2022.01.15 山と犬

井上靖の初期の作品『猟銃』にはハンターの紳士に従う猟犬が登場する。宮沢賢治の『なめとこ山の熊』にも小十郎の伴侶のような「たくましい黄いろな犬」が。前者は洋犬のイメージで、後者は秋田犬かとも思うが宮沢賢治の頃に秋田犬はいなくなってしまっていたかもしれない。とすればアイヌ犬か。ともあれこれらは役割を持った犬である。
これから書く犬は私が山へ一緒に行った犬であって、狩猟用ではなく、友だちの関係というべきか。私は中学生の時迷い犬がわが家に來て以来、常に犬と一緒だった。山に連れて行ったのも親友と一緒に山登りをする感覚だった。その中で幾つもエピソードが生まれた。そのうちのいくつかを。

クロフは一晩中私たちを見守ってくれたー磐梯山
浅間の石尊山での話。南尾根に出る直前の藪でクロフと名づけた犬がいきなり吠えだしたかと思うと、3メートル先の藪の中からカモシカが飛び出して、目の前をビービーと啼きながら走って横切り尾根を越えて姿を消したことがあった。以来もし熊がいたら知らせてくれるかもしれないという期待を持つようにはなった。しかしこれもあまりあてにはならないかもしれない。追分が原の林道で会った夫人は、シェパードを連れていて、しばらく立ち話をしたが、熊の話になった時、「私はこの林道で距離はかなりあったけど熊に出会ったことがあります。でもこの犬は何の助けにもならなかった。仕方なく私がわんわんと吠えたのよ。」と言った。わが愛犬もじっと見つめたまま吠えるのを忘れてしまうかもしれない。ただ、犬は私が寝転ぶとすぐ横に來て、わたしを守るようにきちんと坐って周囲を油断なく見わたすのだ。
そんなクロフを連れて家族で磐梯山に登ったことがある。北側の湖沼群をいくつか廻って登山道近くにテントを張り、翌日頂上を往復した。クロフは後になり先になりして嬉しそうに歩いた。
問題はその後、無事下山して駐車場に着き、さあ帰ろうと出発した時のことである。クロフは床に座ったかと思うとそのまま横になって前後不覚に眠ってしまったのだ。しかもいびきまでかいて。子どもも妻も私もあっけにとられてしまった。はじめは小一日山を歩いたので疲れたのだろうと思った。でもまだ3歳、疲れる歳ではない。やがて気付いた。クロフは夜初めての土地で私たちを守るつもりでずっと眠らなかったのだろうと。たぶんいろいろな音や声や足音が聞こえて、眠れなかったのでもあろう。車の中に入って、ああもう安心だと判断した途端、緊張がゆるみ、前後不覚になったのだろう。私は子どもたちに説明し、クロフを改めていとおしく思った。クロフは家に着くまで目を醒まさなかった。

犬は水を嗅ぎ当てる—弥陀ヶ城谷
浅間を南から眺めると真正面に深くえぐられている場所が迫る。その最上部にある大岩壁が弥陀が城岩とよばれている。浅間のもとになった火山は仏岩火山というそうだが、その仏岩火山が昔の姿を現わしているのではないかと私は勝手に想像している。いかにも爆裂口の火口壁というたたづまいなのだ。以前は全く人の姿を見ない谷で、山ウドの宝庫だった。今は狙う人が多くなって、大きく育つ前にほとんど拔かれてしまう。本当は切り取らないと株がなくなってしまい翌年出てこないのだが、そういう配慮もなくなってしまったようだ。
谷は最後急斜面となって前掛け山を横切って頂上に伸びている。歩いていける最上部が弥陀が城の岩壁だ。その基部の草原に腰を下ろしてビールを飲み、コーヒーを落として、最後寝転んで青空をとんびの舞う姿を眺めるというぜいたくな時間を味わうことができた時代があった。
そんな時に伴侶となるのが愛犬だった。今は山の生態系が崩れるということで連れていけなくなったが、当時は犬も樂しい時間を過ごしたのだろう。その頃ツェルトを持って谷の岸の上の緩斜面に一晩過ごしたことがあった。弥陀が城行その時の愛犬はアサマだった。崩れる岸の壁を登ると草原にミヤマハンノキの疎林が広がっていて、一晩過ごすのに最高の場所だった。アサマがいなければ熊が心配で幕営はできなかったと思う。いつか天狗の露地の手前で出会ったパトロールのおやじさんは、こちらに気付かずに近附く熊を見て恐怖にかられ、持っていた枝の先に付けた鈴をガランガラン鳴らしたところ、尖った鼻を真上に突き出して匂いをかいだ熊はそのまま向きを変えて去って行ったという。昔はソロテントでも熊の心配はしなかったのに、熊が増えたのだろうか。この日、ミヤマハンノキの下にツェルトを張っていると、となりでアサマが何やら砂に鼻を押し付けて匂いを嗅いでいる。「どうした」と聞いてもやめない。そのうち前足で砂を掘り始めた。4・5cmも掘ったところ驚いたことに下から凍った雪の層があらわれた。「えーっ」と言っているうちアサマは上下の前歯でガリガリと雪を齧り始めた。すごいと感心してしまった。「ダーウインが来る」でアフリカ象が乾季の砂漠で水を掘り当てる景を見たことがあるが、犬も同じ能力を持っていると認識した。考えてみると、朝家を出て以来水を与えたのは昼食の時だけだ。人間が大丈夫なのだからと軽く考えていて、アサマには可哀想なことをしてしまった。それでも動物の生きる本能の確かさを目の当たりに見た日であった。

迷った犬は私も見附けて飛びついてきたが・・
アサマは出自が不明である。息子が利根川で拾ってきて、マンションでこっそり飼っていたのだが結局飼いきれなくてわが家に來た犬だ。浅間山が大きく見える場所だったのでアサマと名付けたという。
我が家に来て初めてうさぎと面会した時、うさぎは恐怖に駆られてケージの中を夢中で走り回ったが、何日かすると慣れて、金網越しに鼻をくっ付け合って挨拶するような友好関係になった。
その犬をつれて妻と赤城の荒山高原に出かけたことがある。荒山は頂上まで樹林帯で景観には恵まれない。ただ鍋割山との分岐は高原ようの広場になっていて、レンゲツツジが美しい場所だ。頂上を往復し、レンゲツツジの間を逍遥して昼食のビール・ラーメン・コーヒーを済ませるともう下るだけだ。犬は下ることを雰囲気で察するようだ。今日は誰にも会わないからと、アサマの引き綱を外したところ、アサマはうれしくて辺りを走り回り我々の先に立って道を下った。
下り道が途中で分岐していた。アサマは何のためらいもなく左の道を走って降って見えなくなってしまった。右の道を選ばねばならないのにと気づいた時はもう口笛を吹いても聞えないのだろう、戻ってこなかった。気がつけば戻って後から追いついてくるだろうと、あとを振り返りながら登山口まで下ったが姿を現さない。しばらく待ったが空しかった。仕方ないから私だけあの分岐まで行ってこようと話し合っていたところ、男性が1人上から下りてきた。「犬を探しているのでは。」と言い、「分岐の所で座っている犬がいて、呼ぶと後ろに下がってしまう。利口な犬だね。」と教えてくれた。私は礼を言い、半分走りながら時々口笛をふいてみた。かなり響いたと思うが反応がない。20分ほどで分岐まで戻った。するとそこにアサマがきちんと坐っていた。「アサマ」と呼ぶとはねおきて、私に飛びついてきた。ぴょんぴょん跳ねて私の身体を確かめたかと思うと、急に何事もなかったかのように辺りをうろつきはじめた。私は少々あっけにとられたが、ふと同じような情景を何かで読んだことを思い出した。志賀直哉の小説だったろうか、はぐれた馬の親子がようやく出会えた時、母親に身体をぶつけて喜びを表していた仔馬が次の瞬間何事もなかったかのように草をはみだしたという景。人間と動物との違いということなのだろうか。アサマは今度はあまり離れずに登山口まで下った。


オオカミ犬の末裔アサマⅡ
 アサマⅡは甲斐犬雑種一代で、4か月で岡部の知人から我が家にやってきた。甲斐犬が川上犬・秩父犬・十石犬と同じくオオカミ犬であることを後で知った。甲斐犬3頭をシカ・イノシシ駆除のため奥秩父の山中に放ったところ、うち1頭は山梨の我が家に戻ってしまったという話を畏友のJ氏が語ったことがある。かつてシベリアオオカミの遠くを見つめる眼差しにとりこになった私はオオカミに関心をいだいていた。アサマⅡはもう山へ連れていける時代ではなくなっていたが、雪の降りしきる朝、元小山川で一緒に戯れたりした。夏の夕べ雷鳴にパニックになって、抱きとめようとした私の手に嚙みついたこともある。野生味の強いこの犬が我が家の犬の最後になった。ここに写真を掲載して「山と犬」に仲間入りをさせてやりたい。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1974.05.04-06 足拍子岳 土樽の谷が埋められた


足拍子岳1480m
此の足拍子岳というおもしろい名前の山は、上越線土樽駅に降り立つと真正面に出迎えてくれる山である。双耳峰の美しい山容で、新人歓迎合宿(新歓)の季節は山腹に濃いピンクの山桜が何本も咲いていて、山の季節を感じさせてくれる。
この絵がいつ描かれたかの記録が落ちている。特定することはできないか。手掛かりが見つかった。
新人歓迎合宿は、ベースキャンプまでは毎年同じルートである。駅から線路伝いに毛渡沢を渡る。新人はここで最初の恐怖の場面を経験する。鉄橋を渡るのだが、線路上は万一列車が通ったら逃げ場がない。線路わきに保線用の幅50cmほどの板が敷設されている。その上を渡っていくのだ。一度ならず列車と遭遇してしまったことがある。大きなザックを背負って、列車に引っかからないよう板の上にしがみ付く。列車がその横を轟音を立てて次から次へと通り過ぎていく。よく無事だったというより、よく問題にされなかったという思いが残っている。
こういうことをしたには大きな理由がある。当時、近道をしない場合、駅から車道に出るには、50mもあるような急斜面の階段を降りなければならない。むかし蓬峠を訪れた道だ。今回は蓬峠への道と反対方向に向かう。40kgもあるザックを担いで、山道を行くのはまだしも、車道を延々と歩かされるのは何とか避けたいという思いからだ。
ところが、途中から様子が変わった。来るたびに急坂が埋められて、とうとう駅と車道が同一平面になったのだ。初めのうちはなんだかわからなかった。ちょっとしらべたら、新幹線のトンネルの廃土だったのだ。上越新幹線は1971年に起工して、1982年に開業している。土はこの間にトンネルから運び出されて谷へ投棄された。いっぽうこの絵は駅前からのものでなく、日白山の頂上で休憩しているときのものであることは記憶に確かだ。
ベースキャンプ到着する。周りはまだ厚い雪に覆われていることもあるが、多くは雪が消え始めてそこにイワウチワのピンクの花が何とも言えず可憐な姿を見せていることが多い。顧問は途中で摘んだフキノトウやコゴミをさっそく痛めて酒のつまみとする。新入生は初めての雪山を明日に控えて緊張しており口数も少ない。
ベースキャンプでの二日目は周辺の斜面でワカンやピッケルワークの練習をおこなう。バランス歩行や滑落停止など冬山登山の準備などは今しかできない。グリセードでピッケルを太ももに突き立ててしまったケースも出たりした。三日目は、仙の沢を見下ろしながら平標山までナップザックで往復することもあり、そこからさらに仙の倉まで足を延ばしたこともある。もちろん雪の状態によって途中までのこともある。そんな中、記録では、新幹線の起工から開通までの期間に日白山を目標にした年が一度だけある。それが1974年だ。下りの尾根に辛夷が純白の花を満開に開いて、雪の中にすっくと立っていたことを思い出す。この絵はその年に描かれたものであることが確定された。写真は日白山への尾根道である。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2000.07.20-24 宮之浦岳

キャンセル待ちの航空券がうまく手に入った。但し3泊4日の予定が4泊5日になっていた。のんびり行動できるというわけで1日追加する。Kとの山行予定に直前になってNが加わった。出発前日は幼稚園の終業式で、その後恒例の職員会食。夜は群響合唱団の練習と、忙しかった。前夜の睡眠は4時間。

2000.07.20
本庄5:00=羽田7:00~08:30=鹿児島9:45~10:45=屋久島空港11:25~13:40=(タクシー)=紀元杉14:15~25=淀河入り口14:30ー淀河小屋15:10(幕営)
羽田空港でハプニング。ガスカートリッジは機内持ち込み禁止、廃棄してもらうか預かり処分とするとのこと。炊事ができないじゃないかと抗議したが聞き入れてもらえない。現地で購入できるかどうか当てのないまま預ける。kいわく、「沖縄サミットの余波なるべし」と。
鹿児島から屋久島はYS11機、歴史的飛行機だ。空港からのタクシーの運転手は話し好き、1000年以下の杉は小杉と言って屋久杉と言わないとのこと。紀元杉は見事だった。傍らの湧水がうまかった。脇にユズリハ。
淀河小屋までは下り・上りが半分ずつ小屋はまだ新しさを感じさせるログハウスで快適だ。テラスで寝るというkとNを残して棚の上に場所を占めたが、次第に混んでくる気配に小屋前に天幕を張る。夕食後18時に眠るも19時前に隣に到着したパーテイの大声に目が覚める。1時間我慢した後、「少し声を抑えてもらえるとありがたい。」と言えば、素直に恐縮する。小屋は沢の水も清澄で豐か。素晴らしい場所だ。

2000.07.21
淀河小屋5:15ー小花之江河7:00~20ー花之江河7:30~35ー黒味岳分岐8:00ー投石平8:30~45ー翁岳鞍部水場10:05~10ー栗生岳10:35~50ー宮之浦岳11:15~30ー平石水場12:00~13:00-新高塚小屋15:20(幕営)
4時起床。コッヘルをガスカートリッジに乗せてその間にテント撤収。5:15出発は大出来。第1の目的地小花乃江河は美しい庭園。彼方に黒味岳の頂上に四つに割れ目の入った大岩が眼を引く。朝日に輝く緑が鮮やかだ。コブを越え10分で花之江河、先ほどの小花乃江河の方が勝る。此処からブッシュのトンネルに入りひたすら登る。黒味岳分岐にデポされたザックが数個あり。我々もと提案したが素氣ない二人。きれいな水場があり喉を潤して一枚岩を登ると投石湿原。黒味岳を見上げながら休憩する。快晴の空の下、花崗岩の黒味岳はあちこちに大岩を散在させていて見飽きない。此処から投石岳へ直登。道が違ったかと思う頃ようやくトラバースルートに出る。狭い登山道で休憩。出発して10分で恰好の休み場所、最後の水場との表示で心ゆくまで飲む。此処から頂上までは笹原の中を急登する。栗生岳頂上の大岩で再び休憩。ようやく宮之浦岳が美しい姿を見せる。樹林帯を抜けると、笹原の上に岩を点在させている景が目に入る。女性的な山だ。後ろに付く5・6人の女性パーテイと同じペースでゆっくりと登る。
11時15分ついに岩山の頂上に着く。長い間憧れていた頂上に今立った。目の前に魁偉な永田岳が眼を引く。ただ余りの好天に九州の山々は霞んで見えず。ここは永田岳と対話をする場所のようだ。少しガスも上がってくる。頂上は30人ほどで混雑しており、静かな場所で休もうと、目の下に見える広場を目指して下りる。写真は下りはじめて振り返って眺めた頂上だ。

15分ほどで着くと思った目的地は深い笹の道で捗らず、20分もかかって焼野三差路ヘ。此処も昼食をとるパーテイでにぎやかで、さらに10分下ると水場があった。但し水量はわずかで、岩の上をなめるように流れる程度だ。此処で昼食。ところが気がつくとNのフランスパンがない。ザックのポケットに差し込んだだけだったので心配はしたのだが、案の定ブッシュを潛る辺りで落としたのだろう。食料を失うなんて決定的なミスだ。二人の分を分ける。生ハム・コーヒーが何とも言えず美味い。永田岳を目の前にした景はすばらしい。青い空。緑の笹原。
登りでは昨年の鳳凰と違って快調だったKが下りとなるこの辺りからペースダウン。平石の岩屋を越え、坊主岩を左に見て下り続けるうちNも音を上げて坐りこむ。K曰く「Nが先にタオルを投げた」。段差の大きい下りは膝に過酷だったのだろう。此処を逆に登って淀河小屋についた昨日の老夫婦はどんなに辛かったかと思われる。12時間かかったと言っていた。同行の若夫婦に助けられてようやく着いたのだろう。Nの話では、テントには老夫婦が寢て、若夫婦は外で寝ていたとのこと。今生の思い出にということだったのだろうか。
新高塚小屋は昨日の淀河小屋以上の混雑でほぼ満員。但し天場はわれわれが最初だ。ヤクシカがすぐ横に現れる。目が合ったが逃げようとしない。

Nは靴箱の前の簀の子を確保した。夕食後眠りにつくが、ここでもしかも傍らに8時過ぎまで大声で喋るパーテイがあってまた注意する。眠れぬまま外に出れば満天の星空。さそり座、白鳥座が大きい

2000.07.22
新高塚小屋天場6:15ー高塚小屋7:10~25ー縄文杉ー夫婦杉ーウイルソン株ー翁杉ー大株歩道入り口ー三代杉12:00~40ー小杉谷ー荒川大橋15:10~16:10=(タクシー)=⁼宮之浦民宿17:00(泊)
今日はのんびり歩けるだろうと、昨日より1時間遅れて出発。初めはゆるい登り。高塚山を越えて急な下りとなったあたりでKのペースが落ちる。白谷小屋へ行くには300mの峠を越えねばならず、Kは自信を失う。このまま荒川に下ろうかと言えば救われた顔つきとなる。白谷への未練は殘るが止むを得まい。登らなくて済むとなったKは浮き浮きとした足取りとなる。
高塚小屋からまた段差の大きな下りとなりようやく縄文杉に着く。縄文杉だ。根元を踏まないようにと展望テラスが作られている。7200年という信じがたい時間が杉と我々の間を流れている。屋久杉は是に代表される。がっしりしたこぶを付けた豪快な幹。ナナカマドをはじめ何種類もの樹木が根附いて枝を伸ばす中間部とその上に節くれだった枝を広げる上部。その枝の先にはさらに緑の葉が繁っている。なんという生命力。立ち去りがたい思いを懐きながら先を目指す。此処からは道が整備されていて観光客向けの区域という感じだ。木道と木の階段が延々と続き、登ってくる人の数が急に増える。観光目的らしくみな軽装だ。若者が多い。
ウイルソン株の中に湧水あり。ザックを下ろすと汗は止まる。休憩してオレンジを1/3ずつ口にする。生き返る思い。そしてようやく大株歩道に出る。トロッコの軌道の上を歩く。廃線となったトロッコ軌道は哀愁を感じさせる。歩きに歩いてようやく水場があり昼食をとることとする。気がつけば三代杉の根元だった。天に向かって伸びているその髙さが快い。明日に予定したラーメンをここで食べる。明日はもう下界だ。
小杉谷の小・中学校跡も淋しさを誘う風景だ。30歳ほどの男たち3人が校庭に走り込んでいった。ここで学んだ人たちなのだろうか。その先手すりもないトロッコの鉄橋は長さが100mもあろうか。荒川大橋だ。風が吹いたら危険だ、どうするのだろうと思いながら渡る。右岸をまた延々と歩いて、トンネを拔け再び鉄橋を渡る。そこに引き込み線があり100m先の終点が駐車場となっていた。予定ではここから尾立峠まで1時間半歩かねばならないところ、タクシーが来てくれるとのことで、文句なく今日の行動はここまで。
40分待ってタクシー到着。運転手の話では、昨日山から下りた人の話で12:30に宮之浦岳から高千穂が見えたとのこと。昨日は空気が済んでいたのだろう。
タクシーの中から民宿の予約をしてもらう。安房は空きがなく、宮之浦ならあるという。タクシーで直行する。

2000.07.23
民宿8:30=(レンタカー)=白谷雲水峡(弥生杉)9:10~11:30=志戸子ガジュマル園=大川の瀧=千尋の瀧=尾之間温泉国民宿舎屋久島温泉16:00(泊)
レンタカー(コルサ)で出発。昨日未練を残した白谷雲水峡へ。雨の中が美しかろうと想像する。靴を脱いで入った沢の水は冷たかった。下りで弥生杉に向かう途中、Kが異常な発汗。心房細動という。我々はおろおろするしかない。幸い自力調整して治まった。大川(オオコ)の瀧、千尋の瀧見事だ。
車を返した後、夕より驟雨。

2000.07.24
ホテル8:30=屋久杉自然館=屋久島空港11:10~14:40=鹿児島空港15:10~50=羽田空港17:30~18:00~本庄21:30
朝から雨。屋久杉自然館で小杉谷の歴史のビデオ等観る。11:20空港に着く。激しい雷鳴と雨。我々の直前の便は欠航となった。直後に雨がやみ、我々のフライトは予定通り。飛び立った飛行機から振り返ると島全体が厚い雲に覆われていた。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1969.1.26 至仏山・小至仏・笠ヶ岳

山の絵を描きたい、ぼくの好きな山の姿を定着しておきたい、そう思って長い年月スケッチブックをザックの中に入れてきた。絵が僕の心の現れだというのではなく、或は絵を通してぼく自身を表現するというのでなく、というのは、絵が芸術だというのはそういうものであろうから。そんな大それたものでなく、もっと素直に山に向かって呼びかける、山もそれに応えてくれる、それがうれしくて山を描いてきた。
この絵はもしかするとそれでさえないのかもしれない。目の前に見た山でなく、心の中に残っている山を改めて確かめに行ったことから生まれたものだからだ。水上から利根川に沿ってのぼっていくとまず藤原ダムが現れる。その上に洞元湖の須田貝ダム、奥利根湖の矢木沢ダム、楢俣ダムと東京の水がめが続々と現れるが、ぼくの持っている1958年版の五万分の一の地図(以下五万図)にはまだひとつもできていない。八木沢ダムができる前、利根の水源をたどるためにモッコ渡しがあったころの話だ。ぼくに山の魅力を語ってくれた町田瑞穂氏(もう故人となられたので名前を出すことを許していただけるだろうか)の話にそれがあった。
ぼくはその山深いころの湯ノ小屋温泉にあこがれて、妻を語らい尾瀬の笠ヶ岳からロボット尾根を辿って下りたことがある。ぼくの持つ3枚の五万図のうち、昭和33年要部修正測量とある2枚目は3色刷りの最初だったようだが、その1712m地点に雨量観測所とある。昭和54年版にはもうない。登山道も上半分はなくなっている。たぶん雨量観測は自動計測だったので「ロボット」と命名されたのだろう。そしてすぐにその使命を終えたのだろう。それは長い長い下り道だった。真っ暗になってようやく着いた湯の小屋温泉発の最終バスはもちろんなく、そこの集落の一軒で外にいた夫人に訳を話したところ泊まっていきなさいという。憔悴した我々に情をかけてくれたのだろうか。人心地附いたところで湯に入って来なさいと言われ川に下りるとそこは近所の人たちが共同で使う温泉だった。今から思うと人の温かさに救われた一晩だった。
その人の情がうれしく有難くて、何年か後木の根沢に車道ができて出かけて見たのだが、そのあたりの様子は大きく変わっていてあの時のおばさんの家がどこだったか、もうわからなかった。
その後、湯の平高原から湯の小屋に下りる道があることを知り、その雪原の途中にミズバショウの群落を発見した時はうれしかった。尾瀬のミズバショウのように巨大化していなく、楚々と咲いている姿は人々にもてはやされる前の姿だった。うれしくて息子たちを連れて雪の原を歩いて訪ねたこともあった。そこから北へ20分も歩くと湯ノ小屋への下り道となる。その途中から目の前に広がる山々がこのスケッチだ。ロボット尾根が懷かしい。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1972.10.06-07 二子山


熊谷高校山岳部OB小屋というのができた。私が熊谷高校に赴任した1968年の4月、職員室もその噂でにぎわっていた。壁に吉川敏夫顧問が描いた二子山のスケッチが貼られ、全職員も1万円ずつ寄付した。以来、秋になると山岳部3年生を送る送別山行を行い、OBになると仲間で泊まりに来て旧交を温める場となった。私も妻や息子たちと一夜を明かしたこともある。50年を越えて小さな修理、大きな改修を経て、立派に維持されてきている。自分たちだけで作った山小屋というのはほかの高校ではきかない。自慢していい山小屋だ。その小屋のテラスから眺めた二子山がこのスケッチである。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: