富士山に登りました

 天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと⁾き 駿河なる
 布士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も
 見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 
 不尽の高嶺は
      反歌
 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける

高校時代教科書にあって、スケールの大きな歌だなあと暗誦したものだ。今見ると、「わたる日の影も隠らひ 照月の光も見えず」というのは北側から見た光景だろう、でも反歌で「田子の浦ゆうち出でて見れば」とあって南から富士を仰いでいる。どういうことだろう、などと理屈をつけたくなってしまう。歳を重ねるということは不幸だ。
富士山について「一度も登らぬバカ、二度登るバカ」と聞いたことがある。息子たちのために一度登ろうかと考えて出かけた。

1987.08.23
本庄08:45=(関越自動車道)=練馬IC09:50=調布IC=(中央高速)=河口湖13:00/14:00=(スバルライン)=新5合目15:00ー登山道分岐15:40ー鳥居山荘17:15(泊)
予想通りたくさんの人が頂上を目指して広い登山道を登っていく。周囲は赤茶けた砂・礫だ。オンタデだけが元気に株を作っている。

1987.08.24
鳥居山荘04:30ー雲海の上にご来光05:07ー県境小屋-頂上09:40ー須走口ー六合目ー新5合目=河口湖(夕食)

雲海はいつ見てもそのスケールに圧倒される。その上に姿を現す太陽も忘れ難い。頂上で真冬に立った新田次郎を思い浮かべた。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2009.09.20 浅間トラバースの記録

山を思うということ
山の子の/山を思ふがごとくにも/悲しきときは君を思へり
昔好きだった啄木の歌だ。いや、今も好きなのだが、その意味が違ってきている。昔は歌の後半が好きだったのだが、今は前半が気になるのだ。「山を思ふ」という表現がなんともいいなあと思う。
ヨーロッパ人が山を登山の対象ととらえて、アルプスに登り始めたのは19世紀からだといわれるようだが、それは山を征服するという姿勢だったと思う。ザイルとピッケルは、人間の前に立ちはだかる自然を人間が屈服させるための道具だった。ヨーロッパ人の中ではイギリス人が主導的だったと聞く。
これは山についてのみいえることではない。川があれば堅固な石の橋を渡して障害を克服してしまう。水がなければ、何世紀にもわたって崩れない石の水道を築いて水を引いてくる。自然は人間が征服していくべき対象で、自然は人間に奉仕すべきものという認識がその根底にある。そしてその認識が自然科学を発展させ、文明を発展させてきた。現在はその結果として人間のみならず人間以外の生物までを存続の危機に追いやっている。
だからと言ってこの西洋的自然観を今すぐ否定するというのも簡単ではない。Co₂削減の努力が原発推進になっていいかという問題一つとってもむずかしい。
でも、すくなくともこと山に関してはこの西洋的自然観にはどうしてもなじめないのだ。山を歩きながら感じる山との一体感、山に抱かれているという感覚、これは人間と対峙するもの、人間が征服すべきものという感覚からは遠く離れたものだ。これは日本の山とヨーロッパの山との違いから生まれるのだろうか。いつだったかカナデイアンロッキーの石灰岩の屹立する岩峰を見たとき、ああこれは人間が抱かれる山ではないなと妙に納得してしまったことを思い出す。そして、北アルプスの針ノ木峠から眺めた緑の山並みを懐かしく心に浮かべたことも。

先日仕事の合間を縫ってようやく山に出かけることができた。雪山の裾でフキノトウを摘み、残雪の斜面をキックステップで登り、この場所でいつかカモシカが目の前に飛び出してピューピューなきながら尾根に走りあがって消えていったっけと回想にふけり、それはそのまま至福の時間だった。
そういう体験が心の中に積もって行って、山を恋うこころとなって、山という言葉を出すたび、何か切ない気持ちになってしまうのだ。「山の子」が恋しく思う山、そんな山を私も持っているといえるのはなんとも楽しいことだ。それを記してみよう。

浅間トラバースの記録
2009.09.20
本庄7:10=追分登山口08:00~10ー1300m林道09:05~15ー石尊山稜線10:20~40ー一杯水12:00ー植生限界12:40ー弥陀ケ城谷上部14:40~15:00-登山口16:55

このシルバーウイークは、私にとって記念すべき休日となった。20年来の夢が実現できたのだ。
浅間山(2568m)の南面は2100mくらいが森林限界となっている。そこまでは中腹から松や落葉松が落葉樹に混じってうっそうとした森を作り、その上にシラビソがびっしりと斜面を埋めていて、登山道以外になかなか踏み込めない。その上に50~100mほどの草の帯が斜面を飾っている。その上は赤茶色の地肌が頂上までを覆っている。その植生の上縁を西から東へ辿ってみたい、具体的には天狗の露地の上部から弥陀が城岩の谷までをと、浅間を訪れて仰ぐたび、私の中に憧れのようなものが大きくなってきていた。以来20年以上も温めてきた夢となっていた。
今年、その夢が実現したのは、中腹にある石尊山の山頂で出会ったパトロールのおやじさんとの話がきっかけだった。浅間の大きな姿を前にしていろいろな話をして、その末に私の夢を語ると、彼は「私は歩いた。下界が青味がかって見えて美しかった。」というのだ。夢がにわかに現実味を帯びてきた。天狗の露地に幕営すれば余裕をもってたどれるだろうと考えたのだが、このシルバーウイークに我慢できずに日帰りの予定で飛び出した。憧れの場所に早く立ってみたいという思いがわたしを突き動かしたのだが、同時に、来年になると体力的に今年より厳しくなるだろうという焦りもあったようだ。

石尊山への稜線へ出て石尊山を左に見送り、右にルートをたどる。ここから先は人があまり入らないので登山道はカヤトが覆っている。例によって熊対策としてピッケルを両手に抱え、大き目のカウベルを鳴らしながら進む。
一杯水に着いたのがちょうど12:00。前に聞いたように、水は枯れていて10m左手に新たな水源ができていた。雨が降らないせいであろうか、水はほんの少し滴り落ちているだけ。図ってみると10滴落ちるのに13秒かかる。これではとても幕営には使えない。昔の湧水を思い浮かべながら天狗の露地にのぼった。

ここから登山ルートを離れてびっしりと生えているシラビソの樹林帯に分け入る。身体で枝を押し分けて進むこと40分、ようやく森林限界に達した。ここから草の植生が始まると予想していたのだが、コケモモと浅間ブドウ、ガンコウランなどに出迎えられてびっくり。これらは丈は草のように見えながら年輪を持った樹木なのだ。斜面は縦・横・高さともに20㎝ほどの礫に覆いつくされている。考えてみれば、こんな場所に草が生育できるはずがない。気が付くと、今まで見たこともない大きなコケモモがあたり一帯真っ赤に輝いている。浅間ブドウもいっぱいだ。これからたどるルートへの不安がありながら、そのコケモモと浅間ブドウを摘まずにはいられない。浅間ブドウの甘さもいいが、なんといってもコケモモの甘酸っぱさの美味しさは抜群だ。写真は植生限界のコケモモである。
ゆっくりしたいと思いながら初めてのルートは先に何があるかわからない。早々に出発する。
歩き始めてすぐに、これはとんでもないところに来てしまったということが分かった。一歩踏み出すたびに、岩屑に足を取られ、バランスを失ってしまう。これではこの先どれくらい時間がかかるかと、まず初めに私は不安と緊張でいっぱいになった。視界の下の方に石尊山に続く稜線が見えて、その方向へ逃げたくなる気持ちを抑えて懸命に前へ前へと進んだ。しばらくして少し余裕が出て来たのだろう。あたりを見渡してみた。剣ヶ峰それに続く牙(ギッパ)と黒斑の断崖との間に、遠く槍・穂高が大キレットを挟んでくっきりとその雄姿を見せ、南には八ヶ岳と奥秩父の山々が横たわり、金峰の五丈岩も識別される。そしてその上にのしかかるように富士山が。目の下には、浅間の樹林帯が気の遠くなるほどの広さで広がり、その先に軽井沢の町が光っている。後ろを振り向くと前掛山が頭上に迫り、真っ青な空をバックに噴煙が白く流れていく。腰を下ろしてこの絶景を味わいながら一息入れたいという誘惑に駆られながらも、先への不安から立ち止まる程度で我慢することにする。浅間山というのはこの岩屑(屑というには大きいのだが)が途方もない厚さで積み重なった山なのかと、半分呆れながら、足元から下に崩れ落ちていくかけらを目で追いつつ歩き続けた。

登山道から別れてちょうど2時間後、ようやく弥陀が城岩の断崖を谷を隔てた向こう側に目にする地点に到達した。谷底がはるか下に見える。あそこまで下らなければならない。トラバースルートでさえ一歩ごとに足を取られた斜面を、今度は下るのだ。がらがらの岩のかけらにくるぶしまで靴をめり込ませながらの下りに、登山靴は傷だらけになってきている。つい植生を踏みながら下ることになってしまう。その植生とはガンコウラン。足を取られて尻もちをつく度に黒い実を口に入れた。甘いけれど甘すぎず、さっぱりとした味の木の実だ。ツキノワグマの食料を横取りしているようで、ごめんねを胸の内に呟きながら下った。やっと谷底に着く手前で、足を取られまた尻もちをついたときは、もう動けなくなっていた。14:20から15:00まで目の前の断崖の岩壁を見上げながらゆっくりと息をついだ。

ただ、ここまで来ればもう安心だ。これまで何度も訪れた谷底があと50m下なのだから。慎重に下って岩壁の下にたどり着いてまた一息つく。写真も撮った。
さて後はなれた谷底の道と思って出発したのもつかの間。谷底に下りきって山腹を下り始めてまた途方に暮れるような事態に直面することになった。たぶん春の雪解け水が伏流水となって流れ下ったのだろう。下る先々で地面が1mから2mも陥没しているのだ。これまでこんなに荒れていたことはない。その都度斜面をよじ登って高巻きせざるを得ない。それでもやっと登山道に出ることができた。これで助かったという思いで荷を下ろし、なにはともあれビールを飲む。なんとも言えない美味しさだ。ついでガスカートリッジで湯を沸かし、コーヒーを入れる。これもここでしか味わえない味。終わったなという思いで空を見上げると、青空にいつかのようにトビがゆっくりと舞っている。
この時の思い、それは安堵の気持ちと、目指したことを成し遂げたという充実感との混じり合った大きな感情だった。30分も空を眺めていたろうか。その思いに満たされてくだった。下りながら今度はチョウセンゴミシをいっぱい摘むことができて、山行の終わりを飾ってくれた。

今の私の心は、一種の虚脱状態だ。長年の夢がかなったという思いはある。と同時にその夢がなくなってしまうと、次に何を目指したらいいのか、夢を持っているときの方が幸福だったのではないかという、一種の悔恨にも似た思いに、人間の心って勝手だなあと思っている。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

懐かしの飯盛山


私の父は1985年2月に亡くなった。昆虫採集が趣味で、晩年には本庄西幼稚園の園長室を昆虫標本室に変えて、蝶・蛾・トンボ・蝉・甲虫の標本箱をいっぱいに展示していた。園児たちにはいい教材となった。私は遺品としてその何十個もあるガラス窓の箱を受け継ぎ、はじめのうちはナフタリンの交換などを行っていたが、ついにはギブアップしてしまい、一度怠ると標本はあっというまに虫に食われて消えていった。
その父と私の家族で、何度か山へ蝶をとりにいった。父にとって採集の山は北海道から沖縄まで数えきれないほどであったが、飯盛山はそのうちの一つであった。登りはじめに長男がクジャクチョウを網ですくった。めずらしい蝶だったのだろう。父は有頂天になって、「でかした。おおでかしだ。」と喜んだ。息子はそんな価値あるものと分からず、クワガタに夢中になっていた。遠い昔のこととなった。
この日、飯盛り頂上を前にしたコルには、ジャージー種の牛がいっぱい寝ころんでいた。その後見かけたことはない。あれはいったい何だったのだろう。

このスケッチは私が体調を崩して、回復したことを確かめるため恐る恐る出かけた飯盛山で描いたものだった。以来、中学のクラス会を案内したり、深雪の中をスキーで訪れたり、妻と散歩がてら訪れたりと、数えると10回を越える。下山後立ち寄ることもあった野辺山のプラネタリウムも懐かしい。
私は登山口の獅子岩が好きなのだが、頂上からの眺めも素晴らしい。南には茅ケ岳、富士、鳳凰とくに地蔵のオベリスク、北岳に始まる南アルプス、甲斐盆地を見下ろして屹立する甲斐駒ヶ岳が迫ってくる。懐かしい山の姿に出会える場所だ。
目を西側に転じるとこのスケッチの八ヶ岳と真正面から向き合える。むしろこの八ヶ岳に会いたくて登ってくるというのが一番大きな目的といっていい。この堂々たる雄姿は、自分がこの山とかかわった回数の多さによって相乗効果的な大きな喜びを与えてくれる。
八ヶ岳については、他のところで書いたが、ここからでないとといえるのがこのスケッチの中央にある県界尾根からの赤岳(2899m)だ。長い尾根で水場もなく、いま登る人は多くない。熊谷高校山岳部の天皇とよばれた吉川敏夫氏がいつだったか「県界尾根には幽霊が出るというよ。登って行って、下りてくる人に『こんにちわ』とあいさつをしてすれ違って振り返るとその人がいないというんですよ」と話したことがある。以来、いつか辿りたい尾根となった。
何年かたって一浪した教え子が「先生と山に行きたい」と申し出てくれたので、いいチャンスということで、小海線野辺山駅(JR標高最高駅)で落ち合い麓にテントを張り、一日がかりで登ったことがある。初めての(?)山にしては気の毒だったかもしれない。幸い幽霊に出会えず頂上に着き、なんともうまいビールを飲んだのだが、最近40年ぶりに出会ったその男は「苦いだけで少しもうまいと思わなかった。」と述懐した。一浪した次の夏にビールの味がわからなかったのは無理もない。その若さに私は改めて羨望を覚えたりした。それでもその日、赤岳を越えて、権現の天場で満天の星空を眺めながら、彼は嬉しそうに星座の話をしゃべり続けた。大学の医学部教授となっているその男に今私がお世話になっている。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1973.03.25-30 桃ノ木に迎えられて下山 春山合宿 奥秩父縦走

奥秩父縦走というとコースが二つに分かれる。ひとつは金峰から甲武信へという東西のコース、もうひとつが雲取から十文字峠までの南北のコースである。前者はさらに甲武信から下山するのに北の十文字峠に向かうコースと雁坂峠に向かうコースとに分かれる。もうひとつ南の雲取三峰山へというコースもある。今回は金峰山から甲武信岳へ、さらに十文字峠へというコースを歩いた。
雪深い奥秩父でコースを誤って稜線からはずれると、胸までのラッセルで登り返さなければならない。ルートファインデイングの正確さが求められる箇所がいくつかある。さらに、瑞牆山にも寄ったので、金峰山まで3日がかりだった。長い山行となった。

1973.03.25
熊谷09:18=新宿=⁽アルプス3号)=韮崎13:37/14:30=増冨15:10/25ー桂平16:10/30ー営林署小屋(泊)
快晴。増冨から入る人は少ない。ゆっくりと進む。

1973.03.26
営林署小屋06:10ー金山峠07:00/15ー富士見小屋08:00/25ー瑞牆山頂09:55/10:25ー富士見小屋(昼食)11:50/12:30ー大日小屋13:25(泊)
今日も快晴。富士見小屋まで雪なし。ここからアイゼン着装。

1973.03.27
大日小屋05:45ー大日岩上06:45/55ー稜線・千代の吹上07:35/55ー金峰山頂08:25/45ーコル09:25/35ー朝日岳⁽昼食)10:05/40ー大弛小屋11:40(泊)

大日岩を下に見て稜線に出る。千代の吹上の名の通り快晴で風が冷たい。大きな岩の上でヤッケを出させて着せる。写真は千代の吹上にて。すぐ後ろに八ヶ岳。蓼科から赤岳まで全部見える。私はタバコを吸っている。生徒には気の毒な事をした。金峰五丈岩の前で20分の休憩。八ヶ岳や鳳凰、南アルプスを指呼するが部員たちはあまり興味を示さず。自分が登った山でなければ愛着が湧かないのであろう。ここまで風が強く雪は飛ばされてあまり積もっていなかった。ここから樹林帯に入るヤッケを脱いで、ワカンを着装する。
朝日岳から見渡す雪の樹林帯は見事だ。山の奥深さを実感する。大弛小屋に午前中に到着。広い林道が雪に覆われたまま横切っている。この先甲武信小屋まで天場がない。ここで幕営する。明日は長い距離を歩く。

1973.03.28
大弛小屋05:50ー北奥千丈分岐06:20(北奥千丈岳ピストン)06:30ー国師ケ岳頂上06:40ーコル07:30/45ー富士見台(昼食)11:10/55ー水師13:30/40ー千曲分岐14:10ー甲武信岳14:50ー甲武信小屋15:05(泊)
大弛峠を出発してすぐに北奥千丈岳への分岐があり、往復する。頂上は2601m、奥秩父最高点だ。
ただなだらかな稜線の先にあり、高さは感じない。とにかく名前がいい。戻って国師へ。思ったより風もなく目の前に富士が大きい。越えると尾根は緩やかに下り、鶏冠尾根から分かれると急降下の道となる。コルからのんびりと登ると樹林帯が切れてポンと岩壁の上に出た。富士見台だ。陽射しが温かくのんびりと昼食をとる。
千曲分岐、懐かしい場所だ。あの湧水はどうなっているか、それを思うと素通りしたくない思いしきり。ここから甲武信への最後の詰め。上州武尊の沖武尊への道を連想させる。山頂から東に延びる稜線が破不・雁坂嶺を越え、笠取・唐松尾・飛龍を越えて雲取へ続いている。途中雁坂峠・雁峠・将監峠などの峠があり、その先には狼平などというすごい名の草地もあって、天場ではないが春山では雪の上に自由に張って泊まったこともある。
今日の甲武信小屋へ。山中さんという、秩父人にとって伝説的な名前の人で有名なところだが、今日の小屋の親父さんは少し若いようだ。ストーブがありがたい。

1973.03.29
甲武信小屋06:55ー甲武信岳07:15/25ー三宝山08:10/20―武信白岩08:37/55ー大山11:05-十文字小屋11:50(泊)
かつて私の家の2階テラスから雁坂嶺・破不・甲武信・三宝・大山・白岩が見えた。その先は両神に隠れてしまっていた。そしてさらに右へ西上州の山々、荒船、妙義、浅間まで。私はこの景を求めてこの地に家を建てた。その後40年たってその山々は全く見えなくなってしまったが、私のスケッチブックに残っている。
この奥秩父の中央の甲武信にとがったピークがあるのだが、高さは隣の三宝の方が14m高い。ただ頂上が丸いので、その感覚はない。樹林帯を進むうち何んとなくという感じで十文字峠に着いてしまった。
十文字小屋の親父さんも話好きなひとだった。部員がシュラフにくるまった後、茶碗酒を前に「高校生は夏休みここへ受験勉強しに来なさい。小屋は自由に使っていい。おれ、山を下りていてやるから。」などと語った。私は、私の山の師匠町田瑞穂氏が夏休み、「どら息子かたつむりほど荷を背負い」という句を残して山にこもったことを思い出しながら聞いた。明日は下山だ。

1973.03.30
十文字小屋07:50-赤沢ピーク12:27/50ー白泰トラバース14:40ー栃本部落15:50/16:00ー二瀬ダム停留所17:10/20=三峰口17:45/18:08=熊谷19:40
今日の行程は長い。ただ栃本部落まですべて尾根を下る道だ。柳田国男「峠に関する二三の考察」にいうパッシブな道、危険を見晴かしながら降る道だ。ワカンをつけながらなので安定感がある雪道だ。右に荒川の最上流真の沢を見、左に中津川の谷を見下ろしながら下る。1里観音と呼ばれる石仏に挨拶しながら飛ばして下る。赤沢のピークに向かって。両神山から奥秩父を眺めたとき、手前に長く横たわっていた山だ。昔下ったとき、全体が白い石と砂の明るい尾根だった記憶があるが、今日は雪の下だ。

下りに下って、最後尾根筋を離れて南斜面に入る。ここでも下りに下って、最後に予期もしない素晴らしい情景に直面した。杉林を出て疎林が終わった途端雪が消えて、ぬかるみの地面となった。そこを下り始めて私の目ガ釘付けになった。正面の泥の原に濃いピンクの花をいっぱいにつけた木が一本立っていたのだ。その木の彼方、斜面を下ったところに栃本の民家が小さく見える。近づいて桃の花だと分かった。雪の世界から人間の住む世界に入った、その象徴となるようなきっかけではないか。私はこれから入っていく世界が陶淵明のいう桃花源のように思えた。「鶏犬相聞こえ」の世界、そんな素敵な世界にこれから戻っていく。長い時間を雪とともに過ごした後のご褒美なのだろうか。待てよ、そう考えるのは雪の世界への侮蔑なのだが・・と、あれこれひとり自分に問いかける私であった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1980.10.04-06 千曲水源に立った山行

奥秩父というと三峯・雲取山くらいしか知らなかった私が、熊谷高校に来て驚いた。熊高山岳部にとって、奥秩父というのは自分たちの山なのだ。もちろん自分たちだけのなどという意味ではない。
例えば秩父農高など我々よりも地元意識は強い。夏休みのアルバイトに、三峰から雲取までのボッカがあるが、熊高生は一日2往復が普通なのだが、秩農高生は3回やると聞いて、たじろいだことがある。あるいは熊谷女子高登山部の部歌に「春浅き秩父嶺に」という言葉が出てくる。奥秩父は埼玉北部の人々の心の故郷なのだろう。
私は熊高山岳部顧問として14年間のうち4回雪の奥秩父縦走をやった。雪の八ヶ岳が同じく4回、鳳凰三山と巻機山が1回ずつである。奥秩父の縦走が最もきつい。鳳凰も縦走だが、距離や雪質が違う。
この記録は春山合宿でなく、その春山のための偵察山行である。積雪期の場合6泊7日かかるところを2泊3日で歩ける。

1980.10.04
熊谷12:27=高崎=小諸=信濃川上17:25/36=梓山18:10-幕営地⁽千曲川水源手前100m)
山への憧れの一つは、大河の水源に立つことだ。これまで利根川の源頭(大水上山)、黒部川源頭(雲の平)に立った。うれしかった。大きな流れのはるか彼方の源頭に思いをはせるというのは一つのロマンチシズムだ。現実を超えた世界への憧れは、ずっと私の心にある。
信濃川は⾧野県では千曲川と呼ばれる。小諸時代の藤村と千曲川は日本のロマンチシズムの源流でもある。その千曲水源が奥秩父甲武信岳直下にあることを知って⾧い間あこがれてきた。ただ、甲武信岳は熊谷の住人やチチビアンにとっては荒川を遡って二瀬ダムの奥、川又から尾根に取り付き、雁坂峠に出て甲武信へというのが一般的だ。もうひとつ、白泰山コースから十文字峠へというコースもあるが、これはあまりに⾧い。普段は下りに使う。この二つはともに埼玉県側からのアプローチだ。ほかに雲取山から縦走してきて甲武信へというコースもあるが、帰るとなると秩父側に降りるのが普通。
そうなると甲武信頂上直下といっても信濃川にある水源へ下ることはなかなかチャンスがない。
そこへ今回春山偵察山行のチャンスが来た。今度の春山は金峰山から甲武信岳・雁坂峠をやろう、そう決めた。春山合宿では国師ケ岳から甲武信ケ岳は稜線上を通ってしまうので、千曲水源に降りる時間がない。千曲水源から入ろう。調べてみると、甲武信へのルートは信濃川上からが一番短く楽に入れる。秩父側からばかり考えるのに慣れていた私にとって新しい発見だった。期待が膨らんだ。
土曜日なので小海線を信濃川上で降りバスで終点の梓山につくともう18時を回っていた。ライトをつけて千曲源頭近くまで歩く。19時半をまわっていた。笹原が広がっているところに来たのでテントを張る。明るければ幕営禁止で張れないところだろう。

1980.10.05
幕営地06:30ー千曲川源頭-甲武信稜線10:50/11:35ー国師岳17:40/18:05ー大弛小屋18:30(幕営)
憧れの千曲源頭は短い草の生えた湿地となっていて感動的な情景が待っていた。草地の中に直径5cmほどの穴が開いていてそこから清冽な水が静かにしかも豊かに湧き出しているのだ。誰も見る者がいなくても水は自分の命を生きている。私は言葉もなく立ち尽くしてしばらく動けなかった。
その日は⾧かった。12時間12時間行動となった。その間私の心は千曲水源の黒い穴から湧き出る清冽な水のイメージに満たされていた。

1980.10.06
大弛小屋幕営地05:30ー朝日岳06:30/40-金峰山07:30/45ー金峰山小屋ー⁽尾根)ー西股沢ー川端下-秋山12:00/13:00=信濃川上14:30=小諸17:40=高崎=本庄19:15
金峰山の五丈岩はなつかしい。遠くの山から眺めたときに手掛かりになるのはこの岩だ。最近見たのは黒斑山の登山口車坂峠だったろうか。双眼鏡が稜線にぽつんとちいさく見える点をとらえたとき、ああ五丈岩だと旧友に会えたような喜びを覚えた。奥秩父は私のふるさとだと再確認した気分。普段浅間や赤城に抱く思いと同じだったのは、熊谷高校山岳部の山だという潜在意識があったからだろうと思う。
ここでもう一つ、柳田国男の「峠に関する二三の考察」に触れておきたい。
柳田国男は峠には一つのパターンがあるという。それは表と裏があるということ。

表口と云ふのは登りに開いた路で、裏口と云ふのは降りに開いた路である。初めて山越えを企てる者は、眼界の展開すべき相応の高さに達するまでは、川筋に離れては路に迷ふが故に、できるだけ其岸を行くわけであるが、いざ此から下りとなれば、麓の平地に目標をつけておいて、それを見ながら降りる方が便である。
せっかく分水線の最低部に到達しておきながら、更に尾根づたひに高みに上がったうえで始めて降路を求めるものもある。即ち鞍部では十分に見通しのつかぬところから、わざわざ骨を折って乾いた小路を捜すのである。

これを読んだとき、柳田国男は奥秩父の峠を頭に置いてい書いたのではないかと思われたものだ。とくに二つ目の引用など雁坂峠そのものではないかといえる。今は雁坂峠から直接沢を下る道はあるのだが、これは旅人向きの道ではない。一度甲武信まで上がって突出し(つんだし)峠を超えて川又に降りるのが普通だ。柳田国男の言うとおりだ。そしてさらに、

同じ峠路の彼方此方でも、まづ往来を開きかけたアクチーフの側と、之を受け之を利用したるパッシーフの側とは分明であって、少なくとも初期の経済事情を知ることができるのである。

とまで言われると、甲斐側や信州側から秩父へ向かう人が開いたのが奥秩父の峠だということになる。路が山行のためのものでなく、交易する人々が行きかう道となって見えてくる。人々は何を求めて秩父を目指したのだろうか。武田信玄が荒川源頭から稜線にかけて鉱山を開き、そのための宿場までできたという記事を読んだことがある。あるいは日本書紀の伝説に、ヤマトタケルが甲斐から碓氷峠へ越えたことが記されており、そのルートが雁坂・秩父(武甲山・両神山)・上里・上州武尊山・碓氷峠と考えられることも峠を越える話として考えるとおもしろい。
話はどんどん広がってしまうのだが、熊高山岳部の愛した奥秩父とその峠について、これからも新しい発見があるかもしれないと思うのは楽しいことだ。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: