佐藤春夫の詩に「望郷五月歌」というのがある。
塵まみれなる街路樹に
あはれなる五月来にけり
石畳都大路を歩みつつ
恋ひしきやなぞ我がふるさと
という句で始まり、故郷の紀伊の国の山と海を懐かしく歌っていく。私も学生時代、望郷の思いに胸を灼いたときに、この詩を共感を持って口ずさんだこと思い出す。
いま故郷にいる私が五月に心のふるさととして思い浮かべるのは、60年近い昔に訪れた浅間山の姿だ。浅間山の姿というより、浅間山にいだかれた二十台の私の姿と心といった方が適切かもしれない。
その日、浅間山の頂上に立った私は、初めて大きな噴火口のふちを回ってみたくなった。噴火口はもう30年も前から火口いっぱいに煙が噴き出しているが、その頃は火口底まではっきり見えて、何箇所かから白い煙(蒸気)を噴き出している程度だった。風下に回り込んでも亜硫酸ガスの臭いはせず、青空の下、五月の爽やかな風に吹かれて、心地よい逍遥コースだった。半分ほど回って、嬬恋村の真上まで来たとき、眼下に溶岩流の跡が火口の縁からずっと麓の方まで続いているのが見えるところまで来た。はるかその先に鬼押し出し園が確認できた。雄大な景を見下ろしながら、私はその場から動けなくなり、双眼鏡でずっと状況を確認していった。なんとか行けそうだと判断した時、私の頭に浮かんだのは、梶井基次郎の『檸檬』だった。レモンを書店の書棚に置いて「出て行こうかなあ、そうだ出て行こう」と主人公が決断した部分だ。下りて行こうかなあ、そうだ下りて行こう、そう決断した時の私を私はその後何度も快哉をもって思い返したものだ。
下り始めてすぐに溶岩流の岩が、登山道のざくざくの砂利と全く違っていることを知った。鉄が溶けて固まったような真っ黒な岩の表面は、細かい気泡のような穴が無数に空いていて、まるで鑢(やすり)のようだった。岩の塊をよけたり、塊から塊へ飛んだりしながらくだるのだが、ルート以外の場所を下るという、一種の不安と喜びとに心が震えていた。万一怪我でもし、遭難でもしたら笑われるだけだという緊張感もあった。
その緊張がほぐれたのは、半分以上下って傾斜が緩やかになってきたあたりで見つけた山独活のおかげだった。まだ山菜などというものを知る前の私は、それが食べられるものということも知らず、それでも何か気になって、ナイフで切り取って手に持ったまま歩いた。溶岩流の中で生命のあるものへの愛着があったのだろうか。最後の急傾斜を下り、ようやく鬼押し出しに着いたとき、そこで何か作業をしていた男たちの一人が「あ今日は一杯だね。」と笑いかけてきた。それほど立派な独活だった。根本は直径4㎝もあったろうか。男たちがそれ以上何も聞かなかったのは、まさか頂上から降りてきたなどと思いもしなかったからであろう。入場券などの確認もされなかったのは、まだおおらかな時代だったということだろうか。
ともあれ、無事に下山できた。私の心は喜びに膨らみ、充実感をもって来たルートを振り返った。真っ青な五月の空の下に、延々と頂上までつながり延びている溶岩流が逆光のせいで黒々と見えたのを覚えている。
ところで、この充実感には、思いがけない代償もあった。私の登山靴が、気が付いてみると皮の表面がぼろぼろになっていたのだ。鑢の岩を用心深く下ったつもりが、やはり引っかかったり、つま先が岩にはまり込んだりしたのだろう。この靴は記念としてしばらく保存しておいたものだ。
私の青春の一ページは、こうして五月という季節と一緒に、私の心に色あせることなく残ることとなった。
そして恥ずかしながら、この溶岩流から生まれた火砕流が、麓の鎌原地区を壊滅させたこと、利根川に流れ込んだ死体が何百と流れ着いた伊勢崎で供養をしたこと、本庄でも成身院百体観音堂がその際の犠牲者の供養のために建立されたことなどはその後知ったことだった。鎌原観音堂の階段の手前まで逃げてきた村人たちが、この火砕流に吞まれて命を落としたと知って身のすくむ思いがしたことも思い出す。