着き、テントを張り、夕食の準備をし、やっと露天風呂に身体を休めることができた。ミーテイングで皆無事にここまで来たことを祝福した。

1970.07.30 帰途へ
6:40発。今日はもう歩かない。バスに乗って高山へ。みたらし団子が何とも言えず美味かった。そこから電車で富山に出て北陸線上越線で熊谷まで。8日間の夏山合宿が終わった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

はじめに

その一
昨年春出版した『幼な子とともに歩んで』の年度ごとの目次のページに、描いてきたスケッチブックからいくつかの山の絵を載せました。愛着のあるものばかりの中から一つを選ぶのは他を棄てるということで、つらいことでもありました。時々眺めていて、描いたものすべてについて、その時々の状況や今に残る思いを文章に残すことができれば、わたしの山行を振り返るよすがとなるだろうという思いが次第に成長してきました。

山の紹介ということになるともう『日本百名山』があり、その哲学的思索に裏打ちされた紹介に挑もうなどという野心はありません。あくまで私の半世紀余りにわたる山歩きをまとめて、一人の男の生きた姿を定着したいという思いです。 スケッチブックを前にするとそのときどきの状況がうかんできます。絵筆をとるゆとりがないことの方が多く、帰ってから思い返して色を付けたものもあります。日本画の河合玉堂のスケッチブックには素描の上に鉛筆で赤・青・黄などと書いてありました。帰ってから彩色するのでしょう。そのまねをしたものもあり、撮った写真で補ったものもあります。その時の感動をそのまま残しておきたくて素描のままにしたものもあります。
ぼくだけの思いがこもった絵を人の目に曝して何の意味があるかとの思いが常に付きまといました。それを越えさせてくれたのは、絵というのが記録写真と違ってぼくの目、心、思いというフィルターを通したものであること、すなわちここに定着したものがぼくの生きた五十年という歳月を提示しているものであるという考えでした。 くだくだしく書いてきましたが、ただ絵を見て気に入った絵があればそれを眺めていただきたい、それだけで結構です。そんな絵がひとつでもあればうれしいことです。

ここでも『幼な子とともに歩んで』を産むに力を尽くしてくれたアッチャンに触れることになります。アッチャンはスケッチブックの写真を全部カメラで撮影してくれました。文章をつけることをけしかけてくれたのも彼です。一つのものを生み出すのに自分一人の力ではかなわないということを再び認識させてくれたことになります。ありがとうございました。

その二
恥ずかしながら、「初めに」の項を訂正させてください。上記を「その一」とし、「その二」を付け加えなければならなくなりました。
「その一」はこの『我が山行 岩田龍司の場合』を構想した段階で書いたものです。そこでは私のスケッチとその説明をするつもりでした。ところが書き進めていくうちに煩悩が頭を持ち始め、それがどんどん膨らんできてしまうのです。それは、私の山行というのはたまたまスケッチに残した山についてだけでは収まらないという思いです。スケッチするゆとりのなかった山行にも今振り返ってみると万斛の思いが込められていて、それが蘇ってくるのです。スケッチした山だけに限定してしまうと私の山の人生は貧しいものになってしまうという思いでもあります。
今手元に私の山行の一覧表があります。季節ごとに新人歓迎合宿・夏山トレーニング山行・夏山合宿・秋山トレーニング山行・送別山行・冬山合宿・冬山トレーニング山行と分かれていて、また別に個人山行の項があります。数えたら491回ありました。うち高校の山岳部、登山部、登山愛好会の顧問としての山行が49.9%を占めます。私の山行は半分が高校生といっしょでした。遭難一歩手前という状況になったこともあり、生徒が雪面を100m以上滑落したこともあり、あるいは寒さで凍傷になった生徒が帰宅後足の親指の中身が外に流れ出てしまったということもありました。ドカ雪の中、森の中をリングワンダリングに陥ってさまよったこともあります。猛吹雪の中先頭の私が視界を失って、あと一歩で爆裂口に落ち込むところだったこともあります。
そんな悲しみを伴う山行の思いでとともに、大きな山塊を頂上目指して登っていくときの憧れと充実感、山頂に立った時の達成感と安堵感、暮れていく天場で自分が大自然と一体となっていると感じる幸福感、そんなひとこまひとこまが蘇って、あの時の仲間は今どうしているか、懐かしさに胸を灼く思いとなることがあります。彼らとの山行もここに残したい。スケッチするゆとりもなかったけれど、それだけに忘れられない思い出として残っている山行を記録する機会としたい。そんな思いで書き記したものがあります。
同じことが個人山行についても言えます。単独行もあり、思いを共有したい友を誘ってというのも多い。家族と一緒にというのも私の大きな喜びでした。スケッチこそないけれど、私の中に大きな財産として残っているあの山この山の思い出を一つでも多く残しておきたいという思い、それをこの『わが山行 岩田龍司の場合』に加えたいと思います。

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