1998.08.22-24 常念岳


文芸評論家臼井吉見の『安曇野』は忘れられない小説だ。安曇野に生まれ育った彼が、同じ郷里の先輩で新宿中村屋の創始者である相馬愛蔵と良を中心に安曇野を舞台とした小説を書きたいという思いを持ち続け、明治から敗戦後までを実に幅広く描いたものである。
音響スピーカーのメーカーであるアメリカのボーズ社の祖先チャンドラ・ボーズは、インドの独立運動に身を投じる前、日本に留学に来ている。日本が日露戦争でロシアに勝った。日本がヨーロッパ列強の力に勝ったその近代化のやり方を学ぼうとして日本に来たのだ。ところが日本への憧れはすぐに幻滅へと変わって行ってしまう。彼は言う、「ヨーロッパに勝った日本は、今度はヨーロッパと同じことを始めてしまった。」と。彼はインドに帰り、インド独立のため武力闘争に身を投じる。私はそれを『安曇野』を読んで知った。その後、ボーズ社製の大きなカセットデッキを販売に来た初老の男に、「ボーズと言えばチャンドラ・ボーズと言う人物がいたが」というと、その男は急に顔を輝かせて「なんでその人を知っているんですか。その人の子孫です。」という。そんな副産物も生まれたことを『幼な子とともに歩んで』に書いたこともある。そのカセットデッキが故障した時、ボーズ社は無料でテープ部門を交換してくれた。日本のメーカーにないやり方にすかっりボーズファンになったしまった。今私のオーデイオのスピーカーはボーズである。
それ以上に、と言っては失礼になるが、それとともにすぐ思い浮かぶのは、安曇野の小学校の校庭で、子どもたちを前にして「常念を見よ」と声を張り上げる校長の姿である。子どもたちの心に焼き付いた常念岳の姿は、成長して故郷を思い出すときに必ず甦っていたことであろうと思う。それは本庄に生まれ育った人にとって、赤城や浅間の姿が故郷の象徴になるのと同じかもしれないという思いにつながる。ある地域に生まれ育った人にとって山はそういう存在になるのだろう。安曇野に立って目の前に迫る常念岳を見る時、それは確信される。私はそんな存在となっている常念に親しみを覚えている。山の姿もいいのだが、それだけではないのだ。

私が昔の同級生のKにアルプスに行きたいと言われたときに、まず浮かんだのが常念だったことは自然だったかもしれないと今思う。アルプス銀座と呼ばれる燕ー大天井ー常念ー蝶は20年前に歩いたが、今回は日程の関係で直接常念乗越を目指すこととする。標高差800mを登って1日しか滞在せず下りてくるっていうのはもったいないの極致と思うのだが、今回は仕方ない。ぎりぎり土・日・月しか休めない彼なのだ。しかも車で出かけるので同じ場所に戻らねばならない。常念と蝶だけにする。


1998.08.22
本庄05:40=豊科IC07:35/50=一ノ瀬08:35/50-常念乗越14:27-常念小屋(泊)
快晴に恵まれ、ゆっくりと出発。早朝から3時間の高速道路の運転はかなり神経を使ったであろうにKは元気だ。一日がかりでアルプス銀座の稜線に出る。常念乗越だ。目の前に槍・穂高が全容を見せる。加藤文太郎が雪の中に消えた槍の北鎌尾根の向こうに黒部五郎も見える。左に常念(2857m)が大きく、西に横通岳(2767m)が懷かしい。ゆっくりとした時間の中でスケッチが樂しい。スケッチ上は常念乗越から。槍(3180m)・大喰・中岳・南岳。左に高校山岳部には禁止されている大キレット。スケッチ中は北鎌尾根と黒部五郎・鷲羽、手前に大天井(オテンショウ)。スケッチ下は正面に奥穂(3190m)、吊尾根の左に前穂が懷かしい。右ページの中央が北穂で其処から大キレットが始まる。奥に名峰笠ヶ岳。


1998.08.23
常念小屋07:10-常念岳08:50/09:40-蝶ヶ岳14:30-蝶ヶ岳ヒュッテ(泊)
左に安曇野、右に槍・穂高を眺めながらゆっくりと登る。此処でなければ見られない贅沢な風景だ。常念岳2857m、前常念へ行きたい気持ちを抑えて縦走路をくだる。先へ行くのがもったいないようなルートで、休みながら蝶ヶ岳へ。蝶槍(2664m)がちょこんと突き立っている。今日もスケッチ。

1998.08.24
蝶ヶ岳ヒュッテ07:00-マメマキ平-三股10:20-駐車場10:35/40-豊科美術館(駐車場)11:30-安曇野ビレッジ(入浴・昼食)・田淵行男記念館=豊科Ic14:00=本庄16:55
下りが急で長い。ただKは自衛隊にいたこともあり、安心して飛ばす。下に着いてから車を置いた美術館までが遠かった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1968 スケッチブック以前のこと

この絵を何の機会に見たのか、同僚の美術の教員が、「岩田さんが何でこんなおとなしい絵を描くんだ」と言ったことがあります。もしかすると、「枯れ木も山の賑わいだ」などとうそぶきながら、文化祭の山岳部の展示に並べたのを見たのでしょうか。なんのポイントもないアピール性もない絵だという意味でしょう。その通りなのですが、ぼくには初めての油絵だったというだけでない、大事な意味を持つ絵なのです。
これは追分ヶ原から見た五十年前の浅間山です。この絵を描く何ヶ月か前、ぼくはひとり追分ヶ原の北の端にテントを張って一晩過ごしたことがあります。キツネだか雉だかの甲高い鳴き声が一晩中響きました。翌日そこから浅間の頂上を目指しました。普通の人々が選ぶ登山道は、峰の茶屋から頂上を踏んで西の湯の平におりて浅間山荘に下るコース、あるいはその逆コースでした。追分ヶ原コースは最後の前掛け山の斜面を直登するコースが閉鎖されて、天狗の露地から湯の平を回らなければならなくなって、もう誰にも会わないルートになっていました。

追分ヶ原を教えてくれたのは、学生時代の長野県諏訪出身の男でした。彼が大事そうに口にする詩人立原道造の『萱草に寄す』の舞台が追分ヶ原だったのです。

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を(「のちのおもひに」冒頭)

当時サルトルや大江健三郎を論じあっていた我々にとって、立原道造の抒情性は驚きでした。しかもその抒情にぼくは捉えられてしまったのです。表向きには権力と対峙する生き方を選び取りながら、内側にそっと立原道造をいつくしんで、ぼくは青春期をおくりました。ここに出てくる「林道」で、立原は村の娘と出会うのですが、それは中山道からいちだん上の今の1000m道路だったのだと思います。今は車が我が物顔で走り抜ける舗装道路になってしまいました。

かなしみではなかつた日のながれる雲の下に
僕はあなたの口にする言葉をおぼえた
それはひとつの花の名であつた
それは黄いろの淡いあはい花だった(「ゆふすげびと」冒頭)

ぼくは今、車を避けながら、萱草(忘れ草)のイメージを探っています。

追分ヶ原の絵が手放せないのは、もうひとつあります。先に述べたカンゾウと追分ヶ原とのつながりはかならずしもこの絵でなくても他に用意することができます。この絵でなくてはという意味があるのです。
それはこの絵が五十年前の追分ヶ原を示しているということなのです。この絵を描いたのは、追分ヶ原コースに入って三十分ほどのところにある駒飼いの土手と呼ばれる場所の先です。今このコースは昔追分ヶ原と呼ばれていたあたりから全面的に松林や雑木林となっていて、空はまっすぐに上を見ないと見えません。五十年前は登山道からはるか向こうに浅間が見えました。ぼくたちはその山の姿に憧れながら歩を進めることができたのです。ちょうどそのころ追分ヶ原に植林が行われ、人の背丈もないくらいの松の苗木が原一面に植えられたのです。それが五十年経つ中で20m・30mの高さに成長した。ここ何年か、びっしりと生えていた森を切り開いて新しい林道がつくられ、伐採のチェーンソーの音が響くようになりました。松やカラマツは伐採されても雑木林は皆伐できないのではないか。そうなるとこの
絵のような追分ヶ原は再現されないのではないか。
五十年前の追分ヶ原を絵にとどめたのは意識したことではありません。山の絵を描きに行こうと誘ってくれた友がいたからこそとどめ得たのであって、一緒に描いた人たちへの感謝の思いは消えません。結果的にこの景をのこすことができたことを僥倖だったとでも言いたい思いがあって、この絵が手放せないでいます。
今は1時間半ほど歩いて血の瀧の先まで来ないと浅間は見えません。自然も長い時間をかけてその表情を変えていく、そんなことの証しとしてこの五十年前の拙い絵を冒頭に置くことにします。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1977.10.13-16 表銀秋冷山行 燕岳-蝶ヶ岳


(燕岳山頂より槍・穂高 左は大天井岳)
1977.10.13
本庄07:39-篠ノ井-明科12:50-中房温泉14:30(泊)
同僚二人と文化祭代休・土日を利用して晩秋の表銀座コースへ。明科駅前喫茶店にて昼食。雲一つなく、秋の陽射しが冬用カッターシャツに暑い。中房温泉露天風呂、ぬるい湯に長時間浸り、心から温まる。

1977.10.14
中房温泉05:30-合戦小屋跡-燕山荘(山頂往復)昼食-蛙岩-大天荘14:30(泊)(大天井岳往復)

ヘッドランプを付けて出発。1時間後にカッターシャツをを脱いでアンダーシャツ1枚。風もなく穏やかな日となった。ナナカマドの紅葉が鮮やかだ。槍・穂高を目の前にして歩く。上のスケッチは燕岳山頂より槍・穂高。左は大天井(オテンショウ)岳。常念の頂上も見える。ところがエネルギー切れで、最後の大天荘へのゆるい登りが苦しい。次第に風も出て強まる。夜通し強風が吹いた。写真は大天井頂上。バックは燕岳。

1977.10.15
大天荘-東天井岳-横通岳-常念岳ー(昼食11:15/12:15)-蝶槍13:20-蝶ヶ岳ヒュッテ(泊)
寒さの中を身体をすくめつつ出発。東天井乗越からのルートが廣い。常念岳で大休憩。辿ってきた山々と後ろ立山連峰、立山・劔が大きく連なる。裏銀コースは平たんな連なりに見える。それぞれの山にそれぞれの思い出あり。出発すると、蝶ヶ岳への道に草原と林の美しい場所あり。思わずここで昼食と。その後あっという間に蝶槍へ。スケッチは蝶が岳頂上より常念岳。左奥は大天井岳と東大天井岳、手前の三角錐が蝶槍。

1977.10.16
蝶ヶ岳ヒュッテ05:15-長塀山05:55-徳沢07:30/50-名神池08:30/50-上高地09:30/11:20=新島々-松本ー篠ノ井ー本庄17:43
蝶の朝も寒い。震えながら出発。長塀山頂上で日の出なりしも止まらずに素通りする。ダケカンバ、ナナカマドなどの落葉樹、モミの林の中は見通しがきかない。モルゲンロートの穂高も未練を残しつつ木の間越しだ。せめて休憩をと休んだが、その後徳沢まで走り下る。汗びっしょりの顔を洗った時の心地よさは忘れない。前穂・明神岳の前をめぐって明神池へ。紅葉、黄葉の盛りで人が多く、にぎやかだ。写真は蝶が岳山頂より槍沢(中央)と涸沢(左)。

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1989.07.21-24 夏山合宿 八ヶ岳

1989.7.21
熊谷06:33=茅野11:58/12:00=美濃戸口13:15ー赤岳鉱泉16:35(幕営)

1989.7.22
赤岳鉱泉9:05ー中岳コル10:50/11:10ー赤岳山頂11:50/12:50ー(地蔵尾根)ー行者小屋14:00ー赤岳鉱泉14:30(幕営)
赤岳アタックは前回と逆コース。スケッチは赤岳鉱泉から左が横岳と大同心、右が赤岳(2899m)。

1989.7.23
赤岳鉱泉7:00ー峰の松目9:00/9:15ー硫黄岳9:30/10:03ー夏沢峠10:30/35ー本沢温泉ーみどり池ー稲子湯14:50(自炊泊)
写真は峰の松目にて。後方は赤岳。
1989.7.24
稲子湯10:15=小海10:50/11:04=小諸(懐古園)12:40=本庄15:56

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2013.05.05 水の塔・篭の塔

私の好きな山の一つ。今回は息子・孫(13歳)と3人で登る。水の塔へは岩の間を登る。高度感が味わえて楽しいところだ。かつてハイキングに行きたいと言ったグループを案内した時、「これはハイキングじゃない、山だ。」とクレームを付けられた思い出もある。
天気は快晴。暖かし。八ヶ岳は霞んで見えなくなってきた。その代わり水の塔を過ぎると四阿山(2354m)が全容をあらわす。四阿山へは1998年5月9日、熊谷女子高登山部OGとのんびり登った。恐竜の背のような的岩もうれしく、頂上からの下りの尾根で眺めた浅間の逆光の姿も思い浮かぶ。その日のことを思い出しながらスケッチする。ペンのタッチがなんとも樂しい。頂上の左は菅平の根子岳だ。家族で登ったり、熊谷高校の同僚とスキーで登ったりした。半世紀近くも昔のことだ。

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