桧枝岐部落を初めて訪れたのは50年以上も昔のことだ。結婚したばかりの妻を語らって、平家落人部落という名にひかれて尾瀬から沼田街道を下って七入りに出る旧道を下った。いわゆる会津裏街道と呼ばれた道だ。私の持つ五万図は「昭和二十三年十月撮影空中写真平面図化法」と右から書いてある恐ろしいものだ。尾瀬沼の横を通る広い道が通っているのだが、実際は険しい山道で、本当に昔の旅人はこんな道を通ったのだろうかと思われるようだった。
道行沢を下に見るあたりに大きな滝があった。当時の五万図には出ていない。我々は「般若の滝」と名付けようと決めた覚えがあるのだが、その後いつのころからか、抱返ノ滝という煽情的な名が記載されていることに気づいた。
七入りからバスに乗れたのは、会津駒への登山者用だったのだろう。そこから桧枝岐に出て歌舞伎舞台などを眺め、翌日駒ケ岳を歩いて大杉岳から南下したら、自衛隊の服を着た人たちがたくさんいて道路を作っていた。今の御池だった。まだ尾瀬が混雑する前のことである。
以来会津駒ケ岳は私の愛する山の一つとなった。小学校低学年だった息子たちは、稜線に無数に飛んでいた赤とんぼを覚えている。また、一人で出かけて七入りからの登りで夕立に襲われ、稲妻が目の前を横に走るのを見る経験もした。
そんな私が頂上から1km足らずの中門だけを知ったのはずっと後のことだった。このことを思い出すたび思い出すのが『徒然草』の第五十二段である。
仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人徒歩よりまうでけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得てかへりにけり。 さてかたへの人にあひて、「年頃思ひしことはたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも参りたる人毎に山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれとおもひて、山までは見ず」とぞいひける。少しの事にも先達はあらまほしき事なり。
石清水は山の上にあるのに知らずに帰った男の話。私も越後駒に登ることが本来の目的だとして中門岳まではみなかった。中門岳を初めて訪れたときこの第五十二段を思い出して切歯扼腕したことを思い出す。中門岳は何度来ても美しい。
1987.07.27
熊谷6:42=羽生・舘林・佐野・栃木・下今市=会津高原11:36/12:30=桧枝岐スキー場入口14;30(幕営)
鬼怒川から渓谷沿いに会津高原駅へ。高原駅から田島。それぞれ別の第三セクターによる新線という。
途中断続的に激しい雷雨。スキー場入口は今年からキャンプ指定地から外されたとのことで心配しながら降りる。民宿で聞いて管理人に会って依頼すれば快くOKしてくれる。静かな草原で我々ともう一張りのみ雨激しく、シュラフを心配しながら眠る。
1987.7.28
天気図では梅雨前線の間近で雨の音激しく、黒雲の重く垂れこめる空を眺めて、今日は停滞と決定。天幕の隅にたまっている水を掻い出し、トレンチを掘る。断続的に激しく降る中を桧枝岐部落へ散歩に出かける。遭難碑、歌舞伎舞台、石像等を見物し、共同浴場まで。帰路たちそばを食べ、コーヒー。雨の中時々陽が差し始める。明日は大丈夫ならんか。夕食時ミーティング。部員は駒ケ岳へは絶対行くとの意向。久しぶりに意欲的な姿勢がうれしい。中華丼の夕食も美味。
1987.7.29
幕営地6:00ー水場8:20⋰40ー駒の小屋9:30ー会津駒ケ岳-中門岳ー駒の小屋(泊)
時間通りに出発。30分後から急登が始まる。一人が遅れ出す。今日の戦闘はS。0とともに快調だ。二本目はなんとか水場までと1時間半ほど歩く。ようやく着いた沢の水が冷たく喉にしみる。ひとあえぎして緩やかになり、向かいに駒の尾根が緑に美しく見え始めて、石楠花の咲く木道へ出る。見覚えのある道なり。肩に小さく小屋が見え歓声がわく。道は草原の中を行き、池塘が現れ、木の階段を上がりきればそこが駒の小屋。かつて小屋の前にあった天場はなく小屋泊まりせねばならない。炊事にかかろうとして大きな誤算を発見。前回あれほど多量にあった雪田が影もない。水場として予定していた我々にはショックで、太鼓判を押していた私に恨みの声しきり。前回は8月であったにかかわらず、駒の池の中まで雪田がつづいていたのに。致し方なく池の赤い水を煮沸して使うことにする。小屋の管理人に聞けば、今年は雪が少なかったとか。
部屋に荷を置いてサブザックで駒ケ岳、中門岳へ出発。中門岳は私も初めてのコースだ。青空の下快適に歩く。緑の草原に池塘が美しく。ほとりにワタスゲが白く揺れて幻想的雰囲気が漂う。雲の流れる姿も美しく水面に映る。木道は行き止まりでぐるりと円を描いて戻る。昼食後出発。イワヒバリの巣を木道の陰に発見する。薄茶色の卵が4個。数多い山行で2回目だ。目を転ずれば尾根の向かいに平が岳。残雪はすでに沢筋にわずかにみえるのみ。あの白く輝いていた雄姿とちがって何やらみすぼらしい。緩やかな起伏をたどって駒ケ岳トラバースルートから駒の小屋へ。
暮れてゆく小屋で管理人の息子さんと語る。スキ―指導員の彼の語る雪の駒ケ岳の素晴らしさ、水を運ぶ苦労など1時間ほど。ビールをごちそうになり部屋に戻る。更にウイスキーでついに酔いつぶれて眠る。大きないびきなりしと後で聞く。
ミーティングの中で明日のルートを検討する。裏燧ルートから十字路へのルートは停滞があったため中止。尾瀬沼から燧を往復することを決定。酔いの中。
1987.7.30
駒の小屋6:00ー大津岐峠7:20-七入分岐8:35~45-御池ロッジ10;30~12:20=沼山峠12:45‐尾瀬沼キャンプ場13:40(幕営)
今日も予定通り出発する。5年ほど前に辿った尾根道にトンボを追った息子たちの姿が浮かぶ。小屋の親子も鎌をもって出発。大杉岳のルート整備にと言う。好調に辿って大津岐峠・七入分岐へ。美しい草原もここまで。前回天幕を張った池塘は美しい姿でそのまま残っていた。
ここから大杉岳へ。樹林帯の路が暑い。頂上手前に開けた草原あり。ワレモコウ、リンドウが可憐だ。ショートパンツに着替え、なんとなく頂上を越えて一気に下る。一人調子悪し。日射病ならんか。
御池ロッジの冷たい水で顔を洗い、コーヒーで握り飯の昼食をとる。なんということなく尾瀬沼キャンプ場へ。天幕設営後現役が食事を作るまでと、顧問は散歩に出る。一人は夕景を撮影するとのこと。残り二人は尾瀬沼畔で生ビールを飲みヤナギランの丘で長蔵氏の墓に挨拶をして無事を謝した。
1987.7.31
幕営地4:00ー燧ケ岳7:30~8:05-幕営地10:00~11:20ー三平峠12:00ー大清水14:15~15:40=沼田17:30~43=本庄19:20