1980.8.24-26 白山


1980.08.24
京都07:40=(雷鳥)=小松10:00=(タクシー)=別当出会い11:40/12:30-甚之助ヒュッテ13:45-室堂分岐14:30/15:00-南竜山荘15:30(⇔南竜ケ馬場)
青空。「雷鳥」の窓より大積乱雲が白山の上に成長していく。今回修学旅行下見で京都を回ってその帰りに二人を誘って白山に廻ることになった。ハクサンフウロ、ハクサンコザクラ、ハクサンシャクナゲ・・一度は訪れなくてはと思っていた山だ。山岳仏教の聖地として『平家物語』に登場する山でもある。小松より小桜タクシーで別当出会いまで。強烈な夏の日の下昼食を済ませて出発する。室堂分岐よりお花畑。シモツケ、トリカブト、アザミ、そしてハクサンフウロが鮮やかだ。シモツケはわが家のものより葉が切れ込んでいる。
南竜山荘にて缶ビールを買い込み、南竜ケ馬場へ。美しい草原が広がる。北アルプス方面はガスで展望きかず。諦めて山荘に戻る。学生一人同宿。ひとりで山を歩き回る横浜の男という。
夜半、月の光が顔を照らして目覚める。冷え込む大気、黒々と擴がる山並み。幸福な時間があった。

1980.08.25
南竜山荘07:00-(展望コース)-室堂08:20/40-白山山頂(2702m)-翠ガ池-大汝峰-千蛇ガ池(昼食)11:30/12:30-室堂13:00/30―(観光新道)―別当出会15:15-白山温泉16:45(泊)
ひろびろと広がる山上の峰々を軽快に歩く。晴れ渡った修験の世界に身を置いた感じの一日だった。スケッチは白山頂上より別山を望んだもの。

1980.08.26
白山温泉09:20=金沢12:00-専光寺-犀川の寺-郷土資料館-金沢15:46=(白鷹4号)=高崎21:10/49=本庄
室生犀星の故郷を回る。
  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食(カタヰ)となるとても
  帰るところにあるまじや
      ・
      ・
専門の違う二人には少々気の毒だったかも。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2004.08.09-11 鹿島槍岳 憧れの山稜でライチョウとイワツバメに


2004.08.09 熊が走り下った
本庄5:10=更科IC6:35=扇沢登山口8:10~15-種池山荘12:05(泊)
扇沢登山口駐車場は満車。5分手前の道路わきに駐車する。出発すればいきなり急登。40分の辺りで上方斜面をガサガサ音をさせて何かが走り下る音がする。さらに5分歩くと中年夫婦あり。「熊が出た」と興奮している。先ほどの音の正体ならん。運転後ということでスローペースで歩いるつもりが、一人の男に追い上げられてハイペースとなる。それが因となり最後の1時間が苦しくなる。ガスの中、息を喘がせて立ち止まりつつ歩を進めると目の前にぽっかりと種池山荘が現れた。2時間ほど前、尾根上に見た小屋は気が遠くなるほど上方だったが。
時間はまだ早い。宿泊手続きの前に小屋前で持参のラーメンで昼食。一番搾りの500mℓが美味かった。
宿泊は同じブロックに60代後半のカメラを担いだ男と50歳ほどの男。50男は昨日冷池小屋泊りだったという。超満員で酸欠の心配をしたほどだったとのこと。槍・穂高が好きなようで、最短ルートは新穂高温泉から滝谷沢を渡り、南岳へ出るルートという。17時夕食。夕刻より遠雷が鳴り雨降る。18時過ぎ止んで夕陽が出、爺岳東斜面の沢に入りこむ虹が出現する。窓から鹿島槍と針の木をスケッチする。

2004.08.10 イワツバメの風を切る音が頭上に
朝食5:00出発5:40-爺岳南峰6:35~45ー中峰6:50~55ー赤岩尾根分岐7:30~40ー冷池山荘8:00~05ー布引岳9:05~15ー鹿島槍南峰10:16ー北峰10:50ー吊尾根雪田11:00~50ー南峰12:20~40ー布引岳13:20~40ー冷池山荘14:15(泊)
5時前、ガスの中を写真撮影の男が出発。5時朝食。5:40に出発できた。爺岳への登り5分のところで完全装備のカメラマンが下りてくるのに出会う。ガスで何も見えなかったと情けない表情だ。しかし登るにつれてガスが切れ、南峰では鹿島槍が姿を見せ、中峰下りでは槍穂高も姿を見せた。道はだらだらの長い下り。明日の帰りが大変そうだ。新築の冷池山荘に着き、不要な荷物を預けて軽くしようかと迷ったが、そのまま出発する。テントサイトの横で昨日登りで一緒だった男が下ってくるのに出会う。6時、一番晴れた時に頂上に立てたという。今日は信越山荘泊りで明日針の木を下るという。笑顔を交わして別れた。お花畑が美しい。
布引岳までのコースタイム1時間40分は誤り。1時間で着いた。ガスの中ほんの一瞬頂上が見える時があり、カメラを構えて待ったが空しかった。登山道の中央にマツムシソウが踏まれずに美しい。すぐ上を行く女性グループが突然騒ぎ出し、「雷鳥がいる」と指さす。雛を2羽連れた親鳥がすぐ横を通る私を全く警戒しない。中年女性たちは「餌、餌」ととんでもない会話を交わしている。
登るにつれてガスは濃くなり、鹿島槍南峰に着いた時は全く眺望なし。にぎやかな南峰を素通りして北峰を目指す。道はいきなり急な岩場の下りとなる。昨日の男が「昔は何でもなかったところも年を取ると怖くなる」と言った、その言葉を思い出しながら下る。下りに下って北峰とキレット小屋への分岐まで来ると、そこが吊尾根の雪田だった。ザックを置き空身で頂上往復。頂上には中年夫婦が一組いるのみで、下ろうとするところ。カメラのシャッターを押してもらう。往復15分で吊尾根へ。そのまま雪田に下りてラーメンの昼食をとる。30年前ビバークした場所は変わっていなかった。懷かしさに動けなくなる。キレット小屋から何人か上がってきたが雪田には下りずに通っていく。イワヒバリも來て自分だけの場所、自分だけの時間があった。カップで掬ったざらめ雪が何とも言えず美味く、何とも言えず美しく輝いた。
昼食後の登りはきつい。南峰直下まで来てとうとう等距離を開けて歩いてきた女性に追い抜かれた。南峰ではガスの晴れ間を狙う人たちが何人もカメラをかかえていたが、チャンスなく皆戻っていった。南峰だけで帰って行く人たちがほとんどだ。なぜだろう。家族連れの母親にシャッターを押してもらい、こちらも押してあげて下山する。今回の山行もこれで終わると思うと下るのが惜しい。布引岳でも大休憩をとる。腰を下ろす頭の上をイワツバメがシュッシュッと何度も何度も音を立てて飛びぬけていく。こんな音を聞くのも初めてだ。
東面にお花畑が広がり、ホタルブクロ、トリカブト、アキノキリンソウ、トウヤクリンドウ、ウサギギク、シシウド、アザミ、ひげとなったチングルマ、クルマユリ等々がガスの中美しい。私を抜いた女性を布引平で抜き返して冷池山荘に到着。
宿泊手続きを済ませ、生ビールのジョッキをもって上のベンチへでる。老年夫婦がいて、どちらから?と声をかけられる。2週間かけて百名山を登っているという。此処へ来る前は番場島から剣岳に登ってきた。鹿島槍に登った後は平ヶ岳へ行く予定とのこと。山の話を自慢話でなくできるのはうれしい。お陰で生ビールをお替りすることとなった。
7月9日にリニューアルオープンしたばかりの山荘は豪華なもの。トイレも水洗で、洗面所もある。飲み水以外は天水で、水は尽きていた。夜は誰とも話を交わさず眠る。

2004.08.11 青空の下、鹿島槍が輝いた
話声で4時に目を醒まさせられる。若者が、鹿島槍に登るが南峰と北峰があるのも知らぬという。向かいの老人に、地図を各人で持たずにもし迷子にでもなったらどうすると叱られている。下へ降りてダクロンのTシャツを買う。5時の朝食後、人々が走って外へ出るのについてベンチへ出るとすでに朝日は上っていた。素晴らしい天気だ。青空の下に輝く鹿島槍を撮る。最後の日に絶好の条件に恵まれた。
昨日と同じ05:40に出発。赤岩分岐で鹿島槍を背景に撮影。途中で噴煙をまっすぐ噴き上げる浅間が雲海の上に顔を出し、右手には剣、立山が朝日に輝いている。爺岳中峰頂上へは寄らずトラバースルートで眞直ぐ南峰へ。蓮華岳の左に槍・穂高、その左に燕、大天井、常念。雲海の彼方には南アの北岳・仙丈・駒と八ヶ岳が。蓮華の右には針の木・すばり、さらに右に立山と剣が全部見わたせる。なんといっても鹿島槍の雄姿がうれしい。下山するのが惜しくなり、スケッチをし、1時間も眺望を楽しんで、ようやく下山へ。スケッチ中は針ノ木岳。スケッチ下は蓮華岳を越えて槍・穂高の遠望。種池山荘で生ビールでもと思いつつ到着すると、20名もの団体が出発するところ。あの人たちの後ろになったら大変と、そのまま素通りして列の先に立つ。そのまま下りに下って扇沢に出る。前回のようにあの水に頭を突っ込みたいと期待したものの、休憩なしで下まで飛ばす。最後の堰堤の上の岸にザックを下ろす。思う存分顔を洗い、頭を洗い、沢の水を沸かしてコーヒーを入れ・・最後の充実した時間を持った。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1982.9.13-15 苗場山 引きちぎられたスケッチブック

1982.09.13
夕食後3時間眠り夜行で。23:49が40分遅れ。待合室に待機中ホームより落ちし人ありとのこと。電車は空席多く、週日のためのみならず台風の影響なるべし。

1982.09.14
03:15越後湯沢着。駅で30分ほど眠り、タクシーで祓川まで(3800円)。ヘッドランプを付けて歩き出す。和田小屋より先行する女性二人の後を追いゲレンデを登る。リフト終点でルートハント。二人は小松原湿原に幕営という。いつか僕も行きたいルートだ。神楽峰を気持ちよく下ったが、お花畑から最後の登りが夜行の身体にこたえる。
やっと山頂に飛び出せば目の前に一面の草原が広がり、その中に光る無数の池塘。名前の由来の苗場だ。『北越雪譜』を思い浮かべつつ辿る。来てよかった。村営小屋でのビールも何ともうまい。烏帽子、岩菅の右に槍・穂高が見える。二人の女性も到着。二人は山岳会員という。冬山を雪洞で歩く人たちだ。楽しく語って別れる。彼女たちは小松原湿原へ。こちらはテントを張り、11-13時午睡。
太陽の眩さに目を醒まし、午後の山頂をスケッチ。小屋番の若者と話す。若い人の登山人口が減っているとか。昌次新道の下り口迄木道を辿る。下り口の先はいきなり絶壁を下るすさまじい道だ。池塘を眺めつつ戻って夕食をとる。18時就寝。

1982.09.15
4時起床。のんびりと5時30分発。日の出は雲量が多く見られず残念。昨日は雲が黄金色に輝いたのだが。秋山郷への木道を分けて赤倉山のルートをとる。湿原を一人気ままに歩けるのは樂しい。山頂の原から先端の崖上に出たところから嚴しい歩きが始まった。刈払いのない笹の中を分けていけば露で下半身ずぶ濡れとなる。苗場から離れた地点からすさまじい風倒木が待ち受けていた。踏み跡が見えない。稜線から外れた地点でルートを見失い、倒木を乗り越えて進む。衝撃的な事態に直面した。倒木から倒木へと飛んだ途端、向こうの木からこちらに突き出ていたシラビソの枝にまともにむねをつかれた。肋骨に当たったので助かったが、危うく串刺しになる所だった。串刺しになったまま動けなくなったらと恐怖に震えて、しばらく動けずにいた。それでも鞍部に出たところでやっと刈り払いの道に出会えて、赤倉山頂に出たのが8時を回っていた。佐武流山・白砂山への道はものすごい藪だ。とても進むことなどできない。
ここから道は分かれて下りとなる。赤湯まで2時間20分の道標あり。タイムを短縮せんと跳びだす。走り続けて赤湯着9時30分。小生まだ体力は大丈夫といい気持ち。
悲劇はここから始まった。鷹巣峠への登りが予想外の急な登り。足が上がらない。走って体力を使い果たしたうかつさが悔しい。下から来た爺さんはぼくににこにこ声をかけてあっという間に見えなくなった。仙人だったのだろうか。本橋まで3時間半というコースタイムは確認していなかった。赤湯まで來ればあとは楽な道と勝手に想像していたのだ。次第に心が折れてきて、林道に出たら車に乗せてもらえるだろうかなどと甘えだす。林道の始まり地点に沢があった。冷たい水に頭を突っ込み思う存分飮む。動きたくない。さらに1時間歩き土砂崩れを高巻きで気息奄々となって、残した握り飯を食べる。ひざの痛みが苦しい。トラックが通るかという望みを諦めて近道の山道へ。登りは這うごときペース。浅貝川は台風名残の増水で渡渉を強いられた。チョコレートがほしい。対岸で靴下を絞ってやっと出発し最後の登りで17号に出て、元橋にたどり着いたのはすでに13時20分。情なさに打ちひしがれる。まずチョコレートを買ってかじり、ラーメンを食べ、やっと缶ビール。心配した酔いはなかった。14:30のバスで無事湯沢駅へ。佐渡4号は空いていた。家族は東京からまだ帰っていない。ひとり風呂に入って手足を延ばし、ほっと息をついて山行が終った。

このスケッチについては後日談がある。
何年か後、たしか那須の鉄小屋だったと記憶するのだが、夕餉が終わって小屋の従業員の若者たちと山の話になった時、ぼくは自分の好きな山をスケッチしていると話してその日もって行ったスケッチブックを開いて見せたことがあった。別にうまい絵だと自慢するつもりはなかった。山が好きな人間の、山への対し方を紹介しただけのことだ。
その時思いもしないことが起こった。若者の一人がそのスケッチブックを手に取ったかと思うと、いきなり苗場山の絵、この冒頭に掲示した絵なのだが、それを「これをください」というが早いか、引きちぎってしまったのだ。ぼくは何が起こったか信じられなかった。すぐに我に返って「だめだよ」と言って取り返そうとした。怒ることも忘れていたようだ。若者は「お願いします」を繰り返して返そうとしない。ぼくはだんだん本気になって「返せ」と声を大きくして立ち上がった。成り行きを見ていた若者の仲間たちが口々に「返せよ」と言い出したので、若者は不承不承絵を返してよこした。あやまりもしない。一件はこれで落着したのだが、破り取られた絵はもとには戻らない。今になっても、若者がなぜ引きちぎったのかが得心がいかない。他人の絵を無断で引きちぎることが許されることではないことくらいわかっているだろう。それを越えて衝動的行為にかりたてたのが何だったのか。もしかしてぼくの絵に一目惚れしてしまったのだろうか。ぼくもこの絵が大好きなのである。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1984.07.25-29 夏山合宿 飯豊山 2年生がよくリードしてくれた

1984.7.25
熊谷06:53=大宮=米沢11:21/12:10=小国13:39/45=飯豊山荘14:48/15:18=堰堤下15:45(幕営)
飯豊は四度目なりしも今回のコースは第一回のものの逆。米沢から入るのも初めてだ。特急で米沢到着後駅前の喫茶店でコーヒーを注文し、持参のサンドウイッチで昼食をとる。米沢駅前には上杉謙信の「毘沙門天」の旗が列ぶ。20年前の大平温泉行を思い出そうとしたが手掛かりなし。
小国は大石川林道の下流の町。あの河原で身体を洗い、川の水を飲んだ。バスがついて時間がなかったのだろうか、駅は記憶に残っていない。今回駅からのバスは長者ヶ原停留所を素通りして梅花皮山荘まで。長者が原までの下りの道は長かったのにバスではあっけない。遠い日の姿が浮かぶ。温身平も知らずに通り過ぎて、バスは堰堤の下まできてしまった。夕立の中を天幕を設営する。
天幕を張り終わるころ上がった雨は、夜に入って再び激しく降る。稲妻、雨、沢音の中ウイスキーの酔いの中に眠る。

1984.7.26
幕営地06:07-石転び沢出合08:30-梅花皮(かいらぎ)小屋15:30-洗濯平手前(幕営)
朝、沢へ下る灌木の中、濡れた岩に滑って転倒。もみあげ上部に裂傷を負い出血。相棒の顧問は下山して医者の手当てが必要というが、ここまで来て登らずに帰れるかと消毒して出発する。雪渓までが長かった。1年生のKが遅れだし、新入部員のAも遅れだす。新人歓迎山行、夏山トレーニング山行、毎日のトレーニングを重ねてきた部員に合わせるのは無理かもしれぬ。今日はこれから高低差700m、3キロの雪渓を登らねばならぬ。
いしころび雪渓に入って30分歩き、デブリの土の上でアイゼン装着。風が冷たく寒い。登るほどにまだ色づかないアキアカネが雪の上で動けなくなったり死んだりしている。谷筋はトンボやチョウの頂上への通り道というが、雪のため命を奪われるのか。雪渓はトンボの墓場なのだろうか。
雪渓上部はガスの中。登ってきた雪渓を下に見ながら昼食をとる。出発するとAが苦しそうだ。声をかけつつ横を登る。最後の急斜面を土の上でなく雪の上を登る。アイゼンが外れたUが転倒。危険なので土の上へ導こうとピッケルでカッテイングして誘導中、あと一歩という所で再び転倒。襟首をつかんで引き留めたが、怯えたはUは草の上に出てもうまく歩けない。上では他の部員が急斜面に腰を下ろして待っている。落ちたら止まらないぞと怒鳴り付けて横の土の上に上がらせ、Uと合流し最後の斜面をトラバースして草付へ上がる。
雨が降り始めて登山道が滑る。突然ガスの中に梅花皮小屋が現れる。苦しい登りでKとAは消耗し尽くした感じ。
避難小屋は高校生で喧しく、洗濯平を目指す。しかしすでに良い場所は先着者に占められている。仕方なく引き返して洗濯平手前に幕営する。今日の夕立は14時。ずいぶん早かった。

1984.7.27
幕営地06:30-梅花皮岳-烏帽子岳08:53-御西小屋13:10-飯豊山頂上小屋天場17:00(幕営)
晴天。天場から目の前に大日岳が大きく、谷が深い。梅花皮岳・烏帽子岳と大日岳との間にゆるやかなピラミッド型に御西岳も見える。
全員の記念写真を撮って出発。昨日疲れ切った部員が辿った道を軽やかに踏み返して梅花皮岳へ。頂上手前のピークでAが嘔吐。休ませている間に北股岳とそれに続く門内岳をスケッチする。朝日連峰は陰で見えない。懐かしい場所を思い出しつつ雪田の上で昼食をとる。レモンがうまい。。烏帽子岳の下りで前任校の山岳部員だったOに出会う。大学(ICU)のワンゲルに入ったOはしごかれていて、私に気付くと縋りついてきた。強烈な日差しの中を御西小屋着。さきほどのOは仲良しで同じワンゲルに入ったIがいるかもしれないと言ったが、混んでいて分からない。すぐに出発して次の雪田の上で休憩をとる。飯豊本山へのゆるやかなスロープがハイマツの緑と雪の白に彩られて美しい。山頂への登りにかかったところでTが激しい腹痛を訴える。聞けば一昨日、昨日とほとんど眠っていないという。疲労している所へ雪を食べ急性腸カタルになったようだ。荷物を分け、他の部員は天場確保のため先行させ、休ませつつ歩く。陽が傾き、誰もいない本山頂上はトンボが乱舞していた。やっと着いた場所は乾いた砂地で、傍らが草地で気持いい。すぐ濡れた天幕を張り、シュラフを乾かす。Tはすぐに眠る。いっぱい寢て元気になってくれ。周りはお花畑が美しい。特にキスゲ。
夕食後、子守唄を口ずさみながら眠る。

1984.7.28
幕営地07:37-切合小屋10:30-地蔵小屋-御沢小屋18:58-川入・飯豊鉱泉19:40(泊)
日の出とともにガスが上がって、幸運にもブロッケンに会う。光の輪の中にめいめいの姿が浮かび興奮する。ガスが晴れると大日岳、御西岳、飯豊本山の雪田をかかえる姿が大きい。あそこを辿ってきた。天場が空っぽになって出発する。切合せで最後の雪田休憩をとる。他パーテイからコンデンスミルクを戴き感激する。
三国岳手前で心配していたTがダウン。荷を2年生に分け、2年生のKAとともに後発に。Tは発熱。三国岳のくだりで足をふらつかせぬかと懸念しながら地蔵岳へ向かう。ここからいよいよ最後の下りだ。途中で先発隊に追いつく。Kが歩けなくなっていた。Kも預かりひたすら下る。Kは泣きながら歩く。日没と競争しながらやっとのことで18:50御沢小屋に到着。今夜は小屋に泊ろうと皆を励まして川入鉱泉へ。小屋の主人は遭難対策の人。熊の胆を戴きTはやや落ち着いた。仏に出会った気分だ。山行の名残り。

1984.7.29
飯豊鉱泉06:25-一の木バス停06:50/07:15=山都07:50/08:35=新津=長岡=熊谷
長岡よりTと新幹線で一足先に帰る。Tは元気を回復して帰って行った。

熊谷女子高校4年目にして、初めて満足いく山行だった。2年生がよく頑張った。Nをはじめよく1年生(とくにK)の面倒を見てくれた。「がんばろう」と優しく勵ますNには敬服させられ続きだった。「先生私が荷物を持ちます」とダウンした後輩をかばったU、急遽この山行でリーダーとなったKA、それぞれの力とやさしさが1年生の信頼感を生んで、厳しかったこの山行を成功させた。見ていた私は何とか成功させてやりたかった。彼女たちがいなかったら梅花皮の峠から湯の平へ下ってしまったろう。
2年生、1年生、(顧問も加えて)の連帯感と共同体意識が快く残る山行だった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1990.08.17-19 針の木雪渓 – 烏帽子

北アルプス縦走コースのうち途切れているのが3か所ある。針の木から烏帽子、槍から北穂、奥穂から西穂だ。岩田学園60周年記念事業としての卒園者名簿作成、熊谷女子高80周年記念誌編集、旺文社教科書編集会議と、今年の夏は特に忙しい。そういう中で、今年行かなければもう行けなくなるのではないかという強迫観念のようなものに突き動かされて設定した山行だ。息子が同行してくれるとすれば今年のみとなろうから。父の夢を実現してやろうという配慮が彼の中に働いたのだろうか。父の申し出に二つ返事で「いいよ」と答えてくれた時はうれしかった。高校で山岳部にいたのに北アルプスは初めてというのも理由の一つに入っていたか。連日の猛暑のなかで身体を動かすことを節約しているような状態で、体力に不安はあるが同行者が心強い。5月の浅間行の際「もっと早く歩いていいよ」と言った息子だ。

1990.8.17
列車はすべて座れて大町まで。但し秋雨前線が東北地方にかかって次第に南下してきている。台風が台湾の東にあり今のところ北西に向かっているがいつ北上するかわからない。そんな懸念を裏付けるかのように大糸線から眺めるアルプスは半分から上すべてガスの中。息子は次第に気が進まなくなってくる気配。
大町からバスで扇沢へ。乗客は20名ほどなれど完全装備はわれわれのみ。いよいよ出発だ。大沢小屋へ。幕営地は先に中年のパーテイの一張りのみ。食事の支度をしているうちに激しい雷雨。一昨年ここに幕営したときとおなじだ。息子は明日帰ろうと言い出す。高校の山岳部の山行がほとんど雨だったことを思うと無理もない。天気図を描いても良い徴候なし。自分もふとそんな気になりかける。
やがて止み、天幕の外で先に張っていた人と言葉を交わす。「小屋の人に、これは夕立ではないと言われた」とのこと。前線の動きが活発なのであろう。でも先ほどは虹が出たという。息子と明日の朝決定することとし眠る。ダンロップテントは激しい雨にも何食わぬ顔、頼もしい味方だ。

1990.8.18
明るくなって目が覚める。外へ出て見ると蓮華岳の稜線が鮮やか。先のパーテイと再び話す。新潟のひと、二組の夫婦で、昨夜は天気予報で雨が激しくなると聞き、女性を大沢小屋に避難させた由。針ノ木峠で黒部胡と立山・劔を見て下りてくる予定という。息子に我々もとにかく峠まで登ろう、場合によってそのまま下りてくることも考えようと提案。下から20名以上の中年女性グループが到着したのと入れ替わりに07:10出発。雪渓に出たところで会った若者にアイゼンの必要性を問えば、「ほとんど高巻き、雪渓はずたずたです」とのこと。少々残念だ。実際高巻きは急峻で鎖に取り付いたり不安定なルートだったりで、帰路ここを下るのは勘弁という感あり。最後の登りがきつかったが、10:30予定時間内に峠に出た。一昨年の水場は枯れている。テント設営が済み外で寝転んでいると、針の木岳へ向かうグループの一人が「もう今日は終わりですか」と心底羨ましそうに言う。次の天場は種池だが8時間以上かかる。途中ででビバークするのだろうか。先着テントが一張り。名城大の二人で、「劔から白馬、日本海まで」と度肝を抜くようなことをさらりと言う。往復30分かかる水場まで行ってくるという息子に感謝。私一人であれば1ℓ150円の水を小屋から買って済ませたであろう。待っている間にスケッチ。天気は安定してきた。予定通り先に進もう。夜10時半外へ出て眺めた星空は圧倒的な美しさだった。スケッチは、針ノ木峠より烏帽子・三つ岳を経て槍・穂高。

1990.8.19
3:00起床。息子は頭の上に広がる星空に大きく感動の声を上げる。
4:50いよいよ憧れのコースへ。冷たい風に追いまくられながら蓮華の肩まで来ると、針の木が一瞬モルゲンロートに輝く。槍も全貌を見せ、振り返れば鹿島槍から白馬まで全て見はるかせる絶好の天気だ。しかも眼下は広大な雲海。のんびりしたペースで着いた頂上はひろびろとしてコマクサの群落でいっぱいだ。季節的にもうあきらめていただけに心底うれしくなる。息子は関心を示さないように見えたが、あとであそこから動きたくなかったと述懐した。三角点で後から来た聾唖の若者にせがまれてカメラのシャッターを押す。頂上発06:30。大下りの途中で追い抜いていった彼は、我々が鞍部についた時は七倉岳の頂上にいた。七倉の登りにかかってペースダウン。このぶんでは今日は船窪手前の天場までかと気弱になりかかりしも、それでは明日のコースタイムが10時間になってしまうと考え、少しでも先へと頑張る。天場で水を補給して昼食をとる。
ここからのアップダウンが苦しい。両側とくに信州側の崩壊がすさまじく、そのため尾根まで削り取られて小ピークの連続となったのであろう。200m下りきると150mの急登という呆れるようなコースだ。2300mのピークを越え、船窪キレットにわずかなスペースをみつけたときはすでに13:30。今日はここに幕営しよう。七倉尾根から登ったという男性が我々の天幕を羨ましそうに見たが、さらに先へ行くと言って立ち去る。元気だ。夕食にのんだコーヒーのせいならんか、息子と二人眠れず。星も今夜は少しうるんでいる。

1990.8.20
5:10出発。いよいよメインコースを歩く日だ。いきなり梯子の取りつきから始まる。眼下は両側ともすさまじいガレだ。ルートはガレで寸断されており、用心深く歩く。船窪岳06:26.。船窪から不動岳肩までは深い樹林帯。ハイマツの上の大岩を越えると意外なほど広々とした頂上だった。8:40。グレープフルーツを食べて9:10発。また200m下り、230m急登せねばならない。しかし最後の登りと思うと登ってしまうのがもったいない感もあり。南沢岳直下の庭園のような平地に憩う。夢のような世界だ。10:35南沢岳到着。広々とした白砂の中でわずかな岩陰をもとめて昼食を取り11:10発。ここから裏銀コースになると実感され、山のたたずまいが異なっているのが分かる。烏帽子(2627m)へのなだらかなルートが安心感を与えてくれる。
烏帽子四十八池は美しい。猿の群れが悠々と我々のわきを歩く。ハイマツの実を食べるのだろう、齧ったマツボックリがいくつも落ちている。にせ烏帽子のトラバースルートに雪田あり。思う存分喉を潤し、カップに詰めてすすりながら、12:50烏帽子天場に到着。今回の山行最後の目的地だ。ここに水場はなく、小屋で買うしかない。
午后の陽射しを避けナナカマドの下に寝ころべば、寒くなるほどの澄んだ大気。22年前を思いつつ三つ岳とその先野口五郎岳をスケッチする。他に外人2人と日本人1人のパーテイが幕営したが、我々より下の方に張ったため静かな最終日となった。明日の体力への心配もなく、ゆっくりと憩う。夕食のラーメンもうまかった。

1990.8.21
トイレに行った息子は朝焼けの雲と松本の灯に感動して戻る。5:06下界へ向けて出発する。ブナ立て尾根を前半熊高山岳部ペースで走り下る。2208三角点を5:38に通過。下りに下って濁沢に6:50到着。水場の水のうまかったこと。心おきなく飲み身体も拭いて出発。新しいダムのため20年前を思い出させるもの皆無。山よさよなら。七倉に着くと10分前にバスが出たばかりだ。4時間待つ間に温泉に入り、昼食を注文する。いい山行だった。
篠ノ井から妻にTEL。「毎日山の天気の欄を見ていた。」との返事。待つ人がいるのは幸せだ。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: