1969.01.18-20 谷川連峰高倉山・湯蔵山 高体連登山部講習会

1969.01.18.-19
熊谷高校合宿所04:30ー熊谷駅05:05/20=土合駅07:40/08:25ー高倉尾根取付点08:45/09:05-高倉山頂直下(幕営)13:30
埼玉県高体連登山部は県下の高校登山部を対象に、積雪期登山講習会を実施した。各校5名だったと記憶する。熊谷高校に集合して夕食後合宿所に宿泊。翌朝駅までの2.2kmを歩いた。私が先導した。
 
土合から高倉山へは登山道はない。雪の上を歩く。尾根道を行くのかと思ったら谷に入った。幅の広い谷で、凸レンズの底を行くようなことになり猛烈に暑い。長い列になるのでラッセルのチャンスもなく、むしろ夏の登山道より歩きやすい。これで雪山登山の講習になるのかと思うほどだ。途中から尾根に出て、頂上手前の開けた場所に幕営する。雪洞を作る訓練をして生徒たちはそこに泊まる。スケッチはここから見た天神尾根と谷川岳である。

1969.01.20
幕営地07:00-高倉山ー湯蔵山08:10/20ーホワイトバレースキー場上09:15/45ースキー場下11:25ー水上駅12:05/13:26=熊谷駅
湯蔵山からの下りは前の人のトレースを避けてめいめいのルートを勝手に下る。南斜面だが雪が深くワカンの足が膝まで沈んだ。

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2022.04.29 山岳部顧問講習会などのこと

埼玉県の高校の体育部は高校体育部連盟(通称高体連)を作っていて、その中に山岳部がある。各高校の山岳部・登山部・ワンゲル等が加盟している。その顧問が自分たちの力量を上げようということで、年に1・2回顧問講習会を開催していた。指導者はその顧問たちのなかの最古参の5・6名だった。最古参とは言うけれどまだ現役で、顧問講習会でも、雪山でスキーをつけて先頭に立ってラッセルをしていくような体力の持ち主でもあった。多分この方たちが埼玉県高体連山岳部を立ち上げたのではなかったかと今になって思う。私の高校時代にすでに山岳部の顧問となっていた吉川氏はこの指導者と同世代だったので、指導者のひとりになっていた。私が勝手に山の師匠と呼んでいる町田瑞穂氏も同じ世代だった。氏がもし埼玉県の高校教師になっていたら、この人たちの仲間になっていたのではないかと想像するのは楽しいことだ。
私はそれまで山が好きだと言っていても、技術的なことを学んだことはなかった。熊谷高校で山岳部の顧問となったことで顧問講習会に参加したことが、私の山に対する思いを大きく広げてくれた。もちろん技術的なことの広がりもあったが、その広がりがそのまま山への思いを育ててくれるものだった。
その講習会の中で印象に残るいくつかをここに残しておきたい。

1.冬の富士山雪上訓練
熊谷高校に転勤してきた年の冬、山岳部顧問の先輩吉川氏から富士山の雪上訓練に行こうと誘われた。12月だったと記憶している。五合目の佐藤小屋に泊まって2泊3日でしごかれた。雪上訓練とは言うが、厳冬期の富士の雪は私の抱いていた雪のイメージとは全く異なり、エビのしっぽが上を向いて凍り付いているという感じなのだ。その斜面でピッケルを抱えて滑落停止の訓練をする。背中を丸め、氷にアイゼンがひっかかってもういっぽうの足を傷つけないように両足を上げて、次の瞬間身体を反転させピッケルを氷の面に打ち込む。2回ほどはなんとか無事なのだが、3回目には厚手のヤッケやオーバーズボンも背中や尻がボロボロに穴が開いてしまう。帰宅して風呂に入ろうとして驚いた。背中があざだらけだった。突風が襲った時の三点支持や氷の斜面の登り下りもアイゼンとピッケルへの信頼感を育ててくれた。
後年、一人で雪山を逍遥することができたのはこの時の訓練があったからだ。まだあの時のように厳しくないという思いが何度も私を支えてくれた。
3日目訓練の全過程が終わって15名ほどの全員が佐藤小屋に降りてきて、周囲の山を眺めていた。その時リーダーの一人吉川氏が「ピークハンターの〇〇君にあの南アルプスの山を紹介してもらいましょう。」と提案した。〇〇君は照れながらも北岳から順に光⁽てかり)岳までよどみなく名を挙げていった。我々が感嘆の声を上げたのは言うまでもない。私の心には特に聖岳の白く輝く姿がいつまでも消えなかった。2年後熊高山岳部は南アルプスの縦走を挙行することとなる。

2.厳冬期の吾妻・安達太良スキーツアー  1969.2.9-11
〃  安達太良スキーツアー  1971.2.22‐24
〃  那須スキーツアー  1973.2.22‐24
安達太良、吾妻・一切経、を吹き抜ける季節風はすさまじい。吾妻連峰の家形山から五色沼を経て一切経の鞍部から樋沼畔に抜けたときなど、鎌沼から先は両手を横に広げて風を受けるだけでスキーはすいすいとシュカブラを切りながら進んだ。次第に暮れていく山で、道も見えない中を進む我々が一人の迷子も出さなかったのはさすがだったと思う。
この3回のスキーツアーは夜の交流会が何としても印象に残った。宿の人が作ったのだろうか、濁り酒(どぶろく)を飲み交わしながら、次第に議論が熱してくるのだ。リーダーたちは山仲間ではありながら(仲良し仲間でありながら)ぎりぎりのところで自分の主義主張の譲れないところをぶつけ合うのだった。ここで山を愛する人たちは権力と戦う強靭な姿勢を持っている人が多いことを知った。
最後には、権力側に入ろうとする人が論詰されて泣き出してしまうところまで行った。自分の行動に自分が責任を持たなければならない山への対し方の厳しさが現れたような風景ではあった。

3.先輩顧問のこと
私が熊谷高校に転勤して山岳部の顧問となった年、全国高校総合体育大会が埼玉県で開催された。各校登山部の顧問も総動員させられたようだったが、私が赴任した時にはすっかり準備が終わっていたので私は何のかかわりも持たないで済んでしまった。ただ同じ国語科の先輩に山岳部の顧問がおられて、奥秩父縦走コースを担当されていた。彼は山を歩く生徒たちに1位2位と順位をつけることに抵抗を感じて随分悩んでおられた。私も同じことを考えていたので全く共感してしまった。タイムレースにしてしまったら、子どもたちを危険に追いやってしまう。地形的に十分慎重に歩かなければいけないところもあるし、シャリバテにならぬようエネルギーはしっかり補給しなければいけない。山は順位付けとは相容れない世界だ。
私はこの先輩から山に関して以上に多くのことを教えていただいた。名を小山光善という。もう鬼籍に入ってしまわれた。「私など突き詰めていけばアナーキズムに行かざるを得ないと思うんです。」というのが忘れられない言葉だった
写真は小山氏と一緒に山岳部春山合宿で巻機山頂上まで1時間の白地平に幕営した時のもの。風よけのブロックを切り出して積んでいるところである。右端が私。小山氏が撮影。

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1971.08.09-13 飯豊山横断

私の中に存在する山への憧れは、新しい世界に目を向け始めてきていた。もちろん北アルプス、南アルプス、八ヶ岳、上信越の山々、それらかつて訪れた山々への愛着が消えるわけではない。ただ、日本にまだ私の知らない世界があるということ、それへの憧れは、これまでの山々への愛着と並んで強まってきたのだ。とくに私の中では民俗学や文学で身近な世界となっている東北の山々が親しさを感じさせて、地図を見ながら候補となる山々を選び出すこととなった。啄木や宮沢賢治と岩手山、柳田国男と早池峰山、斎藤茂吉と吾妻山、光太郎・智恵子と安達太良山や磐梯山、芭蕉と鳥海山、そう挙げていくといくらでも出てきて、私の生きているうちに果たして登り切れるだろうかと焦るほどだ。そういう文学的な関心と離れて、山自体の魅力をもって眼を引いたのが、日本海側の朝日山地、飯豊山地だ。山域自体が大きい。その大きな山塊に懐かれて見たい、私の中にその憧れが大きくなっていった。そして最初に選んだのが飯豊山塊だった。ここでも決め手は『日本百名山』だった。
  大きな残雪と豊かなお花畑、尾根は広々として高原を逍遥するように樂しく、小さな池が幾つも散在して気持のいい幕営地に事欠かない。
 こう紹介されればもう抗えない。ただいきなりこの大山塊を一度でつかもうなどと考えるのは不遜だ。今回は最短ルートで核心部を横切ってみようと思った。幸い五万分の一の集成図で「飯豊連峰大地図」というのが手に入った。普通の五万図を4枚合わせた以上の大きさだ。新発田からから赤谷線で飯豊川を遡り、オーインノ尾根という不思議な名の尾根を辿り北股岳にアタック、イシコロビ雪渓を下って米坂線の小国へ出るコースだ。東北の山という新しい世界への期待が膨らむ。

1971.08.09-10
本庄22:56=高崎=新津=新発田05:25~46=東赤谷06:25-湯の平温泉16:10(幕営)
荷が重い。35㎏はあるか。高崎駅で着席券が手に入った。安堵して葡萄を食べる。夜汽車は昨年の平ヶ岳以来だ。計3時間くらい眠る。東赤谷駅より1時間歩いてジープに乗せてもらうことができた。ダム工事の発破作業の場所を走り抜けて下される。真夏の陽が暑い。沢が幾つもある。その都度飲んで岩の上で休みながら歩く。運動不足でなまった足の筋肉がすでに痛み始める。飯豊ダムを過ぎるころ飯豊の稜線が遙かに霞んで見えた。北股沢へ急降下、そして急登。そこからが長かった。重い足を引きずってやっと湯の平温泉に着く。幕営準備に入る。夕食後露天風呂へ。夕立となり、ガスが押し寄せる中身体を伸ばして疲れを取ろうとしたが、稲光と同時の雷鳴で湯の表面が搖れる感じ。初めての体験だ。早々に退散する。

1971.08.11
湯の平温泉06:30-寅清水13:00(幕営)
下山する学生たちはすでに4時半ころ出発していったという。温泉宿の裏からいきなり急登。一気に300m上がる。下に大きく山襞を削って飯豊川が光る。連続した登り。10時半昼食。途端に歩が鈍る。寅清水でダウン。今日はここまで。明日歩こう。冷たい水がうまい。

1971.08.12
寅清水06:05-洗濯平09:40-十文字鞍部・梅花皮(かいらぎ)小屋10:15~12:10-いしころび雪渓13:20~15:00-地竹平17:00(幕営)
歩き始めてすぐに雨となる。キスゲの黄橙色が鮮やかで目を醒まさせてくれる。やがて深い笹の登山道となる。かき分けながらどこまでこれが続くかと思うほど。今日の予定が歩き通せるかと不安になる。ガスが周囲に立ちこめ、所々に見える高山植物の美しい色がかすむ。やがて雪渓が現れ、そこを上がれば思いがけず洗濯平に飛び出した。雨の中、テントが一つ。停滞中なのであろう、羨ましい。オーウインの峰を上がり、下ったところに、ガスの中にカイラギ小屋が現れた。しっかりした小屋だ。この雨では北股岳は諦めざるを得ない。ゆっくりと昼食の時間を取る。
 12:10ガスに包まれて下山開始。一瞬ガスが吹き払われて、眼下に雪渓の白さが美しく広がり、彼方に消えていくのが見えた。これからあれを下る。いざ着いてみると、ガスで周囲の見えぬ雪渓は不気味だった。登ってくる人に出会う。懷かしさに思わず声をかける。雪渓の取りつきの下で子熊を見たという。沢を渡ろうとして流れに出ている岩に飛び乗ったがつるッと滑って流れに落ちてしまい、慌てて這い上がったという。可愛かったというが、子熊がいるということは近くに母熊がいるということだ。注意しよう。カメラのシャッターを押してもらう。この山行唯一の写真となった。やがて雪渓が終わり、地竹平で幕営。雨の音を聞きつつ眠る。

1971.08.13
地竹平07:05-温身平08:00~20-飯豊山荘08:45~09:25-長者原口11:10~30=小国12:35~13:27=坂町14:21~30=新津15:40~17:08=高崎20:15~36=本庄21:01
白い雨の中撤収、いよいよ帰路へ。林の中を切り開いた素敵な道だ。雨も上がって、心急かぬ旅ならゆっくりと逍遥したいところ。飯豊山荘でのミルクとパンの朝食は美味かった。ここからの車道が長い。やけになって歩く。2時間後長者原に到着。バスの中で昨日の人に出会った。

[補遺ー冥界]
この山行について、もう一つ忘れがたい情景が残っている。 山からの帰り、上越線に乗ったのはもう午後の陽も傾くころで、越後湯沢に近づく辺り、ぼんやりと車窓から景色を追っていた私は、線路際の杉木立の下に在る墓地に灯るろうそくの火を見た。旧盆の迎え火或いは送り火なのだろうか。両側の山々の尾根の辺りはまだ光が残っていたが、墓石ごとにろうそくの灯るその一画は夕闇が濃く、その上だれもいない。ひとり燃え続けているろうそくのおびただしい数の火は、村はずれから村人たちを見守る死者の魂だったのだろうか。鄙びた土地の鄙びた風習が山行の終わりの何か物悲しい気持ちにぴったりだった。何年も経つがその火は私の中でまだ灯り続けている。

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1995.11.11 裏妙義・谷急山

私を山に向かわせたのは、路地を挟んだ向かいに住むM氏だった。本庄高校の山岳部を創ったのはM氏だったのではないか。私が高校1年生で心臓疾患を患い、ずっと天井を見て過ごしていたころ、よく来てくれて山の話などをしてくれた。その中でよく出てきたのが妙義山だった。ある日は、「今日妙義山に行ってきた。朝起きたら急に行きたくなって、おふくろに行っても慌てるだろうからせんべい一袋と水だけ持って行ってきた。」と言ってびっくりさせたこともある。山とは十分な準備をしていく必要があるというのが氏の態度だったから。自分の庭のような親しさだったのだろう。高卒後浪人中の氏は東北の山に籠って勉強をしたようで、そこへ行く姿を
 ドラ息子蝸牛(かたつむり)ほど荷を背負い
などというおどけた句を葉書に書いて屆けてくれたこともあった。
そんな氏の影響で、私は妙義山に愛着をもつようになった。表妙義、裏妙義を登った中で一番強く残っているのが表妙義の尾根を踏破する縦走コースだった。始めは白雲岳の大の字までだったが、何度目か、そこから引き返すのが残念で、相馬岳へ進んだ。両側が切り立った断崖で、尾根伝いにしか進めない。岩の凹凸にしがみつくように攀じ登って進んだ。金銅山まで来て巻道も出てきた。石門や大砲岩まで来てやっと安心したことを覚えている。
結婚して妻を誘ったこともあった。かつての難所には鎖がついていてなんとかのぼれたが、相馬と金洞のコルに4・5名の若者が力尽きたように寝そべっていて、「もうすぐですよね。」という。まだなかなかですよと言うと、慌てたように「一緒に連れていってください。」という。彼らの足取りが重く、次第に夕暮が近くなり、轟岩の下まで来た時はもう真っ暗になっていた。とうにバスはなく、タクシーを呼んで、一台に重なり合って下仁田まで出た。そんな経験もした。のちにこのコースは上級コースだという表示がなされた。妻はよく頑張ったと思う。というより少々無謀だったかもしれない。

1995.11.11 裏妙義・谷急山
本庄07:15=三方境登山口08:30~45-三方境10:00~10-谷急山11:35~12:45-中木沢分岐点14:00~10-林道15:00-登山口15:30~45=おぎのや16:00~30-本庄17:30

私が本庄北高校に赴任した時は52歳になっていた。エネルギーを持て余していたようなグループに「登山愛好会を作らないか。」と誘ったところ本気になって応じてくれて、5名で立ち上げた。若い同僚が一緒に顧問となってくれた。その最初の山行に裏妙義を選んだ。丁須の頭についた時、彼等は切り落ちている崖に近附けず、丁須の根元に張り付いて動かなかったことを懐かしく思い出す。その後どうしても入部させてくれという女子が3名加わってにぎやかになった。
私が退職するとき最後に選んだのも裏妙義だった。あれだけ何度も訪れながら、私は谷急山を残していた。今回はその記録を残そう。うえの写真は谷急山への途中見た絶景だ。巨大な岩山を巨大な斧でスパッと断ち割ったような割れ目から表妙義の一部が見えた。すさまじい光景だった。2枚目は頂上から見た表妙義、本庄から見る妙義の裏側だ。振り返ると雪をかぶった浅間山が光っていた。

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2000.10.21-22 大源太

谷川岳から北へ一ノ倉岳、茂倉岳,東へ折れて武能岳、蓬峠と辿って南へ湯檜曽川を下るコースは私の好きなものの一つだ。土樽から蓬峠へ出て、谷川岳へというのもいい。50年前家族4人でそのコースをとったことがある。朝の武能への登りで笹原を分けてズボンを朝露でびっしょりにした。茂倉から一ノ倉への鞍部で、頭の上まで出るほどの荷を背負ったスーパー老人と出會った。小学生の少年が可愛らしくてと、先方から声をかけてきた。年を聞いたら82歳という。この歳になるとどこへテントを張っても、変な爺さんがいると誰も文句を言わないとも。妻は同じ年ごろで死んだ父親を思い出したらしく涙ぐんでいる。写真を撮らせてくれと、少年二人をカメラに収めて去って行った。口ぶりからどこかの山岳会の大物であろうと思われた。
その蓬峠から先七つ小屋山、清水峠、朝日岳、笠ケ岳、白髪門と、湯檜曽川をぐるっと回って土合に出るコースを馬蹄形というらしい。
蓬峠からすぐ北に非常にユニークな山容をした山がある。ピラミッドのようでもっと鋭く尖っている。調べてみると大源太といって、上州のマッターホルンとよばれているという。たまらなく行ってみたくなった。いつもの山仲間に声をかけて3人で出かけることとした。

2000.10.21
本庄13:10=湯沢IC14:40=旭原林道終点15:00(幕営)
日帰りで行けるコースらしいが、もう急ぐ山旅はしたくない。のんびり行こうと登山口にテントを張った。ビールと日本酒で久闊を敘した。山仲間はいい。

2000.10.22
天場7:00-大源太山頂10:30~50-七つ小屋山12:10-シシゴヤ分岐12:40~13:40—シシゴヤの頭14:50~15:00-旭原16:40=本庄19:30
大源太川にそって緩やかな道を登っていく。渡渉地点を過ぎる所から道が急となり、頂上に近づくほど急登となる。全山紅葉の真っ盛りでうれしい登りだ。10時30分1597mの山頂に到着。狭いが平らな頂だ。謙信尾根を越えて、巻機山から朝日岳に伸びる稜線上の柄沢山の突起が見える。何人もいた人影は旭原に下りていく。残ったのはわれわれともう一人だけ。
そのもう一人は眼下の絶壁のような下りを見て臆したようで、「私はここから戻ります。」と言って帰ってしまった。慎重に三点確保で100mほどを下った。そこから先はなだらかな稜線で一面の草紅葉。他に誰もいない我々だけの世界がうれしく、やがて池塘も現れるとますます先へ進むのが勿體なくなる。それでもやがて馬蹄形に合流して七つ小屋山(1676m)に到着。眼下の湯檜曽の谷のガスに向かって紅葉の絨毯が落ち込んでいく。この先1567地点でまた馬蹄形からはなれてシシゴヤの頭までのんびりと下る。ここから九十九折れの急降下となり、朝の道に合流。16時40分登山口の車に到着して無事を祝った。いい山だった。

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