2003.08.24 雨飾山

「百名山詣で」という言葉がある。深田久弥の『日本百名山』という名著があり、それを読んであらたな山の魅力あるいは山行の魅力を知ったという人は少なくない。
深い哲学的な思索に裏付けられたあの文章によって、山が単なる地理的な存在ではなくなる。また、信仰や修行の場としての存在とは別のものとなる。スポーツの対象以上のものとなり、健康管理の道具以上の存在となる。それは、何度読んでも尽きない魅力をもった文章である。そういう本はほかにもある。浦松佐美太郎『たったひとりの山』も私の愛読書だ。そういう古典的名著を持つわれわれは、豊かな文化の中に生きているといえる。
しかし、「百名山詣で」の人たちと話してみると、あるいは話をしているのを聞いていると、どうも違和感を感じてしまうのだ。「今年は3座のぼりました。あと○○座です。」「今日下山して、明日○○山をやり、そのまま次に◎◎へのぼります。」という類の言葉があちこちから聞こえてくる。ヘリコプターまで使って、最低日数で登りきったというのが、マスコミに取り上げられたこともある。百名山をすべて登ろうという熱い情熱だといえば聞こえがいいが、なんのことはない、数をこなすだけの話なのではないか。
だいたいにおいて、山に失礼じゃないかと、そのたびに私は憤慨してきた。数をこなす山行では、登られる山は通過点でしかない。どの山もその山独自の顔をもっている。それと正面からつきあうことが、ほんとうの山行だ。いくつ登っても、前の山は褪せることが無い。ほんとうに山が好きであるなら、そうなるのが当たり前だろう。
そういう意味で、私は百名山の数をこなすつもりで山へ登るということはして来なかった。数えれば七十数座になっているようだが、それはあくまで結果であって、数を増やそうとしたわけではない。ただ、深田久弥の選んだ山を訪れて、彼の思いを追体験してみたいという思いはある。雨飾山に登ろうとしたのも、そういうことだった。

毎年夏に山行を共にする仲間がいる。4人のうち1人が都合つかず、今年は3人となった。雨飾山を二万五千分の一の地図でみると急登の連続のようで、出発するまでかなり緊張を強いられた。そういえば、このメンバーで登った山は、鳥甲山、守門岳と、ここのところ急登の山の連続だ。今年もあえぎながら登るのだろうか。深田久弥は荒菅沢をつめた。一枚岩の布団菱に廊下状に穿たれているというゴルジュを、私も辿ってみたいとは思うが、われわれには無理だろう。地図上の登山道をいくしかあるまい。
夏も終わろうという8月24日、4時45分に本庄を出発した我々は、8時10分には小谷温泉に着いていた。上信越道、白馬オリンピック道路を使うことで、かつてはとても考えられなかった行程で山行が可能になった。環境問題を考えると、これでいいのかなあと、ひっかかってしまうのだが・・
登山口は、小谷温泉よりさらに車で20分のところ、そこにキャンプ場があり、駐車場があった。8時45分出発。道はすぐに大海川の河川敷に降りる。ガイドブックには、靴が半分くらい沈む、歩きにくい湿地とあったが、真新しい木道が設置されており、ありがたかった。登山者のためばかりでなく、湿地保護にも有効だろう。巨大な葉に成長したミズバショウも点在する。30分ほどで河原から左の山にとりつく。急な登りが始まった。ゆっくりと辿る。
1時間30分で荒菅沢を見下ろす地点に出た。沢の真上に始めて雨飾山頂が姿を見せた。緑の木々の中に幅100メートルほどの雪渓が上っていて、その先は布団菱の岩壁、その上に槍の穂先を思わせるような岩峰がすっくと青空に突き上げていた。我々はその端麗な雄姿に見とれてしばらく動けなかった。登山とは憧れだとよく思う。あの頂上が心にはっきりと焼き付いて、そのイメージを追って登って行く、それはそのまま憧れていくことだ。その憧れがあるがゆえに、途中の雪渓の冷たさも心に沁みるし、足元に咲く花も心引かれる存在となる。
雪渓を渡って道はさらに急登となった。kさんの呼吸が苦しそうだ。車の運転に神経を使ってきたのだから無理もない。ペースを落としてじっくりと登る。樹林帯が終わり、潅木帯を抜けて笹原となって、ひとあえぎしたところで、肩の草原に出た。ハクサンフウロ、トリカブト、マツムシソウ、リンドウ、アキノキリンソウ、ウメバチソウ等が色鮮やかに咲いている。振り返れば頚城三山の一つ、焼山が彼方から我々をみつめている。座り込みたくなる気持ちを抑えて15分ほど歩くと、いよいよ穂先に向かう最後の急登だ。岩の間をぬいながら登ること15分、ぽんと頂上に飛び出した。時に12時50分。予定を大幅にオーバーした。深田久弥が猫の耳と称した双耳峰は意外と近く、互いに1分もかからない。我々は南峰に座を占めてビールを飲み、遅い昼食のラーメンを作った。天気が良過ぎて北アルプスは見えない。それでも、目の下には、先ほどの草原が緑色に広がって、快い午後の風が我々を撫ぜて過ぎていった。「どの山にも頂には憩いがある」と深田久弥は書いている。我々も1963mの頂上で1時間以上も至福の時を過ごした。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1988.07.27-30 針の木 – 種池

北アルプスを白馬から槍・穂高までつなげて見たい、そんな願望を抱き始めたのはいつのころだったか。北アルプスを全山制覇したいという言い方になると僕の主義主張とは異なってくる。山は制覇するものではない、数をこなすことを目標にしてはいけない。ピークハンターという言葉をぼくは好まない。北アルプスにはぼくの好きな山がいくつもある。それらの総体としての北アルプスが僕は好きなのだ。あの山はもう登ったからもういいとはならない。白馬に登って白馬と心をかよわす。鹿島槍に登って、誰もいなくなる頂上で鹿島槍と対話する。そういうかかわりを求めているときに、ある山やある個所が抜けてしまうのは、その山や箇所に失礼ではないか。北アルプスが好きだということは北アルプスのすべての山が好きだということなのだ。人を好きだということと同じではないか。
そんなふうに考えて、北アルプスのルートを北から南まで全てつなげたいという思いを何年、何十年も懐いてきた。
その間、同じ山に何度か登る機会は持ったものの、種池から烏帽子の稜線が手付かずに残ってきた。中央にある針ノ木峠から北の種池までは、1973年の熊谷高校夏山合宿で歩くはずだった。白馬から針の木までという計画であった。しかし前日冷池(つべたいけ)テントサイトについたあとの天気図を見て驚いた。台風が日本のすぐ沿岸まで来ている。前日は17時過ぎまで行動していたので天気概況の時間は終わってしまっていて、台風情報に気付かなかったのだ。急きょ顧問・OBは相談し、翌朝下山することを決定した。冷池から針の木峠までのルートは幻に終わってしまった。
なんとかこのルートを歩きたいという思いを、15年後に実現させる機会を持った。この年、熊谷女子高登山部は飯豊連峰南部縦走を計画し、付添を他の顧問に譲った私はこの夏の山行予定が空いた。めったにないチャンスだった。梅雨明け10日が私に微笑んでくれるだろうか。

1988.7.27
本庄06:37=高崎06:56/07:10=篠ノ井09:20/29=松本10:29/59=信濃大町11:41/12:45=扇沢13:40――大沢小屋15:20
駅について汗びっしょり。高崎駅まで汗引かず。高崎発長野行は混んだ。座れたが、目の前の通路には女子高の登山部のミレーザックが5個並び、彼女たちが座れたのは中軽井沢を過ぎてからだった。そこまで全く姿を見せていなかった浅間が追分を過ぎるあたりから、青空の下に雄大な姿を見せる。懐かしさ一入。今回の山行に良い予感。
篠ノ井線は空いておりボックスにひとりずつ。かつて見たと同じくクルマユリとキスゲが美しく目に点じて過ぎていく。告げる人なし。一人旅の感しきり。「山を思へば人恋し 人を思へば山恋し」とは『たった一人の山』の浦松佐美太郎だったか。
大糸線から見る北アルプスは山腹より上が雲の中。2年前白馬からの帰りに見た、夕陽の中にシルエットに連なった山並みがイメージに懐かしく浮かぶ。途中から餓鬼岳、爺岳、鹿島槍ヶ岳が姿を現す。ボックスで一緒になった老夫婦と山の話をしながら大町へ。扇沢行のバスは黒部湖行の客ばかりで、登山者は私ひとりのみ。
ターミナルから意気揚々と歩き始めたものの、30分すると汗が噴き出て續かず、トレーニング不足を痛感する。クーラーの下で転寝して風邪をひいたのも原因ならん。針ノ木峠までの予定は思いもよらず、大沢小屋でダウン。幕営名簿は今シーズン7,8名のみ。今日は人影なし。夜に入り激しい雷雨となる。


                                          
1988.7.28
大沢小屋発07:50ー針の木雪渓取り付き08:20ー針ノ木峠天場11:40
4時に目が覚める。以前として雨激し。天幕内は水浸し。起きる意欲出ず。急場しのぎのトレンチ掘り。雨は次第に間歇的になり、小降りの中で小鳥の声が聞こえ始める。それを聞いているうちに、間近に聞くメボソムシクイの声におもしろい特徴を発見した。初めは美しい声とのみ聴いていたが、そのうちその声が、「クダロカナ クダロカナ クダルッ」「ノボロカナ ノボロカナ ノボルッ」と繰り返して囀っているようになった。自分の心を反映して、ある場合は「クダロカナ」になるかと思うと、また「ノボロカナ」にもなる。なかには最後に決心するかのように締めくくらず、未練がましく「クダロカナ」「ノボロカナ」のまま終わるものはある。ふだんゼニトリゼニトリと聞いていた鳴き声をこのように聞くのは初めて。聞く側の心のありようを露骨に反映する鳴き方ではあった。
そのうち天場のすぐ下の道を雨具に身を固めた人たちの姿が通り始めた。小屋に行ってみるとかなりの人数が休んでいる。船窪方面に行くという単独行の男を見てやはり出かけようと決心がつく。但し今回の体調では蓮華岳コースではなく種池コースにせざるを得ない。雨で重くなったテントを撤収し7:50出発。雪渓にかかって、雨は時折降るだけとなり、やがて晴れる。振り返れば爺岳の屹立する姿が美しい。但し足は重く、雪渓上部に来た時はほとんど気息奄々。針ノ木峠に午前中着いたものの、蓮華岳往復の気力もなく、ウイスキーを含みつつ、スケッチブックに鹿島槍・白馬方面と燕・槍方面を一枚ずつ、それなりに楽しい。すっかり晴れ渡った空の下、懐かしい山々を一つ一つ確認しつつ、次回はトレーニングを怠らず蓮華コースへ来ようと決心する。スケッチ2枚目は、手前が鳴沢岳、中央が鹿島槍ヶ岳、右が爺岳。スケッチ3枚目は、左に燕岳から大天井へのアルプス表銀座、右に烏帽子岳からの裏銀座、奥に槍・穂高。
天場は高校生のパーテイが夜遅くまで騒がしい。山のマナーが忘れられている。以前なら怒鳴ったものだが、最近は諦めの気持ち。満月の光にテントを照らされて眠る。


                                                                                            
1988.7.29
針ノ木峠天場05:01ー針の木岳05:47/57ースバり岳06:33/50ー赤沢岳08:16/49ー鳴沢岳09:30/10:00ー岩小屋沢手前ピーク11:17/12:00ー種池天場13:25/13:35ー種池小屋14:03ー種池天場14:30
4時起床、5時出発。天場にはもう誰もいない。昨日の体調から考えて不安を抱きながら針の木への急登にかかる。しかし今日は体調良し。標準時間より早く頂上に着く。立山・劔が目の前に大きく広がり、15年も前に辿った針の木谷が深い。平の渡しから五色が原へ登った日が思い出される。目を転ずればこれから向かう爺岳方面が大きくうねっている。オレンジを食べ、早々に出発。初めの下りの両側のガレがすさまじい。前後して歩く大学生4人のパーテイは白馬から日本海まで行くとのこと。時間にとらわれない姿が羨ましい。スバり岳、赤沢岳も快適に過ぎ、鳴沢岳で中年4人組の男女のうちの女性から「ひとりでよく来られますね。」と声をかけられる。無精ひげの白く光る顔はずいぶん爺くさく見えたのだろう。一人のんびりとスケッチ。白馬から鹿島槍・爺ヶ岳が一望され、一つ一つの思い出がよみがえる(スケッチ1枚目)。道は黒部側を歩く部分が多く、風が冷たく汗をかかずに歩ける。空にはすじ雲が流れ、秋の気圧配置と同じよう。信越乗越手前の雪田の雪が喉にしみて美味かった。信越乗越山荘前で短パンに代えたころからエネルギー切れ。岩小屋沢岳手前のピークが緑も美しく、昼食を取ろうとしてつい誘惑に負けウイスキーを飲んでしまったのがいけなかった。途端に足がふらつき始めペースが落ちる。種池のキャンプサイトまでが長かった。種池小屋で改めて生ビールをジョッキに2杯、なんともうまかった。天場にもどって針ノ木岳と針ノ木雪渓をスケッチする。
種池の天場は今日は静かだ。ぐっすり眠る。

                                             
1988.07.30
種池天場06:07ー種池小屋06:25/40ー扇沢08:30/09:05ー扇沢バスターミナル09:20/30=大町10:10/20=松本=篠ノ井=軽井沢=高崎=本庄
4時半、目が覚めてベンチレーターを開けたとたん、目の前にベンチレータいっぱいの大きな満月に対面、うれしかった。
今日はもう下山。雷鳥の親子と登山道を共にし、爺岳に未練を残しつつ下山路へ。朝のヘリコプターが勇壮だ。扇沢で身体を拭い、生き返った気持で帰路へ。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1968.07.21-27 夏山合宿 ブナ立て尾根 – 剣岳

この夏山合宿の記録に期日は7月21日から7月27日とある。計画表では28日まで、8日間である。埼玉県高体連山岳部の規則では合宿は7日以内となっていたが、熊高山岳部はこれを山中7日間と解釈して前後の列車・バスは日程に入れなかった。もちろん拡大解釈である。それが通ったのは、これまでの実績を認めてほしいという吉川先生の要求があったからなのだろう。黙認されたようだ。
熊高山岳部の「テンノウ」と異名を持つ吉川敏夫顧問は県下で最も早い時期に山岳部を創立した男で、規則に縛られることを嫌う詩人肌の人であった。私は高校で氏の教えを受けたが、まず思い出すのは、当時畑の中の学校だった赤甍校舎は春になると牛糞を鋤きこむ匂いが漂ってくることがあった。そんなある日、授業中みんなが「くせえな」とこぼしていると吉川氏いわく「風薫る五月というでしょう。これですよ。」と平然とリーダーを読んだりしていたものだった。はからずも山岳部で同じ顧問となり、授業中には見せなかったいろいろな面を知り、特に山への愛情などを学ぶこととなった。私に山の魅力を教えてくれた町田瑞穂氏は本庄高校で山岳部を立ち上げた人だったが、同じ年代の人だったようだ。その世代の教師たちが高体連山岳部顧問のリーダーとなって、各校山岳部・ワンダーフォーゲル部・登山部の顧問研修会をもってくれた。私は12月の富士山での冬山訓練で、大根おろしのような氷の雪面で滑落停止の練習を繰り返し、オーバーズボンやヤッケをぼろぼろにしたことを覚えている。
また,地吹雪の中、吾妻連峰をスキーで横断し、小さな温泉小屋でどぶろくで深夜まで語り合ったことも・・・そのほかその後の顧問としての気構えや技術的な自信を授けられたことが大きな財産となっている。
今回その吉川氏と同じく先輩顧問の松井氏にいわば夏山縦走見習のような形でつれられて出かけたのがこの夏山合宿であった。松井氏は身体は細いが全身ばねのような体力を持っておられた。秋田の高校から転勤してきて、スキー部の顧問も兼ねていた。

1968.07.21
熊谷駅0:24=(信越線・篠ノ井線・大糸線)=信濃大町9:28/10:00=(バス)=七倉11:00ー濁沢幕営12:35
バスを降りてから炎天下を歩く。トロッコの軌道が延々とつづいてその上を歩くのが暑かった。高瀬川に造られるダムの工事のための軌道だろうか。私の持つ5万分の1「槍ヶ岳」は、1961年版にはまだ高瀬ダムはなく、1986年版には記載されている。調べて見ると、高瀬川には上流から高瀬ダム、七倉ダム、大町ダムと三つのダムがつくられている。初めの二つは着工1970年、完成1979年とあるので、我々が歩いたトロッコ軌道はそのための資材を運ぶために設置されたものであろうか。
また高瀬川の最上部は三俣蓮華岳に突き上げる伊藤新道である。1961年版には槍ヶ岳への登山路が2本記されているが、新しい版には消えている。ダムの出現が山へのアプローチを変えたようだ。
ともあれ、1時間半の行軍で、濁沢の出会いに着いた我々は、夜行の疲れもあり、明日のブナ立て尾根を控えてもあって、ここに幕営することとした。

1968.07.22
2時に起床。星空が美しい。いよいよ北アルプスの縦走路までの登りの日だ。1300mから2551mまで1200m差の急登に挑む。
4:20 あたりが白む中出発。つづら折りの急登が続き、8時には腹が減りみなバテる。Hが遅れだす。2208mの三角点で休憩。10:30ようやく稜線に飛び出す。烏帽子分岐だ。庭園のような風景の中を烏帽子岳へ。雪渓の水が冷たくなんとも美味。11:30山頂着。のんびり12:00まで休憩する。頂上よりの展望は、針の木、船窪、蓮華、三つ岳、野口五郎、水晶、赤牛、薬師、五色が原、立山三山、剣等と360度、興奮する眺めだ。それぞれ雪渓が美しい。スケッチを済ませ烏帽子小屋へ向かう。13:00烏帽子小屋下に幕営。水場はなく、小屋で50円/ℓで買う。テント横より燕・槍・穂高が目の前だ。

1968.07.23
夜空の下に大町の灯が美しい。4:15出発。今日は雲の平まで。稜線歩きは楽しい。快適に歩いて三つ岳に5:10.そのまま野口五郎岳6:55/7:20.野口五郎岳の五郎とはゴーロ(岩がごろごろしている場所)の意という。さもありなん。10:10/45水晶小屋で昼食をとる。時間がなく水晶探しは後日としよう。なだらかな稜線を辿り、左下に鷲羽池を小さく眺める場所で右折して祖父岳経由雲の平へ。五色が原のような平坦な草原をイメージしていたが、傾斜もありハイマツが近くまで迫っている。黒部の源流は小さな雪渓だった。ハイマツの緑と映じ合って美しい。12:25雲の平山荘の手前で幕営。目の前に黒部五郎岳が大きい。テントの中よりスケッチする。水が冷たい。

1968.07.24
今日のコースは、まず雲の平から黒部川を渡る。対岸の稜線に出ればもう立山連峰だ。裏銀座の山々とお別れだ。
4:45雲の平幕営場(と言ってもどこへでもテントを張れるほど広かった。)を出発。2463mの三角点を過ぎてもなだらかな下りだったが、そこから15分で黒部の谷に向かって急降下がはじまる。
7:08薬師沢出会いで黒部川を渡る。黒部川はここからわずか行くと両岸切り立った断崖となり、上の廊下、下の廊下へと続いて行く。我々は薬師沢の谷に入りしばらくなだらかな登りとなる。8:45薬師沢を過ぎると登りが一気に急となる。わたしはここでエネルギー切れとなってしまった。足がどうにも上がらない。見かねた松井氏が非常食のチョコレートを出してくださった。不思議なことにエネルギーが充填された感じで足が進む。部員たちも限界に近い状況となる。稜線近く傾斜が緩やかになったところで1時間の大休憩を取り昼食とする。
今日の予定は薬師避難小屋までだったが、幕営地がないと告げられ、太郎小屋の先のコルで幕営とする。11:35になっていた。顧問とOBは雪渓で冷やしたビール。OBのO君のもってきたコーヒーが何とも言えず美味。此処は折立峠から入る人たちが多く、テント村は盛況。夜いつまでも煩かった。彼らの中には空身で薬師を往復するものが多い。
ミーテイング時の今日の反省。下りの後の登りはきつい。下りでエネルギーを使ってしまってはいけない。登りのためのエネルギーを確保しておかねばならないー身にしみて感じたことだった。明日は薬師越え。でっかい山だ。

1968.07.25
今日から立山連峰に入る。立山、剣までまた長いコースとなる。
4:00出発。朝焼けの薬師岳を目指す。期待通り6:07頂上到着。右手に大きな圏谷群が黒部の谷に落ち込んでいる。スケールの大きな豪快な景だ。20分休んで、北薬師を目指し白い花崗岩の砂礫の中を進む。北薬師7:10/20。ワンピッチで間山へ。ここで35分間昼食をとる。ここまでは順調だった。2200mのスゴ乗越から越中沢岳の登りでTがバテる。急な登りが続く。今日は沢岳手前、スゴの頭とのコルでビバークという声もあったが、そのまま行く。五色までの決意で。越中沢岳到着13:08。少し多めの休憩をと思っているところに雨が降り始めた。急いで出発する。いやな登りだったが頂上からの下りはなだらかだ。ガスの中すぐに快適な場所に出た。13:45五色は目前だが今日はここでビバークすることに決定。ガスが晴れて、振り返れば沢岳が高く、薬師が大きい、雪渓の水が冷たく、人影はなし。

1968.07.26
出発4:45.昨日の続きのなだらかな下りの後、鳶岳の急登へ。5:45頂上着。ここで昨年南アルプスで会ったという同志社大の女子パーテイに合う。10分休憩の後五色が原へののんびりした下り。いつか来た道。五色が原の流れには氷が張っていた。1日寝そべって空を眺めていたい気分。ザラ峠に急降下して向う側へ登り返す。獅子岳の急登でエネルギーを使い果たし、空腹のためダウン。鬼岳頂上は巻いて東面で昼食とする。8:25ー55。1時間で竜王岳を越えて一の越着。10:00発。ここからが苦しかった。立山の雄山・大汝・富士折立の三山、さらに真砂・別山をOBにハッパをかけられつつ一歩一歩。剣御前に13:00、一の越から3時間かかっており、13:20剣沢についた時は食欲もなくなっていた。これまでこんな長い山行を経験しなかった自分にとっていい試練となった。しばらくしてようやく元気になり、目の前の剣岳をスケッチ。豪快な岩の殿堂だ。剣沢も大きい。下って行けば秘境と言われる仙人池に行ける。池に映る剣岳を見てみたい。
明るいうちにシュラフに入ったが、21時頃より台風のための烈風が吹き始めて目が覚める。明日が心配だ。

1968.07.27
強風が吹いている。剣岳登攀は断念して下山することに決定する。朝食を取りテントを撤収して5:50出発する。剣岳は学生時代に3人の仲間と訪れ山。アタックザックで行動できたのにと未練が残る。剣御前小屋に登り返して、雷鳥沢を走り下りる。みくりが池手前で、昨年まで勤務していた川越女子高校の楠川、小峰、永瀬の3氏の引率するパーテイに会う。在任中登山部を作ろうと話し合ってきた実が結んだのだろう。祝福して別れる。
室堂からバス。とうとう終わったという感慨しきり。下界はやけに暑く、風もなかった。10:36富山発の北陸線で熊谷へ。

一人分経費
列車  熊谷ー大町    860
富山ー熊谷   1,600
バス  大町ー七倉    150
室堂ー富山    970
食費          1,800
幕営料・水        500
計           5,880
他に個人として 富山駅での鱒ずし 300

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1987.05.03-05 雪を踏んで平ヶ岳へ

尾瀬から平ヶ岳へー残雪期のみ可能なルートであることを、いつ誰から聞いたか記憶に定かでない。もしかすると先輩の吉川氏からかもしれない。そうするともう10年も前の話だ。これも10年前利根川の源流に憧れて、越後駒ケ岳から中岳、大水上山とたどって大きな雪田に辿りついた山行の中で、大水上山の尾根伝いのすぐ手の届くところに平ヶ岳を見た時の感動がずっと生き続けていること。さらには、かつて銀山湖経由でたずねた平ヶ岳が懐かしい山として思い出されること。それらが重なって、ここ何年もの間憧れの対象となっているルートだ。
残雪の季節、そして3連休が必要という条件を考えると、今年5月の連休は絶好のチャンスということで昨年から心待ちにしていたルートだ。大水上山から見た日の感動を共有する友と再び歩けることになったことも楽しい。75ℓのザックを新調し、九州付近の日本海に低気圧が二つあるのを気にしつつ眠る。

                                        
1987.5.03
沼田駅はいつも通りの混雑。戸倉から鳩待へのバスは終点手前で道路わきに駐車した自家用車の列のため先へ進めず。鳩待峠まで小雨の中を歩かされ山の鼻に下る。雪の上をパンプスを手にストッキングの足で下る女性もあり。家族連れはほとんどズック靴。
山の鼻で昼食を取り、13:20出発。猫又川流域を目指す。連休の混雑が急に消えて、ガスの中雪原が続く。山スキーで降りてくる人たちが多数、平ヶ岳からの帰りなるべし。左岸から外田代を目指す予定を変更し左股の右岸を辿り、アーチ形の倒木を頼って沢を横切りそのまま尾根に出て、雪の上に天幕を張る。コメツガの林からブナ林に代わる境目。雨止みやや風あり。ガスの中から山スキーを付けた初老の人たちのパーテイが下りてくる。「平ヶ岳だと思うけどガスの中で分からなかった。」との言。明日の天気に期待をかけて眠りにつく。

1987.5.04
夜中の月明かりが保証してくれたように朝の青空が美しく7:00出発。ブナ林の急登から始まる。雪の調子は良く、アイゼンが気持ちよく食い込む。振り返れば至仏山にガスが晴れ行くところ。尾瀬ヶ原外輪山の大白沢岸壁の左へ出るつもりが、トレースをたどるうちに右肩へ出た。稜線へ出ると強い風にあおられる。頂上下をトラバースして反対側の尾根筋へ。平ヶ岳が彼方に大きく我々を迎えてくれる。あそこまで行く。順調に下って白沢山へ。山頂で平ヶ岳をバックに写真撮影。緩やかな登降の稜線を楽しく辿り、最後の雪面を詰めると、そこが広大な平ヶ岳山頂だ。11:45。名前のとおり廣い平らな山頂部だ。こんな地形が浸食も受けずにそのまま残っている。どんな固い溶岩が盛り上がったのだろうか。かつて訪れた越後中岳、大水上山のピラミッド型のピークが五月の陽光に白く輝いてわれわれを迎えてくれた。至福のひと時がそこにあった。

一等三角点は低いブッシュに囲まれておりその中で昼食。眼前にはいつもと反対側を見せる燧ケ岳と、その左に会津駒ケ岳の長い稜線、眼下には台倉尾根が大きくカーブして下っている。夏の日、あの台倉尾根を喘ぎながら登って来て、とうとう途中でダウンして尾根の最後のテラス(ちょっとした平らなスペース)にビバークのテントを張った。翌朝下ってきたパーテイのリーダーが、「ああこういう手があったか」と羨ましそうに眺めた。無理して池の岳まで登ったのだろう。もう18年前のことだ。その翌日、池の岳でにわか雨に襲われて急遽テントを張ったが、脇の湧水が鮮烈だったことを思い出す。その池の岳がすぐ眼の下だ。そこまで行きたいとの思いしきり。
私たちだけだった頂上に若やいだ人声が近づき、われわれは下山することにする。広い頂上直下を南にトラバースして稜線へ。二、三のパーテイに合うも皆山スキー。ただしアップダウンはかなり急で、皆スキーを外して行動するものばかり。アイゼンで歩くのが確実だ。大白沢コルに向かう最後のピークで振り返って平ヶ岳をスケッチ。あの頂上に立った。あの斜面で休んだ。あの稜線はクラストしていた。描きとっていくポイント一つ一つが懐かしく、いとおしい
大白沢山からは林の中。五月の暖かな陽光を受けて、所々グリセードもまじえて快適に下り、15:45小さなテントの待つブナ林に帰着。憧れの山行が終る。
スケッチ下は18年前の1969年夏、平ヶ岳台倉尾根ビバーク地点より尾瀬燧岳。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1972.08.03-11 大雪-十勝 雨の笹原ヒグマがこわかった

1972.08.03
すでに半世紀以上昔の話だが、私は中学時代の社会科で日本地図、世界地図を描くのが好きだった。日本の地形図で平野と山岳を塗り分け、名称を書き込んでいく――それはまだ見ぬ世界へのあこがれを私の心の中に育てたのかもしれない。北海道の中央を背骨のように走る大雪山系・日高山脈もそのひとつだった。
特に『日本百名山』で
  私が旭岳の頂上に立った日は絶好の秋晴れで、大雪・十勝・石狩の連山はもちろん指呼の中にあり、遠く、阿寒・知床や、天塩や、夕張や、増毛や、北海道の主
  な山をほとんど眺めることができた。(大雪山)
  トムラウシを眺めて初めて撃たれたのは十勝岳からであった。美瑛富士の頂上から北を見ると、尾根の長いオプタテㇱケの手前に、ひときわ高く、荒々しい岩峰
  を牛の角のようにもたげたダイナミックな山がある。それがトムラウシであった。それは私の心を強く捕らえた。あれに登らねばならぬ。私はそう決心した。
  (トムラウシ)
と書いた深田久弥の文章は私の頭に残って、とくに「あれに登らねばならぬ」の一句は其の後の私を多くの山へ誘う言葉となった。
この北海道の山を選ぶにあたって、一人で心細かった私は、同じ山岳部の顧問の新井氏に同行を打診した。氏は快く応じてくれこの山行が実現した。なおこの年私は合計40日間山に入り、生涯もっとも多く山とともに暮らした年となった。

1972.08.04
タクシーの中から黄の花が夕闇の中に浮かぶ。未だ旅情なし。あったとすれば連絡船より見た下北半島の姿。旭岳ロープウエイ乗り場横の天場にテントを張る。

1972.08.05
ロープウエイで初めて目に触れる高山植物の群落。エゾコザクラの濃いピンクが美しい。姿見の池で旭岳を眺め、頂上を踏んで、白雲岳へ。トラバースルートから頂上へピストン。14:15から15:15。20分で白雲石室の天場着。
15:30 200m下の沢にヒグマ出現。石室に北大ヒグマ研究班のメンバーが滞在していて、彼らに危険なので小屋に入るようにと言われテントを撤収する。駆け上がってくればこのテントサイトまで2・3分だとのこと。ヒグマは雪渓を渡りハイマツの中へ。また出てきてコバイケイソウ、エゾフウロを食べつつ約2時間。両肩に白く光る毛を持つ熊で、3歳熊ならんとのこと。

1972.08.06
激しい雨と風。雨は10時ころまで。停滞日としせめて松浦岳までと出かける。吹き飛ばされそうになりながら辿る。13:00忠別小屋まで行くと出発する人あり。

1972.08.07
風は依然と激しく、その中を出発する。高根が原は素晴らしい散策道だ。切り立った断崖の縁に沿って歩く。吹きちぎられ痛めつけられたコマクサをよけつつ歩く。所々に池塘がある。昨日無理して出なくてよかった。
 忠別岳頂上手前で休憩。こんな場所を家族で一日遊びたい。妻も息子もまだ知らぬ世界だ。ガンコウランの白い花がいとおしい。
忠別の頂上に立った途端、目の下に一面緑の草原が広がり、中央に深い青の沼が輝く。忠別沼だ。其のほとりを素通りするに忍びず休憩。レモンの味、忘れられず。空が青い。水が青い。快適に歩く。
五色を過ぎればハイマツ帯。ヒグマの心配をしつつ鈴を足に付け、ひたすら歩いて化雲岳に12:35着。15分休憩。13:50ひさご沼へ。
ひさご沼。夕暮の中にキスゲが夢のごとく浮かぶ。

1972.08.08
05:40発。白雲小屋の出発の朝初めて見た憧れのトムラウシ。昨日は遠く霞んでいたが、宝冠のように見える頂きは、近づけば岩山だった。08:45山頂に立つ。周囲に溶けきれない雪が青白く水に浸る沼を持った素晴らしい山だ。特に頂上を過ぎたところに雪渓を浸して静まり返っていた水の青さは忘れられない。至福の時間が流れる。訪れてよかった。
そこからのんびり下り、右手に黄金原と五万図に書かれた広大なハイマツ帯を見ながら、スマヌプリを12:45通過。さらにコスマヌプリというアイヌ語でどんな意味なのか分からぬながら心惹かれる丘のような頂を経て、17:00トムラウシとオプタテシケの中間地点双子沼を過ぎたところで幕営する。おもしろいのは五万図ではこのあたり4・5キロにわたってオプタテㇱケ山という表示が書かれていることだ。オプタテㇱケ山というのは広大な山塊なのだろうか。
ハイマツと草原の混在する場所は辺りに人影は全くなく、小雨の中今にもヒグマが出てきそう。トランジスタラジオを取り出し、ボリュームを最大にして眠りにつく。

1972.08.09
07:50出発。とがった槍のようなオプタテシケを目指す。一面の乳白色の中に沈んでいた二子沼が、少し登ると目の下に白く光って見える。ひどい道ではある。ただ、今日の登りは確かに厳しいが、ぐんぐん高度を稼げるのは楽しい。途中20分の休みを入れてなんと1時間20分でこちらのピークに立った。
5時間半のコースタイムなのにとしばらく半信半疑。喜びはその後に来た。辿ってきた大雪の山々が大きい。ここからは十勝の山に入る。大雪よさよなら。美瑛の登りは新井氏が先に立った。14:10頂上に立った新井氏の歓声が私には他人ごとに聞こえる。私は美瑛の赤い溶岩の固まった非生命的な光景になじめないのだ。
14:50美瑛と十勝岳とのコルでビバークと決める。緑のない非生命的な世界だ。

1972.08.10
06:00発。苦しい礫の道を一気に登って十勝岳へ。0
07:00頂上へ。ここも好きになれぬ山だ。2時間コースを1時間で歩く。鋭くとがって聳える十勝岳は、昨日ガスの中に霞んで眺めた姿よりあっけなく踏破された。
そのまま上ホロカメットクから富良野岳へとの計画を断念する。噴火の爆発音の頻発に不安となったのだ。もしかすると自衛隊の演習場か何かあるのだろうか。また、ガスにまかれたこともあって、08:00トラバースルートを取るべく引き返す。新噴火口の噴煙は猛烈だった。命がけといった気持ちで噴煙のルートに突っ込みかすかに判別できる礫の道を走り下る。新井氏のせき込む声が後方に聞こえたが振り返るゆとりなし。10:35望岳台で一息つく。新井氏も無事だ。そのまま白銀温泉へ。白銀温泉ホテルで入浴。一つの大きな山行が終った。その余韻が温泉の湯のひびきにこもる。

小樽付近の車窓からの夕焼けが旅の終わりを飾ってくれた。明日は家に着く。息子を抱き上げよう。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: