1997.09.27-28 八ヶ岳


八ヶ岳に初めて登ったのは二十歳の時だったと記憶している。幼友達のS君と北八つだった。夏沢峠から硫黄を往復して北上し、麦草ヒュッテに泊った。半世紀前の麦草峠はまだ車道などは通じておらず、麦草と呼ぶ短い草が生える小さな草原に小さな小屋が立っていた。夕食後小屋のオヤジさんと話が弾んだ。話の終わりころ、オヤジさんは名残惜しそうに「結婚したら二人でここへ来いよ。おれ山を下りておまえさんたちに三日間小屋を明け渡してやるよ。誰も来ないよ。」と繰り返したものだ。誰も来ないなんて今では考えられないが、当時「北八つ彷徨」などという言葉がはやり始めたころで、本当に我々以外だれも姿を見せなかった。10年ほどたったろうか。懐かしい場所を訪れるつもりで行ったところ、車道が北八つを横断していて、峠には立派な二階建ての建物が聳え、かつての小屋は影も形もなくなっていた。喧騒が立ち込めていて、私は建物に入る気も失せて素通りした。「感動は一遍こっきりのものだよ」とは何に出ていた言葉だったろう。以後、北・南八つにはなんどものぼった。幽霊が出ると聞く県界尾根、ブルガリアの娘さんが「寒いので入れてください」と入ってきた本沢温泉の川原の露天風呂、蓼科山頂小屋のピアノで聴いた孫娘の「エリーゼのために」、権現岳の天場で星座を語りながら遅くまでながめていた星空、見知らぬ若者とスピードを競って最後は息絶え絶えになって辿り着いた横岳石室小屋、それぞれの山行ごとに忘れられない思い出がある。これから述べるのはにらみ合っている雄カモシカの脇をそっと通り抜けた日の山行だ。

1997.09.27
本庄06:00=佐久IC=麦草峠=美濃戸口09:45~10:00-赤岳鉱泉13:30(泊)
本庄北高PTAOB・OGの3人と車で出かける。
20年ぶりに泊った赤岳鉱泉は新しい棟が増築されて、1部屋に向い合せの二段ベットが設置されているだけのへやだった。小屋の西は緩やかなスロープとなっていて、雪の中にテントを張った懷かしい場所だ。

1997.09.28
鉱泉06:40-行者小屋7:10~20-(地蔵尾根)-地蔵の頭09:00~20ー赤岳山頂(2899m)9:45~10:40-中岳コル11:20~40-阿弥陀コル12:00-阿弥陀岳山頂(2524m)12:30~45-阿弥陀コル13:05~35-行者小屋14:20~50-美濃戸16:20~40-美濃戸口17:30=望月町=本庄21:30

快晴の気持ちいい朝を迎えた。空気は冷たく、稜線が白く見えるのは霧氷だろう。行者小屋から稜線までの最短距離を取って、地蔵尾根を登る。写真は地蔵の頭からの赤岳。同行のKは「赤岳じゃあない。白岳じゃないか。」と呟く。空中の水分が岩肌に凍り付いて白く輝いている。凍て附く空気が急登を登り切った肌に心地よい。
ここから30分たらずで赤岳頂上へ。雲海がまだ上昇しきっておらず、北アルプスや南アルプスが見えないのが残念。
次の写真は頂上直下から赤岳、横岳、硫黄岳を振り返ったところ。(私以外の二人はさっさと向こうの世界へ行ってしまわれた。)
真ん中に横岳の大同心が突き立っている。硫黄の南面はじょうご沢。春山では青氷の世界だ。
赤岳から西にルートをとる。中岳を越えて阿弥陀岳へ。背後の「白岳」が大きい。15分の休憩を取り、いよいよ下山へ。阿弥陀のコルから始めはトラバース気味に下る。ここで思いがけない状況に出くわした。下山道のすぐ横にカモシカが2頭、頭を突き合せんばかりににらみ合っている。恐る恐る近附くと、グエーグエーと低いうなり声を発している。50cmも離れていないすぐ横を刺激しないようにそっと通り抜ける。手を伸ばせば届く距離だ。万一興奮しているカモシカが人間に角を向けて跳びかかってきたら、ただでは濟まない。緊張したまま3人が通り過ぎても、2頭は2頭は全く動かない。初めに動いた方が負けと言っているかのようだ。すぐ横に見たカモシカは大きく恐ろしかった。
ここから沢に下りる。春山では尻をついてザックをかかえて滑り降りたボブスレーコースで、行者小屋手前まで降りる快適なルートだった。
行者小屋から先は往路の逆ルート、美濃戸口からK氏の車で本庄へ。
スケッチは1974.3.28のもの。春山合宿のテント前から描いたもので、この山行の時のものではないが、懐かしい絵なのでここに掲げる。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1998.7.25-26 月山 雲の峯幾つ崩れて月の山


『奥の細道』に
  雲霧山気の中に、氷雪を踏んでのぼること八里、
  さらに日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、
  息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕(あらは)る。
  笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。
とあり、
  雲の峯幾つ崩(くづれ)て月の山 
が掲げられている。芭蕉は布団もない小屋に一夜を明かしているのだ。深田久弥『日本百名山』には「のしゃがみ」という言葉が出てくる。今の我々にそれだけの覚悟があるだろうか。
もう何十年も前の話になるが、追分が原から浅間を目指して登り、天狗の露地に野営して頂上を往復し、下りてきたことがあった。家について驚いた。追分が原の隅に車をとめたのだが、近所の人が夜になっても車が置き放しだと警察に通報したという。遭難したのかもしれないということで、ナンバーから調べて自宅に連絡が行き、捜索隊が出るという。自宅の妻は、たぶん大丈夫だと思うと答えたというが、警察は私が連絡するのを待っていた。それが分かった時、警察に連絡してくれた人の行為を有り難いと思うと同時に、私のとった行動が自分勝手なものだったのだろうかと複雑な気持ちになったことを覚えている。
もうひとつ、熊谷高校山岳部が冬山合宿でドカ雪に見舞われ、一日停滞(動かずにいること)したことがあった。この時も捜索隊の騒ぎになった。翌日下りてきて最初の山の家から電話で全員無事なことを告げた。合宿では必ず予備日をとっていて、無理に行動することの方が危険な時は行程をずらすことがあるということが、下界の親の万一のことが起きたのではないかという危惧とぶつかってしまうことがある。今はスマホを持って行けば、谷に入り込んでいなければ何とかなるかもしれないが。

1998.07.26
志津温泉仙台屋旅館07:00=姥沢小屋07:20=リフト08:00-姥ヶ岳08:30~40ー月山頂上10:40~11:40-姥沢小屋13:40~14:00=本庄20:45
なだらかな緑の尾根とスロープ。氣持好い散策路だ。頂上は細い石段を登った上にある。月山神社は月山権現を祀る。月山権現は月読尊の垂迹だという。伊那那岐・伊邪那美の二神が最後に生んだ天照大神・月読命・須佐之男命のうち月読命は存在感の薄い神である。それだけにどこに祭られてもおかしくない。
芭蕉が登ったのは6月8日、太陽暦7月24日なので我々と一日違い。「氷雪を踏んで登る」とあるが、当時の方が寒かったのだろうか。
不思議なものを見つけた。「月山鍛冶屋敷」の表示があり矢印がついている。個人的な興味なので行ってみようと言わなかったのだが、『奥の細道』に
 谷の傍らに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びてここに潔斎して剱を打ち、ついに月山と銘を切って世に賞せらる。
とあって確かめに行きたい気持ちはあるのだが、この文章は実は湯殿山に下る途中の谷の傍らの小屋のことなのだ。月山の鍛冶屋敷とは芭蕉の言う鍛冶小屋とは別物なのだろう。
また、芭蕉研究家の井本農一によると、初代月山は古文献によれば平安時代の人だが、現存する月山の銘を持つ刀はいずれも室町末期のものであるようで、後世月山を名乗る人が何人かあったもののようであり、また必ずしも月山の山中で鍛えたものばかりではなかったようである。
写真を見ると、我々は傾斜の緩やかな下山路をビールを飲んで下ったようだ。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1992.7.23-25 剣岳

私はまだ一度もアルプスへ行ってない、妻はよく口癖のように言った。後ろ立山連峰、或は表銀座を意味するらしい。槍・穂高を目の前にするところとして、上高地の伝説的な嘉門次小屋に泊って徳本峠(とくごうとうげ)へ登ったことはあり、嘉門次小屋といえばアルプスを知る人は皆羨むんだよと言ってもみるのだが、妻の言うのはもっとポピュラーな名前の山、唐松-五龍とか、燕・常念とか、槍・穂高とかをいうようだ。私が混んだ山は好きでないというので、そのままになってしまっている。
今年、室堂に泊って剣に行こうと誘った。此処から話がおかしくなった。私は劔に行くつもりだったが、妻は室堂に泊ってという部分に反応したらしい。私は立山に登るつもりだったのに、気がついたら剣へのルートにいたと、あとになって何度も述懐した。気の毒なことをしたかもしれないが、女性が52歳になって剣に登ったというのは胸を張れることだ。むしろ良かったと思う。
私は昔学生時代にクラスの2人と登ったことがある。ひとりは地元富山市の男、もう一人は諏訪青陵という涼しげな名前の高校を卒業した男だ。富山の男は卒業後、イタイイタイ病裁判等をきっかけにり教員をやめて県会議員となり身体を痛めてしまう。「おれは本を読み過ぎて頸椎損傷をおこしちまった。」と語ったことがある。諏訪青陵卒の男はベートーヴェンとフルトヴェングラーを愛し、立原道造を私に教えたりもしたロマンチストだった。長野の高校教員になったが、権力と激しく戰って、人事で家族と別居を強いられたりした。登山部の顧問で「わが愛を知るやコマクサ」などと自分で作った部歌を酔って歌ったりしたこともあった。諏訪を訪れた私を案内したバーで飲んだジンライムの美しい色を忘れない。
その二人と大学二年生の夏、立山の五色が原で3日過ごした後、立山を登って剣沢に幕営して荷物をデポし、翌日剣に登った。苦しかったが樂しい一週間だった。学生だったからできた山行だったと今になってわかる。

1992.07.23
本庄05:30=内山峠=佐久=望月=三才山トンネル=松本=大町=扇沢11:30/12:00=黒部ダム=大観峰=室堂13:30-雷鳥平15:00
信越自動車道も長野道もまだ開通していない時代なので、山を訪れる時の懷かしい町や峠を越えてのんびりと走らせる。高速道路のように両側を塀で囲まれた道を行くよりたのしい。高速道路は早く目的地に到達するためのもの。プロセスは目的とならない。扇沢で恒例の鱒ずしの昼食をとる。
黒四ダムから見上げた立山には残雪が輝いていた。楽しみだ。
室堂から立山連峰を見る。山崎カールが雪に覆われていて美しい。雷鳥平へ下りて今日の行程はおしまい。幕営の準備に入る。

1992.07.24
雷鳥平4:30-別山乗越06:20/30-剣御前トラバースよりクロユリのコル07:20/35-一服剣・前剣のコル09:00-剣岳頂上10:40/11:45—前剣ー一服剣14:20/40-別山乗越16:33/43-雷鳥平17:55(泊)

いよいよ今日は剣岳を往復する。写真は出発時の称名川最上流の雪渓。山崎カールにまで続いている。此処から稜線まで雷鳥沢沿いのジグザグの急登だ。
別山乗越で稜線に出る。一本立てて(休憩をとること。昔は線香を立てたというが)いると足元の岩陰から岩陰に素早く動くものがいる。時々小さな頭を突き出してこちらを見る。オコジョだ。何だか幸先がいい感じ。
ここから左に折れて剣御前のトラバースルートへ。
正面に剣が見える。このあたりから妻は立山へ行く道でないと気がついたようだ。そそり立つ岩山の剣と手前の一服剣がハイマツの向こうに美しい。

私が被写体となった写真が少ないのでここのものを掲載する。
前剣を越えるといよいよ剣の岩山にかかる。かにのたてばい、よこばい、頂上直下の鎖場、妻も頑張っている。昔は人を寄せ付けない山だった。神の住む山だった。10時40分ようやく頂上へ。ゆっくりと休もう。

 

 

 


南には雄山、大汝、別山が見える。30年前あそこに立った。そして此処にも。往時の友は今日まで自分の選んだ生き方に自分をかけている。また会って杯を交わしたい。立ち去りがたい頂上だ。

 

 

 


1時間たったので下ることにする。登りより下りの方が油断できない。写真はかにのたてばい。

 

 

 

 

 


その次は前剣・一服剣のキレットだ。妻はよく頑張っている。
妻の調子がおかしいと気づいたのが剣御前のトラバースに入った辺りからだ。後ろについていると思ったのに、気づくとずっと後ろになっている。立ち止まって追いつくのを待ってまた進むのだが、すぐ間があいてしまう。見ていると、20mも歩かないのに立ち止まってしまうのだ。

 


雪の斜面が広大で怖くなったのかと思ったがそうではないようだ。しばらくして分かった。
岩を摑み鎖にしがみついて、体力的にも精神的にも緊張で何とか持っていた身体がトラバースルートの勾配のないところへきて一気に解放され、もう動けなくなっているのだ。いいんだ、もうゆっくり行こう、そう言って休み休み別山乗越まで辿りついた。此処からは下りだけ、しかも砂地と草の気持ちいい斜面だ。妻はふらふらになってテントにたどり着いた。よく頑張った、あと夕飯はぼくがやるよと言って、今日の山行を終えた。星空も見ずにぐっすり眠る。
これまでに一番大きな山行だった。

1992.7.25
雷鳥沢07:00-室堂ー黒部ダム=扇沢13:00/30=大町=豊科=青木峠=上田16:00-本庄19:45

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2002.10.27 乾徳山

2002.10.27
本庄06:00=(雁坂トンネル)=大平牧場08:40~09:00ー乾徳山頂(2031m)12:10~15ーカヤト原手前(昼食ー12:25~13:00ー大平牧場14:50~15:00=白竜湯15:40~16:20=本庄18:50

本庄北高校PTAOB・OGの山の会で乾徳山を登ろうということになった。
真南の三富徳和からの一般ルートを避けて、ずっと上の大平牧場まで車が入れた。しかも駐車場の更に上まで。そこから国師が原経由でなく、三角形の斜辺を行くように直接月見岩へ。枯れすすきの原を進むと岩場が現れ始める。天狗岩を登り切って頂上に出た。2031m。巨岩が積み重なっている。夢窓国師がひと夏修業したというが、草一本生えてないこの岩の頂上ではあるまい。座禅を組む平たんな場所さえない。ただ周囲は遮るもののない360度の展望だ。金峰から始まる奥秩父、富士、南アルプスがうれしい。ただ平らな岩がなくて昼食をとるのに不便。下へ移動する。10分後山道に入って傍らのテラスを見つけガスカートリッジで湯を沸かす。もうビールを飲んでも危ないところはない。
さらに下ってカヤト原。枯れすすきの穂波に圧倒される。のんびり下って車まで。帰路笛吹川畔に見つけた白竜という名前の立派な温泉で汗を流して秩父を目指した。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2003.10.26 敬意をこめて茅ヶ岳

2003.10.26
本庄05:35=深田久弥記念公園登山口08:45/55-女岩10:10/20-深田久弥終焉地11:20-茅ヶ岳山頂(1704m)11:35/12:45-登山口14:30/50=桔梗温泉=本庄20:10

深田久弥終焉の地ということであれば一度は敬意を表さねばなるまいとでかけた。本庄北高校PTAOB・OGの4名と同行する。
『日本百名山』を読むと現在の我々の登山が恥ずかしくなる。自分が選んだ山に登山道がなければ自分でルートを探して登る。日が暮れればその場でうずくまって夜を明かす。それに比べるといまわれわれは登山地図というものを持ち、ルート上に所要時間が書き込まれているのを眺めながら歩くことだってできる。私はせめて五万分の一の地図で歩くことにしている。深田久弥の山への対し方から一歩でも遠ざかるまいと思う。二万五千分の一の地図を使わないのもその一つだ。ただ久弥の哲学的思考はとてもではない、ひたすら渇仰するばかりだ。
今日は仲間の車に同乗して登山口まで。登山口からほとんどまっすぐな感じの山道、傾斜も緩やかだ。1時間ちょっとで女岩へ。即物的な名前ではある。そこから道が険しくなり尾根に出る。途端に目の前に奥秩父の山々が展望される。金峰を右に見ながら頂上へ間近の所で深田久弥氏急逝の場所に。仲間はあまり興味を示さないが、私は思い入れを込めてひとり撮ってもらう。背景は金峰から大弛峠を経て国師への稜線である。頂上に着くまで他の誰にも会わず。頂上(1704m)にも誰もいない。紅葉も終わって晩秋の陽射しが降り注ぐ静かな頂上で思い切りのんびりした時間を過ごす。「ニセ八つ」の異名は北の金ヶ岳を含んだ姿だ。本物の八ヶ岳も近くに見える。
帰路は同じ道を下る。車で来ると同じ場所に戻らねばならない。のんびり下っても2時間かからなかった。 

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: