1976.12.25-30 冬山合宿 上州武尊 恐怖の雪山

これまで私が経験した雪山は、春山で奥秩父、南八ヶ岳、北八ヶ岳、巻機山、鳳凰、安達太良で、5月の連休まで含めれば谷川の日白山・平標、平ヶ岳、尾瀬が入る。冬山となると上州武尊、浅間、巻機、白砂だ。春山の気温、雪質と冬山のそれとは全く違う。ワカンの靴で一歩踏み出すたびにふわっと舞い上がる冬山の雪の結晶の美しさは、今でもわたしの思い出の中に大切なものとなって、なにかのたびに蘇ってくる。
もちろん冬山の嚴しさは、恐ろしい。その一つは浅間山で、それについては別の所で書いた。今回は上州武尊について。

上州武尊をジョウシュウホタカと読める人は山の通であると何かで読んだ。武尊の本来の読み方は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のタケルノミコトだ。私の町の秋祭に山車が巡行される。山車の後部に2メートルほどの人形が設置され、せり上がる仕組みになっているのだが、その中の一つに日本武尊がいる(ある)。その祭りを支える町内会がタケル会と名付けて「武」の字を当てている。
古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊となっていて、文学的には政治色のにおいの強い日本書紀を避けて古事記を問題にしている。日本にも英雄時代があったというテーマのなかで、倭建命は浪漫的英雄と位置付けられている。英雄とは、後の絶対的権力者としての古代天皇と違って、一族を率いて自ら戦いの先頭に立ち、部族の運命を切り開いていく、そういうリーダーをさす。倭の五王のひとり雄略天皇が中国の皇帝に差し出した文章にそれが示されている。
昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んずる日もなく・・・(現代語訳)
熊襲を討ち、蝦夷を討伐し、或はその戦いの中で消えていった幾多の英雄がいた。それらを一人の武将に形象したのが倭建命・日本尊だ。そのヤマトタケルが父の命で東国を討伐して回った時、この山に登り頂上で遠く来し方に思いをはせている。いまヤマトタケルの銅像が立っている。東南を眺めているヤマトタケルは、走水(東京湾の首の部分)で自分に代わって海に身を投じて海神の怒りを鎮めた弟橘姫をしのんでいるのである。                     
山岳部の戲け者がある年の冬山合宿で、いよいよ明日は下山というので、この銅像のヤマトタケルに別れの接吻をした。途端に唇が張り付いて離れなくなり、引きはがした時は悲惨なことになっていたというエピソードが長く伝えられた。別な時だが、晴れた日の午後3時に陽だまりでうとうとしていて、気温を計ったら-19℃だった。素肌と金属は相性が悪い。
ちなみにヤマトタケルは本庄の辺りも通過している。私の父は幼い私に、「あの林はヤマトタケルが休んだ林だ。」と指さして教えてくれたことがある。金子兜太は「狼を龍神とよぶ山の民」という句を詠んでいる。龍神が両神になったと考えておられた。ヤマトタケル伝説では、両神山は日本武尊が東征した際、このユニークな山を八日間見続けて歩いたので八日見と名づけ、それが両神の名になったという。その話をし、先生の説の方が説得力がありますと話したところ、嬉しそうな顔をされたのを覚えている。秩父を愛し、両神を愛された先生の顔が浮かぶ。
なおヤマトタケルは武甲山に甲を奉納したことになっている。武甲の武はタケルの意味だ。これも余談だが、ヤマトタケルは常陸から甲斐の國に入りそこから武蔵、上野、碓氷を通って信濃に出たとある。ルートを考えれば、雁坂峠を越えたと考えるのが自然で、そこから秩父に出て上里を経て上州武尊を通り、碓氷峠で「吾妻はや」と詠嘆した。北関東に残っているタケル伝説は日本書紀が基になっているのだろうか。

もう一つの問題。なぜこの山の表示、武尊をホタカと読むのか。タケル山、タケルのミコト山と読まないのはなぜか。
ホタカとは本来穂高なのだ。北アルプスの穂高と同じ意味である。「穂」とは尖った山容を言った。温泉地伊香保の原義は「嚴めしい穂」だった。伊香保神社の岩峰を見れば頷ける。
上州武尊を人々はホタカと呼んでいた。2160mの高さはこの辺で群を抜いている。農民はホタカのお山に雪が来た、ホタカのお山に雪形の爺さんが現れた(?)などと言って、日常のナリワイにいそしんだのだろう。ある時、日本書紀に通じたお偉いさんが、風土記のごときものにこの山を武尊と記した。ところが人々はホタカさんと言って親しんでいる。武尊山と書くけれど読む時はホタカヤマと読む、命名に固執したのだ。
以上が岩田説である。お粗末様。

肝心の山行の話に戻ろう。わたしが冬休みの冬山合宿で上州武尊に初めて入ったのは、熊谷高校に赴任した年だった。28歳だったから若かった。水上から湯の小屋行きのバスに乗り上野原入り口で下りて歩き始める。降りしきる雪の中を部落を拔け畑を拔け、いよいよ山道に入る。初めての経験に不安と期待に胸がいっぱいだったことを覚えている。この年以来私の年末の一週間は、ほとんど上州武尊の雪の中だった。14年間の在任中9回が上州武尊、他が巻機と白砂だった。年賀状はいつも正月に書いた。

これから記す山行記録はスケッチなど許してくれなかった。代わりに晴天に恵まれた、私のはじめての武尊のスケッチを置こう。上州武尊の主峰沖武尊(通称オキホ)の肩2000mのベースキャンプからの景である。

 
1976.12.25 重たい雪の中、雪女が――
本庄07:41ー水上09:15/10:00――上野原入り口10:50/11:00――炭焼跡11:30
 水上駅に冷たい雨の中に着く。バスの途中から雪になりしもベタ雪。上野原入り口で下車して歩き始めると、濡れてくる。いやな雪だ。ただ集落のはずれの応永寺を過ぎるあたりから本格的な雪になる。道は上野原高原の林に入る。途端に雪が深くなり、ここでワカンをつける。ラッセルは膝までの深さ。30分で炭焼き跡へ。もう炭焼き窯らしいものは何もない。ただすぐ横に沢が流れており、人の生業を支えていたであろうことが想像できる。ここで一日目の幕営のため設営する。
 この沢には一つのエピソードが残っている。7年前の冬山合宿のときのこと。夕食を終えて、当番の一年生がひとり沢で食器を洗っていた。何か人の気配を感じた彼はふと後ろを振り返ってみた。そこに見たのは、白い着物を着て髪を長く足らした女性の立ち姿だった。「ユキオンナ!」ぞうッとした彼は食器も何も投げ捨ててテントの中に飛び込んだ。叫ぶ彼の声で仲間が外に出てみたが誰もいない。彼も出てきて不審そうにあたりを見回していたが、「その杉の木だったかもしれない」とつぶやく。私はこの幻視の話が気に入って、その年の年賀状の版画に、テントの横にひっそりと立つユキ女の後ろ姿を使った。

1976.12.26 他高生のおかげでラッセルなく
炭焼き跡08:30ー宝台樹尾根11:00ー1600地点ーコル12:30/13:00ー避難小屋14:00(幕営)
朝、玉川工山岳部がテントの横を通っていく。アタックザックで7・8名。出発後今度は狭山高に追い抜かれる。こちらもアタックザックで10名ほど。おかげでトレースができて、こちらラッセルなしで快適に歩く。これまで他校生に会ったことはなかった。どこまで登るのだろう。一年生がバテてペースが遅れる。50㎏超の荷物で、初めての雪だ。無理もない。宝台樹尾根に出たところで一本立てる。配られた羊羹が美味かった。そこから左へひと喘ぎすると須原尾根の1600地点に辿りつく。空腹をこらえてさらにこぶを二つ越え、その先のコルで昼食。玉工高、狭山高の戻るのに会う。
雪の舞う中を尾根から20m下って避難小屋に到着。誰もいない。この避難小屋は床板は燃やされてしまって全くない。地面がむき出しだ。寒い小屋を避けて幕営とする。我々だけの世界。雪さらに烈し。

1976.12.27 猫岩をまいて壁をよじる
避難小屋08:45ー第一の壁の下ー猫岩ー沖武の肩12:30
昨日の狭山高が再び登って来て猫岩下まで往復していった。お陰でラッセルがらくになった。ただ問題はこの猫岩から先だ。まずこの猫岩が最大の難関だ。垂直の3mほどの崖で、秋のトレーニング山行を兼ねた下見では木の根に摑まり足場にしてなんとかなったのだが、雪に覆われたうえに大きなザックを背負った部員にとってはとんでもない難関となる。年によっては正面からアタックしたこともある。しかし今回はルートから外れて横の草付きを登ることとした。これも先頭と最後とでは条件が大きく異なる。最後の方は雪はスリップした後で足場の確保が難しい。今年は特に雪が多かった。小1時間かけて全員登攀。
岩場を登り詰めた上は処女雪。エネルギーを使い果たしたのか、空腹だからか、ラッセルがこたえる。30分後ようやく肩のテラスに到着し、降りしきる雪の中天幕を設営し、ようやく昼食。その後風上にブロックを積む。ワカンの紐が凍り、指が痛い。晴れ間なく夜になってさらに雪烈し。顧問はスキットルからウイスキーを含む。寒さのせいで胃に全くこたえない。それでも眠りにつける。現役は可哀想だ。

1976.12.28 雪山の美しさ
ベースキャンプ――沖武尊――武尊像――池――家の串分岐11:20/50――池――尾根道――BC
目が覚めて外に出ると、天幕が雪で半分埋まっている。全員で雪かき。雪烈しく風強し。目出帽、ゴーグル、オーバー手袋、オーバーズボン、ワカン、ストックの完全装備で前武尊岳を目指す。緊張感からみな無口だ。吹きさらしの沖武尊から日本武尊の銅像を経て池(もちろん雪に埋もれている)まで降りると風下に入る。しかしそこから家の串分岐まできて、雪は深くなり、これ以上先に行くのは無理と判断し、戻ることを指示。来た道を戻るなか沖武尊の尾根に出ると雪が止み、青空さえ見えだした。天候の好転は気分まで変える。目の前に雄大な景が広がる。浅間が大きく、振り返れば至仏山が間近だ。赤城の裾野に渋川の町並みまで見えた。風は強いが雪山の美しさを皆堪能した。ただ青空はベースキャンプにつくまで。ふたたび雪が舞始め、夜に入りますます激しくなる。ただ明日は下山。いつも半日で上野原高原山の家に着く。何も心配しないで眠りについた。

1976.12.29 恐怖の雪山
BC08:45――猫岩の壁――避難小屋上13:00ー(昼食)ー1600地点――名倉沢――山の家林氏宅21:20
目が覚めると、ん?と目を疑った。テントが顔のすぐ上30cmまで迫っている。これはドカ雪だと気がついた。テントの入り口を開けると雪でまったくふさがれている。大変な日になるかもしれないという予感が心をかすめた。
ただ今日はいよいよ下山の日。例年午前中に下の上野原山の家に下りられる。自分を励まして深い雪の中を撤収。まだこの時点では何も気にしていなかった。ただ雪は深い。ラッセルは両足を深々と埋める。猫岩の壁は転落の危険があると判断してザイルを使う。ミッテルマン結びでグリップを確保した。
下の林に入って第一の壁に出る所でル―トハンテイングに誤る。雪山の下山は危険だ。雪の降る中視界はきかない。どちらが尾根につながる下りなのか、分からないのだ。顧問二人で道探しを強いられ、30分取られる。避難小屋を過ぎるころには全員空腹でラッセルに力が入らない。下りの場合トップはラッセルで雪を崩していく。二人目三人目が雪を固めて足場を作る。4人目以降は舗装道路を歩くようなもので、ラッセルの順番が来るまでに力を蓄える。普通であればこのローテーションで快適に下れるのだが、今日は雪が深く、ラッセルは直ぐに交代しないと続かない。この時点ですでに13:00を回っていた。私の頭にこれはちょっとまずいという思いが芽生え始めた。
1600地点に着く前の小さなピークで遲い昼食を指示した。パンとインスタントジュースの昼食は寒かった。雪の上に置くアルミのボウルのジュースがすぐに表面が凍り始める。
ただここまではまだ何とかなっていた。雪山の試練がこの後襲いかかる。1600地点から宝台樹尾根に入り、そこから名倉沢に入る。途端に雪が深くなった。沢の底はもっと深い。私はできるだけ上を辿るよう指示するが、ラッセルは腰の上までの深雪に動きが取れず、ペースがさらに落ちた。 宝台樹尾根と上野原高原の中間点で午後04:00をまわっていた。ラッセルは一人5mももたない。交代交代でラッセルを続けたが現役の体力に限界が迫ってきた。わたしは2年生でいちばん体力に頼みになりそうな一人を指名し、OBと私とで組んでラッセルを続ける作戦を取った。はじめのうちは何とか進めた。ところが30分もすると交代して5分も経たぬうちに、「先生おれ駄目です。」とギブアップしてしまった。え、もうお前しか頼りにできるのはいないのにと思ったが、これ以上叱咤するわけにいかない。もう一人の顧問は最後尾についてもらわざるを得ず、あとは私とOBでやるしかなくなった。
状況の深刻さが分かって、現役は黙り込んで話し声も聞えない。ビバークすることは不可能な斜面だ。一瞬雪洞のイメージが頭をかすめた。ファイト、ガンバの声を掛け合いながら進む。初めのうちは身体を前に倒して起き上がり、その凹んだ部分に足を置いて前へ進むやり方だったが、身体を前に投げ出すとストックを水平においても起き上がるのにかなりのエネルギーを要するので、そのうち膝をついてストックを前に出し起き上がるようにした。作るくぼみは小さくペースは落ちるが、何とか持続して進める。ようやく名倉沢の流れが緩やかになって炭焼き跡に到着。時刻は夜の8時をまわっていた。道は平たんになって雪の深さは半減してきた。なんとか上野原山の家の林氏宅までと、全員で必死のラッセル。そして何とか到着した時は09時20分。全員雪の上にザックを投げだしてしばらく動けない。林家の奥さんがだしてくれた紅茶の温かさ、美味しさ。そして熱い風呂。熱いのはいけないとぬるめだったそうだが、とにかく最高のもてなしだった。部員に湯でよく足の指を揉むよう指示する。さらに暖かい布団が待っていてくれた。厳しい一日の山行の終わりが我々を救ってくれた。電話で熊谷で待機中の顧問に、一日遅れたが、全員無事であることを伝える。

1976.12.30
晴れた空の下をラッセルなしの雪を踏みながらバス停へ。目の前に谷川岳・朝日・笠が輝き、なんとも美しい。厳しい雪山を乗り切ったわれわれを祝福してくれているようだった。

祝福してくれているようだったと書いたが、実は後日談がある。冬休み明けのミーテイングの中で、1年生の一人からとんでもない知らせを受けた。凍傷で左足の親指の中身が流れ出してしまったというのだ。13時間もワカンの紐で締め付けられていたためで、指を動かすよう指示しなかった顧問の責任が問われる場面だ。ただ生徒はもう済んでしまったことですと意に介さない風をしてくれた。私は責任は自分にあると謝罪した。ご両親にも謝罪に行くべきだったと今反省している。
もう一つの後日談。わたしも右足の親指を凍傷で痛めた。足先が10年余りしびれて感覚が鈍かった。ラッセルの順番待ちの時一生懸命締め付けられている指を動かそうとした。それでもこういう後遺症が残った。何も知らない現役部員たちにもっと声をかけるべきだったと思う。
ただ、救いはあった。20年経ったある日、山岳部の0B会で顔を合わせたこの時の部員たちは、みな懐かしそうに寄って来てくれた。あの日顧問はそれなりに必死だったのを部員たちは見ていたのだろう。例の親指が切断直前までいった男に親指の話をしてみた。見せてくれと言った私に「おれ、指紋のない男になってしまいましたよ」と笑いながら赤く光る指を出して見せた。彼にとっていわば闘いの証しとなっていたのだろうと思う。恨みがましいニュアンスはなかった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1969.02.08-09 浅間山賛歌‐もう一歩で爆裂火口に 

私の住む本庄台地を北に下って畑の中に立つと、北西に真っ白な浅間山が秀麗な姿を見せてくれる。
火と吐く命秘めながら
しずかに眠るかの山よ
ああ大いなる火の山を
見つめし若さ今も忘れず
私の青春期の入口で、伊藤久雄が歌った歌だ。この「火の山」とは浅間山のことだと私は解釈して、こっそり自分の歌としてきた。
初めて頂上を踏んだのは20歳の初夏だった。以来その数は20回を越えている。コケモモを摘んだり、山菜を採ったりで訪れた回数を入れると数え切れない。浅間は私の山(私だけのという意味にあらず)となっている。
とすれば、このブログに、浅間とのかかわりを残していく事も許されるのではないかという思いがある。浅間山には忘れられない思い出がいくつもあるのだ。爽やかなものの方が多いのだが、今でもそのときの事を思い浮かべて、ぞっとするものもある。今日は後者の話を。

もう一歩で爆裂口に
40年以上も前、私は山岳部の顧問として、高校生5名と一緒に、浅間を越えた事がある。1969 年02月08日と記録がある。
熊谷発00:16の夜行列車は満員で、途中から乗るわれわれはデッキに入るだけで精一杯だった。3:03中軽井沢下車。スケートセンターまでバス、そこからタクシーで峰の茶屋には未明の4時半に着いた。強風が周りの樹木を揺らして音を立てており、星空だけが微動だにせず頭の上に広がっていた。これから始まる山行に緊張が高まる。
そのまま出発して、森林限界で持参した朝食をとり、アイゼン装着。小浅間のコルまでくると、小浅間が朝焼けの空にくっきりと立っていた。
そこから試練が始まった。次第に風は強くなり、すぐに強風の吹きすさぶ世界となった。独立峰の特徴だ。ただ、富士山のように突風が襲うということは無いようだ。それでも風でバランスを崩せば滑落の危険がある。飛ばされないように身体全体をぐっと前に傾けて、さらにアイゼンの8本(当時われわれが使っていたのは鍛造8本爪だった。重く頑丈だった)をしっかり踏み込んで、ピッケルを構えて、一歩一歩慎重に進む。富士山の雪は青氷のようだが、浅間はウインドクラストした雪がビシッと斜面に付いていて、アイゼンの爪はしっかりきく。風に飛ばされて厚さは数センチしかない。普段の山行はリーダー(後にはサブリーダー)が先頭に立つのだが、視界不良、強風ということで、途中から顧問の私が先頭に立った。左前方からの吹雪で、みな左側の頬に氷が張り付き、目出帽(我々はメダシ帽と言わず、メデ帽とよんでいた)と髪の毛は左側が真っ白になった。
単調な登りだが、東前掛け(2400m)への登りから傾斜が増し、吹き付ける雪で視界はまったく利かなくなった。5万分の1の地図を広げ、現地点を確認して進む。ごうごうと吠え叫ぶ風に抗して身体をさらに前に倒し、斜面が30㎝くらいのところに見える。後ろに続くメンバーに大声で声をかけるのだが、風で聞こえているのかどうか分からない。初めて経験する厳しさに、高校生は必死のようだ。顧問に対する信頼感があるから黙って続いてきてくれると思うと、私も必死になる。
そのときの私の気持ちは、敢えていうなら「無」だった。一歩一歩足を運びながら、吹雪と対決しているという意識はない。むしろ一種の喜びのようなものが私を満たしていたと記憶している。浅間山に入れてもらっている、浅間山の厳しさを私が受け止めて、私がそこに包まれる事をねがっている。私はまだ大丈夫ですという気持ち。これは、自然を征服してやろうといいうような傲慢さ(自然を征服するという、いわば西洋的な自然観は私にとって傲慢なものだった)とは異なるものだ。その気持ちは意識的なものではなかった。つらいとかもっと俺を試してみよとかとは無縁な、「無」の境地だったと思う。
目の前の真っ白な雪の斜面を見ながら歩を進めていた私が、ふと「ん?」と立止まった。目の前の白が、それまでと違ってやや灰色を帯びているのだ。ブリザードのような雪のため、その境目は見えない。私は確かめようとピッケルで目の前を薙いでみた。何の手応えもない。初めなんだか分からなかった。次の瞬間、あ!自分は噴火口の縁に立っていると気づいた。ぞっとする思いと同時に、後続の生徒に大声で「とまれ!くるな!」と叫んだ。数メートル後退させて、私もそこまで戻ったとき、改めて恐怖で足が震えた。もしあの色の変化に気づかず、もう一歩前に出ていたら、私は噴火口の中に転落していた事になる。生徒たちが留まってくれればいいけれど、そのまま続いたらどうなったか。この恐怖は42年たった今もリアルに蘇ってくる。冬山の恐ろしさである。

雪中彷徨
その山行の恐怖はそれだけで終わらなかった。噴火口から10メートル下ったところを周って西側に出たのが10時過ぎ、急な下りを走るように下って、湯の平にたったのが11時だった。風はそれまでがうそだったかのように無くなり、雪だけが激しく降っていた。部員全員気が抜けたように座り込んで昼食のパンを食べた。気が抜けたようにと言ったが、緊張が緩んだということであって、後になって聞いてみると、生徒は厳しい試練を乗り越えた誇りと喜びが若い身体に一杯になっていたようだった。(写真は別の年の湯の平。青空がうそのようだ。)
第二の試練はその後すぐにやってきた。アイゼンをワカンに付け替え出発したのだが、樹林帯に入ったとたん雪が深くなり、すぐにルートを見失ってしまったのだ。歩いても歩いても樹林帯を抜けられない。膝上までのラッセルはすぐに交代が必要となり、全員次第に疲労の色を濃くしてきた。どうやらリングワンダリングに陥ったようだ。私はルートファインデイングを諦め、コンパスをつかって真西へ向かうよう指示を出した。黒斑の壁にぶつかれば、左折して蛇堀川源頭の谷に出られるという判断である。それは的中した。林を抜ける事ができたのだ。はげしい雪をすかして、目の前に黒斑の白い壁が立ちはだかった。
しかし、その時すでに、満員の夜行列車で一睡もしていない部員たちは体力の限界に達していたのだ。いきなり、「先生、灯が見えます」とひとりが叫んだ。私はぎょっとした。夕暮れを思わせるような激しい降雪のなかだ。これも後になって本人に確かめたのだが、ほんとうに赤い灯が見えたという。わたしは、その部員の頬を叩いて、「しっかりしろ!」と怒鳴った。怒鳴った後、今夜はここでビバークしようかという思いがよぎった。でも、黒斑の絶壁を左に辿れば谷に出るというのは分かっている。苦しいラッセルを続けて、谷に入り込んだところで登山道がクロスしていて、標識の杭に出会った。全員救われた思いで休憩を取る。他の部員も二度幻覚を見たと言っていた。
その後はもうただ下るだけ。浅間山荘に到着したときは、前の広場にみな身体を投げ出してしばらく動けなかった。無事下山できた喜びをかみしめたのはその後だった。
それにしても、16歳17歳の部員はほんとうによく頑張った。初めての浅間で、あのブリザードのような吹雪、雪の樹林での彷徨は、山のマイナスイメージを植えつけてしまったかと思った。後で聞くと、実際彼らの頭に遭難の二字がよぎったという。しかし彼らはみごとに状況を乗り越えた。その精神的な強さと誇りが彼らを支えてくれたのだろう。一人の退部者も出なかったのだ。それから今日まで長い月日が流れた。あの日のトレーニング山行の体験が、彼らの人生に何らかの意味を持ったかもしれないと考えるのは楽しい事である。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1969.07.21-30 夏山合宿 北岳 – 畑薙ダム 天使のような歌声が風に流れた

南アルプスというのは、ぼくにとって北アルプスとはまた違った魅力を持つ山々だ。南アルプスというと東に前衛として鳳凰三山があげられる。それに対して、北にも前衛と呼んでいいような甲斐駒ヶ岳がある。前衛というにはあまりに立派な山だ。中央線に乗って甲斐盆地を出はずれるころ、甲斐駒の荒々しい山容が迫ってくる。八ヶ岳からも甲斐駒は大きい。
その甲斐駒と野呂川を挟んで対峙しているのが、日本第二位の高峰北岳だ。現在南アルプスの縦走路は北岳から始めるのが普通である。私が熊谷高校に赴任する前の山岳部は、伊那谷からバス1時間半で戸台まで入り、1日がかりで北沢峠へ。そこから大カールの仙丈岳を通り仙塩尾根に入って野呂川に500m下り、1000m登り返して北岳へというものすごい歩き方をしたことがあると聞いた。顧問の松井氏の話である。
南アルプスは、縦走する場合普通真ん中辺の三伏で南北に分けて行うのが高校の山岳部では普通になっているようだ。北部はいうまでもなく北岳がメイン。そこから稜線歩きが楽しめる間の岳へ。さらに次の名山塩見岳が待っている。
南部は大きな山塊が三つ、荒川三山、赤石岳、聖岳があって、茶臼岳の手前から畑薙ダムへ1500m下降する。
茶臼は往復するが、その先はあまり行かないようだ。ただ易老岳・光岳が南アの南端とされる。名前だけ聞いても訪れたい山ではある。
今回、この北部・南部を一回の縦走で踏破することとした。日程は1969年7月21日~30日の10日間です。南アルプスとは名のみ聞いていてまだ一歩も踏み込んでいない。これまで鳳凰三山だけは3回ほど登った。今度はスケールが違う。大きな山肌に蟻のようなわれわれがが取り付いて動くともなく登っていく、そんなイメージが固定化されて、出発前からかなり緊張を強いられた。

1969.07.21
甲府12:30/55=(バス)=広河原14:38/45—野呂川広河原14:58
甲府からのバスが夜叉神峠を越えると目の前に北岳・間の岳の大きな姿が聳え、目の下の野呂川への谷が深い。明日はあの稜線に立つ。

1969.07.22
 03:45出発。顧問もはじめてのルートで、出発からまごついてしまう。暁闇の中に大樺沢(おおかんばさわ)の水が白く光る。コマドリの甲高い声、その後オオルリのさえずりが美しい。06:50雪渓の下端に到着。10分休憩。水の冷たいこと、山の味だ。此処から雪渓の登り。次第に急登となる。凹面鏡の底となってたまらなく暑い。09:00ようやく稜線八本歯のコルへ出る。此処で昼食。北岳が圧倒的な姿で迫る。分岐に荷物を置き、09:50北岳ピストンに出発。10:48頂上着。頂上から仙丈、駒、鳳凰が雄大だ。仙丈はどことなく女性的なところを持つ優美さが感じられる。いっぽう東側はガスにおおわれていた。
稜線小屋へは正午直前に到着。一昨年12時間を要したという話が嘘のようだ。雪渓の雪にインスタントジュースの粉をかけて「赤城しぐれ」の2カップ分を食べる。スケッチをした後、FⅯでメンデルスゾーンの宗教改革を聞きながら午睡。至福のひと時だった。

1969.07.23

前日夕食後飲んだコーヒーのせいか、熟睡できず不吉な予感。06:00出発。リーダーは出発から飛ばした。間の岳への登りも快適に過ぎる。途中雪田で休憩を取り、間の岳に07:58着。日本第3位の穂高に1m足りないだけ。ただ、山高きゆえに尊からずの言葉が浮かぶ。間の岳には間の岳のよさがあり、山の良さとはそういうものが総体となって自覚されるものだろう。また此処は長野、山梨、静岡の三県が合わさっている所。地図を見ると静岡県がここまで頭をもたげている。大井川の源頭の谷がここまで延びているからであろうか。源頭の先の稜線に「井川越」なる地名が五万図に記されている。今の熊ノ平だ。信州から参州に抜ける道があったのだろうか。昔人の姿を思い描いていくと興味が尽きない。
 やがて三峰岳、ここは仙塩尾根に合するところである。仙丈岳から塩見岳。長い長い尾根である。今は北岳からのルートがメインになっている。そこから標高差400mの下り、途中からなだらかになる。行く手に塩見岳、荒川岳が我々を迎えてくれる。目の前にはシナノキンバイの群落が美しい。熊ノ平の水場はうれしい。昔の旅人も此処で生き返った思いをしただろう。ここからなだらかな稜線歩きとなるが、此処から私が遅れだす。睡眠不足がこれほど大きな意味を持つことを知ったのは初めてだ。新蛇抜山という不思議な名前のこぶで昼食をとって少し人心地がつく。そのうちガスの中となり雨となり、12:50やっと北荒川のお花畑について雨の中テントを設営する。夜になり雨が激しくなる。明日はチンデン(停滞)か。
 雨の音を聞きながら、芭蕉『奥の細道』の白河を越えて「旅心定まりぬ」と述べた言葉が胸の中を去来する。自分はまだ定まり切っていない。

1969.07.24
雨依然として激しく3:30朝食を取りミーテイング。天気図を見て天気好転の可能性なしと判断して停滞を決定。ひたすら眠る。
ここで言い訳を一つ。
夏休み初日からの合宿は私にはつらい。私の担当する教科にかかわっている。期末テストが終わって、生徒は解放される。私の担当する国語では終わった日からそれこそ睡眠時間を削って必死に採点しなければならない。数学などはその日のうちに答案を返す教師もいる。国語の場合もセンター試験のように選択肢から回答を選ぶような形であればあっという間に終わるだろう。私の目指すのは生徒が自分で表現することであって、どうしても一枚一枚悩みながら〇を記したり、こちらの意見を書き込んだりということになって、採点が終わると消耗しきってしまうのが常である。同僚で、勤務時間内に採点が終わるような問題づくりをすべきだと言って涼しい顔をしている教師もいる。それはその人の主義によるので、自分のやり方を変えようとは思わないのだが、それでもこの採点期間は地獄である。採点後の成績評価や成績会議資料の作成や通知表づくりは他の教科と同じであるが、疲れのとれぬまま終業式が終わり、翌日から若さで爆発しそうな現役と山に登るのは、どうしてもハンデイを負わされることになる。
そういうわけで4日目に一日テントの中に眠れるのは、何よりもありがたいことであった。

1969.07.25
05:40、辺りのお花畑の別れを告げ出発。初めは呼吸が苦しかった。一日寝ていて身体がなまったらしい。
それでも一日休んだ効果はてき面に現れた。右手に北荒川の大きなガレ場を見て進むうち、ハイマツの稜線にガスが晴れて、目の前に塩見岳が雄大な姿も見せた時、ああ来てよかったと嬉しくなる。
06:45北俣分岐。左へ行けば蝙蝠岳だ。直進し、ペースをあげて岩場を登り7:10、3052m(三角点は3047m)の塩見岳頂上に立った。岩場の周辺に今回の山行で初めてイワカガミを見る。雲海の上に遠く槍・穂高が美しかった。塩見はいい山だ。生まれる子が女の子だったら志保美と名付けよう。いつかきっとこの山に来て私の心を感じ取るに違いない。父親になった喜びをあらわに知らせてよこした畏友Ⅰのことが思われてならなかった。
山頂を07:25発。岩場を下って樹林帯に入る。権右衛門はトラバースルートで、本谷山を09:35に通過。三伏幕営地に09:55着。三伏峠小屋へ行き熊谷高校吉川顧問に電報「アメデ一ヒノビル、ミナゲンキ、イワタ」。戻ろうとすると小屋にいた中学生のパーテイの女の子に林檎を差し出される。くたびれた顔をしていたのだろうか。
戻って水場で汗まみれのシャツを洗濯。頭を洗うためお互いに水を注ぎ合う。いい一日が終わる。夜雨激し。

1969.07.26
霧雨の残る中、ラーメンの朝食をとり04:00出発。烏帽子岳へは標高差300mをダイレクト。左に塩見が秀麗な姿を見せる。お花畑の中を進む。今日の予定は高山裏露営地まで、8時半ごろ到着の予定だ。その先荒川小屋まで延ばすべきかどうか迷いつつ歩く。小河内岳は三角形の美しい山だ。頂上で頭上のガスの切れ間から青空がのぞく。今日も晴れるか。真下の草地の緑が目に染みる。肩まで降りた時聖岳の美しい姿が南に霞んで見える。あそこまで行く。荒川岳が左に大きい。塩見で見た幻の山だ。瞬間的にガスの中に隠れてしまう。「行くぞ。」リーダーが声を上げ、たちまちガスの中に沈んでいく。07:18大日影山と板屋岳の鞍部で間食のアンパンがうまかった。08:50高山裏露営地に到着。此処から荒川岳の急登が始まる。荒川小屋へはあと3時間。今日はここまでにしよう。長丁場なのだから。
それにしても露営地なんて古風な名前だ。他に一パーテイ、共立女子大のワンゲル部がのんびりしていた。尋ねると今日は休養日とか。うらやましい。飛ばすだけが山ではない。女声合唱が聞けた。我々の歌う山男の歌ではない。天使の歌声のよう。草の上で午睡。午后夕立あり。

1969.07.27
05:05発、いよいよ荒川岳の難所へ。ガスの中で右側の大崩壊は見えず、なんということなく前岳頂上へ。途中一瞬ガスが晴れて、カールの下方が一望のもとに見渡せた。ハイマツの緑が雨に濡れて美しい。その中を追い越してきた女子大パーテイが小さく連なって見える。荒川中岳は10分もあれば頂上に立てるのだが、先を急ぐ部員は横目に見て素通り。いつかまた来て楽しみたい山だ。
ルートは500mぐんぐん下って08:00荒川小屋へ。そこからは稜線の下を大きくトラバース。水平道をたどって赤石岳とのコル大聖寺平へ09:00到着。岩のごろごろしただだっ広いところだ。此処から再び400mぐんぐん登って小赤石岳に9:30到着。此処で10:05まで昼食。すぐ横を雛を4羽連れた雷鳥が逃げようとしない。お花畑と雪田がその背後に広がって、南アルプスは平和な山だ。100mほど登って3120mの赤石岳は10:23。
昨日の夜、米16合とジャガイモを出して荷が軽くなって快調だ。再び急降下となだらかな稜線の下りとなり、2780mのポイント百閒平に来た時、目の下300mに百間洞(ヒャッケンボラ)の草地の緑が小さく見え、其の先300mの高さの壁のような大沢岳が我々を待っているのが見えた。南アルプスはスケールが大きいというのはこういうことでもあったか、と妙に納得する。百間平はハイマツの原が広々と広がり快いところだが、今回の山行はゆっくりと味わうゆとりがない。300mを30分で下って11:45百間洞露営地着。今日はここまで。水が豊富で、他にだれもいない静かな幕営地だ。冷たい水に溶いたスキンミルクがうまかった。シャツを洗濯する。

1969.07.28
出発05:10、今日は聖越えだ。12月の富士山5合目から遠望した屋根型に白く光る聖岳のイメージが甦る。
早朝は急登も楽だ。昨日の百間平からの下りと同じ標高差を一気に登り返して06:10大沢岳へ。
昨夜も夢を見た。妹昭子の結婚式の夢。同行顧問のⅠ氏はその話を聞きホームシックだという。そうかもしれぬ。稜線はすさまじい絶壁の縁を行く。稜線から反対側の谷を見下ろすと沢が光って見える。あそこへ行けばすぐに人里へ出られそうだ。望郷の念に駆られた旅人は、昔からそこへ降りてしまった人がいるだろう。その人はどうしたろうか。
兎岳と聖岳のコルから聖の大きな山容が姿を現した。前前聖が3011m、奥聖が2978m、その間の稜線はほぼ水平で秀麗な山だ。振り返ると荒川岳と赤石岳が見え、その向こうに塩見が霞んでいる。あの向こうから歩いてきた。頂上は強風のガスの中。ガスの中にかすかに奥聖への稜線が浮かぶ。ハイマツに覆われた、心惹かれる景色だ。ただルートは前聖からそのまま先に下っていく。300m以上急降下して小聖の台地、さらに300m以上下って、聖平露営地に11:25到着。お花畑に囲まれた別天地だ。

1969.07.29

02:20起床。いよいよ畑薙ダムに下る日だ。ここまで皆よく頑張った。あと今日一日何とか故障なく下れることを祈る。
05:20出発。天気はガスと強風で寒さを覚えるほど。まず目の下に見えるなだらかな上河内岳を目指す。ルートは頂上を巻いてトラバースで下る。五万図に「御花畑」とあるが、ガスの中見えるのはむきだしの土壌。ただここは天然記念物・亀甲土壌である。水の流れ・染み入り方がこの模様を作ったのだろうか。不思議なことである。30分で茶臼岳頂上へ。08:10にになっていた。今回の南アルプス縦走はここまで。先の易老岳、光(てかり)岳という名に未練を残しつつ10分手前の下降分岐点に戻る。
ここからが今日の正念場。1500mを下るのだ。08:40発。初めなだらかだった山道がすぐにものすごい傾斜となる。九十九折れの下りを1時間、横窪小屋が現れる。5分休憩。道がややなだらかになったかと思う間もなくまた急降下。10:23ウソッコ沢のつり橋が現れて、ここで昼食休憩。地図ではこの先水平道とまではいかなくてもかなり緩やかになる。急な下りが2か所あるが距離的に短い。気分的に楽になり12:10畑薙大吊り橋に到着した。
 今回最後の歩きがこの大吊り橋だ。畑薙ダムは私の1957年版の五万図にはまだ見られない。高度成長期に電力供給のためダムが日本中に造られた。その一つなのであろうか。とにかくこの吊り橋はものすごい長さなのだ。あとで調べたら181.7mあるという。その後揺れを防ぐためか幅広の横木が渡されたが、我々の時は中央の通り道の板が並んでいるだけの吊り橋だった。両側のワイヤを握りつつ、揺れる橋をバランスを取りながら進む、それはこの吊り橋を懸けた人を全面的に信頼するしかないという不条理な吊り橋である。もっともどんな小さなものであっても吊り橋というのはそういうものであるが、この橋の中央に差し掛かるやそんな諦念に襲われるのである。
とまれ、全員無事にわたり終わって、すぐ横の蓬澤橋幕営地にテントを張ることができた。12:20になっていた。

1968.07.30
バス停まで50分歩く。07:36のバス。3時間半も乗って着いた静岡は灼熱の町だった。電車の入り口横のパイプが熱いのである。静岡発12:16.東京経由熊谷着16:42。長い10日間だった。
スケッチは幕営地からのダム風景。吊り橋がかすかに認められる。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1992.08.03-06 槍・穂大キレット 

北アルプスを白馬から穂高までをつなぎたい、その願いは私の山行の原動力になっていたものであり、今回の大キレットを踏むことがその願いを完成させてくれる。そう思うと早く踏みたいという思いともっと先に延ばしておきたいという思いとが心の中で葛藤した。
たまたま私が最後の勤務校である本庄北高校で、生徒と登山愛好会を作ろうと相談したことがきっかけとなった。部や愛好会となると顧問は複数いなければならない。私は思いを共有することができると思った若い同僚に声をかけた。お互い何か人間的な魅力を感じていたようで、一度一緒に山へ行ってみようということになった。選んだ山が槍から北穂の3泊4日だった。出会いというのは不思議なものである。彼がいなければもしかすると私の願いは見果てぬ夢のままになっていたかもしれない。

1992.08.03 5時間半列車・バスの旅
本庄06:37=高崎06:57~07:15=篠ノ井09:15~18=松本10:28~58=新島々11:28~35=上高地12:00~13:23ー徳沢14:38~45ー横尾15:40

1992.08.04 4回目の槍ヶ岳
横尾05:30ー二の俣出会い06:30~45ー岩小屋07:40~50ー槍沢昼食09:40~10:20ー槍ヒュッテ12:05~30ー槍ヶ岳14:30~15:00ー槍幕営地15:30

1992.08.05 大キレットへ
槍幕営地05:40ー大喰岳06:03~15ー中岳06:41ー南岳07:50~08:15ーキレット下り地点09:05~15ーキレット底部(昼食)10:15~40ー北穂小屋12:05~40ー涸沢ヒュッテ14:30~40ー横尾16:45

1992.08.06 帰途
横尾山荘05:35ー徳沢06:15~25ー上高地07:40~08:50=新島々10:00~17=松本10:50~11:37=篠ノ井12:31~48=本庄14:38 

槍から大喰岳、中岳、南岳の眺望は抜群だ。左に大天井岳、常念岳、蝶ヶ岳が連なり、右は拔戸岳、笠ヶ岳、錫杖岳が存在を主張している。自分が歩いた山並みというのは、なんといっても懷かしい。あの時の友は今どうしているか。
南岳からいよいよ今回目指す山行の中心、大キレットだ。高校山岳部には許可が出ないということはそれだけの難コースであることだろう。緊張感が高まる。
いきなり急降下が始まる。ただ鎖と鉄梯子はしっかりしており、底が近くなることでむしろ樂しくルートを辿ることができた。問題は反対側の急登の方だろうと思われた。無事に底部に到着。そそり立つ登りのルートを眺めながら昼食をとる。右手の谷は滝谷だ。浦松佐美太郎がハーケンの代わりにハイマツの根を削って岩の割れ目に打ち込んで足場を作った話を残している。1cm伸びるのに30年もかかるというハイマツを足場に使うなんてと、今では許されないことではあろうけれど、登攀器具などないその頃の話としてぼくは深く印象に刻んだものだった。写真は大キレットの底から南岳を見上げる地点。
いよいよ登りにかかる。すぐ右手からカーンカーンとハーケンを打ち込む音が聞こえ始めた。一方こちらは岩場でなく、分厚いザクの堆積だ。片足を上げるともう片方の足がずずっとめり込んで後退してしまう。それは何とも途方に暮れてしまうような急登だ。相棒は後日、あの時は怖かったですと述懐した。それでもなんとか登り終えた。写真は大キレット登りから底部を望んだもの。
北穂の小屋のテラスに登った途端びっくり仰天。それまで誰にも会わなかったのに、なんと我々が入るスキがあるだろうかと思われるほど人々が溢れている。そういえば北穂の小屋はモーツアルトの曲を常時流していると読んだことがあった。それが人気を呼んでいるのだろうかと思ったが、モーツアルトも他の音楽も聞えない。あれはもう止めたのだろうか。
そのうちハーネスをつけザイルを背負った若い男女二人が姿を現した。先ほど滝谷を登っていた人たちであろう。誇らしそうな顔だ。顧問仲間で、もう歳なので岩は止める、最後の名残で、滝谷をやって来たと話した男を思い出した。いろいろな人生がある、そんな感慨を懷かせる場所だ。
ほんとうは我々二人、静かにここまでのルートを眺めたいと思ったが、これではとてもではない。早々に立ち退くことにして涸沢に下る。下りながら感慨が頭をめぐる。これで私は白馬から穂高まで全部つなぐことができた。50年かけた山との付き合いだった。本当は奥穂から西穂が未踏なのだが、それはもう無理だろう。奥穂から前穂・岳沢‣上高地をたどったことで穂高に許してもらおう、そう思いつつ屏風岩を眺めながら横尾山荘についた。山への想いがまた一つかなった山行だった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1978.05.26-28 浅間山御代田ルート

浅間山の登山ルートは
 1.峰の茶屋→頂上
 2.浅間山荘(天狗温泉)→湯の平→頂上
 3.追分が原→天狗の露地→湯の平→頂上
 4.黒斑山→Jバンド→頂上 (黒斑→草付→湯の平→頂上)
このほかに昭和54(1979)年版の五万分の一の地図には、天狗の露地から湯の平へ出るのでなく、ストレートに前掛け山の東下を通って釜山(頂上)に至るルートが描かれている。昭和昭和35(1960)年版も同じ。しかしこのルートはもう50年も前に閉鎖されている。閉鎖の看板が天狗の露地に立っているのを私は見ている。
もうひとつ、1960年版にありながら、1979年版には消えているルートがあった。天狗の露地の下に湧いている一杯水の手前から、剣が峰の東を通って平原へ出る延々10キロ以上の道である。
浅間の頂上を目指して、かつてこの道をたどった人たちがいた。あるいは、頂上を踏んだ後御代田の街道を目指した人たちがいた。その人たちの思いを自分も追体験したい。そんな願いを何年も懐いていて、1978年初夏、ようやく機会を得た。
追分コースの石尊山の稜線からカヤㇳの茂みを分ける。一杯水でのどを潤し、天狗の露地への急登をつめると平坦な芝地にまだ雪がかなり残っていた。そのまま湯の平に出ると、登山者がちらほら見える。今日は出来れば一人で歩きたい。そう思って歩を返す。天狗の露地を下って100mのところに、「御代田分岐」と墨で書かれて半分消えかかっている小さな道標があった(今はもう無い)。どんな道か、明瞭でない下り道を前に幾分緊張感を抱いた。右手に牙(ぎっぱ)に続く剣が峰がそそり立つ、その下を進むとすぐに登山道わきは、イワカガミ、タチツボスミレ、リンドウが群落をつくっており、振り返ると浅間が大きい。人影は全くなく、石尊山稜線の広々と続く原に快い風が吹く。落葉松の芽吹きが美しい。落葉松とその上に聳える浅間山を私は版画に描き年賀状に使った。しばらく行くとなだらかな下りとなって、笹原と白樺林が続く。カッコウの声が遠くに連続して響く。右手遥かに槍・穂高がくっきりと姿を見せ、山旅の友となってくれた。私はゆっくりと休み、ゆったりと身体を横たえて青空を眺めたりもした。良い日、よい季節、静かな山行を味わった一日となった。
およそ1000mも下ったろうか。広い中腹に開発の手が入り始めているのに気づく。西軽井沢などという看板も見える。まもなく俗化されてしまうのだろうと思うと、今見わたせる浅間の裾野がいとおしい。ちょうど田植えの時期だった。ただ、人家にでてから駅までが遠い。御代田の駅への道を見過ごして、平原まで歩かされてしまった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: