1968.05.25 浅間山賛歌-火口から鬼押し出しルートへ

佐藤春夫の詩に「望郷五月歌」というのがある。
 塵まみれなる街路樹に
 あはれなる五月来にけり
 石畳都大路を歩みつつ
 恋ひしきやなぞ我がふるさと
という句で始まり、故郷の紀伊の国の山と海を懐かしく歌っていく。私も学生時代、望郷の思いに胸を灼いたときに、この詩を共感を持って口ずさんだこと思い出す。
いま故郷にいる私が五月に心のふるさととして思い浮かべるのは、60年近い昔に訪れた浅間山の姿だ。浅間山の姿というより、浅間山にいだかれた二十台の私の姿と心といった方が適切かもしれない。
その日、浅間山の頂上に立った私は、初めて大きな噴火口のふちを回ってみたくなった。噴火口はもう30年も前から火口いっぱいに煙が噴き出しているが、その頃は火口底まではっきり見えて、何箇所かから白い煙(蒸気)を噴き出している程度だった。風下に回り込んでも亜硫酸ガスの臭いはせず、青空の下、五月の爽やかな風に吹かれて、心地よい逍遥コースだった。半分ほど回って、嬬恋村の真上まで来たとき、眼下に溶岩流の跡が火口の縁からずっと麓の方まで続いているのが見えるところまで来た。はるかその先に鬼押し出し園が確認できた。雄大な景を見下ろしながら、私はその場から動けなくなり、双眼鏡でずっと状況を確認していった。なんとか行けそうだと判断した時、私の頭に浮かんだのは、梶井基次郎の『檸檬』だった。レモンを書店の書棚に置いて「出て行こうかなあ、そうだ出て行こう」と主人公が決断した部分だ。下りて行こうかなあ、そうだ下りて行こう、そう決断した時の私を私はその後何度も快哉をもって思い返したものだ。
下り始めてすぐに溶岩流の岩が、登山道のざくざくの砂利と全く違っていることを知った。鉄が溶けて固まったような真っ黒な岩の表面は、細かい気泡のような穴が無数に空いていて、まるで鑢(やすり)のようだった。岩の塊をよけたり、塊から塊へ飛んだりしながらくだるのだが、ルート以外の場所を下るという、一種の不安と喜びとに心が震えていた。万一怪我でもし、遭難でもしたら笑われるだけだという緊張感もあった。

その緊張がほぐれたのは、半分以上下って傾斜が緩やかになってきたあたりで見つけた山独活のおかげだった。まだ山菜などというものを知る前の私は、それが食べられるものということも知らず、それでも何か気になって、ナイフで切り取って手に持ったまま歩いた。溶岩流の中で生命のあるものへの愛着があったのだろうか。最後の急傾斜を下り、ようやく鬼押し出しに着いたとき、そこで何か作業をしていた男たちの一人が「あ今日は一杯だね。」と笑いかけてきた。それほど立派な独活だった。根本は直径4㎝もあったろうか。男たちがそれ以上何も聞かなかったのは、まさか頂上から降りてきたなどと思いもしなかったからであろう。入場券などの確認もされなかったのは、まだおおらかな時代だったということだろうか。
ともあれ、無事に下山できた。私の心は喜びに膨らみ、充実感をもって来たルートを振り返った。真っ青な五月の空の下に、延々と頂上までつながり延びている溶岩流が逆光のせいで黒々と見えたのを覚えている。
ところで、この充実感には、思いがけない代償もあった。私の登山靴が、気が付いてみると皮の表面がぼろぼろになっていたのだ。鑢の岩を用心深く下ったつもりが、やはり引っかかったり、つま先が岩にはまり込んだりしたのだろう。この靴は記念としてしばらく保存しておいたものだ。
私の青春の一ページは、こうして五月という季節と一緒に、私の心に色あせることなく残ることとなった。

そして恥ずかしながら、この溶岩流から生まれた火砕流が、麓の鎌原地区を壊滅させたこと、利根川に流れ込んだ死体が何百と流れ着いた伊勢崎で供養をしたこと、本庄でも成身院百体観音堂がその際の犠牲者の供養のために建立されたことなどはその後知ったことだった。鎌原観音堂の階段の手前まで逃げてきた村人たちが、この火砕流に吞まれて命を落としたと知って身のすくむ思いがしたことも思い出す。

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2013.08.08-09 黒百合ヒュッテの夜

偶然とはいえ、忘れられない出会いが重なる山小屋というのがある。くろゆりヒュッテだ。その記録を残しておきたい。
この夏久しぶりに北八ヶ岳黒百合平に泊まった。北八ヶ岳というと東側の稲子湯からしか知らなかった私が、始めて黒百合ヒュッテに泊まったのは60年の昔になる。山にひかれ始めたころで、中学の同級生Ⅰ君と一緒だった。夜、ランプの下で同宿の数人と遅くまで話し込んだことがあった。もう寝ようかということになって、北へ向かうその人たちと南の硫黄・赤岳へ向かう我々とは別れを惜しんで煙草を分け合った。そのあと詠んだ歌がある。
 暗き灯の下に寄り合い一箱のたばこ分け合いぬ旅の名残に
その頃私はタバコを吸っていた。30年前にやめたのだが、山の煙草の美味しさが忘れられず、山に来ると苦しかったものだ。

この夏の黒百合ヒュッテでも忘れられない人との出会いがあった。「今はもう行かないが、かつて越後三山のパトロールをやっていました」と自己紹介してくれたのです。歳は60位でしょうか。
越後駒ケ岳、中岳、大水上山、丹後山から十字峡へ抜けた山行は私の三十台のハイライトのひとつだった。それについては小誌「1974 利根の源流の雪田へ」でとりあげた。その懐かしい山を歩いていた人と出会ったということで、私はすっかりうれしくなり、いろいろ尋ねたり、記憶を確認したりした。その人も「よく知っていらっしゃる。」と快く応じてくれた。
私は気になった一つ、あの駒の小屋にはユニークなおやじさんがいましたがと聞いてみた。ひげだらけで怖い顔をしていながら、話してみるとあの山を愛していて、なんともうれしくなる人だった、まだ訪れる登山者も少なかった時代だった。おやじさんも人恋しかったのだろう、夜が更けるまで話が弾んだものだった。
「あの男はアル中になって管理人をやめました。山小屋で一人きりだと酒を飲むことくらいしか、やることがないので、アル中になる人はいるのです。」その人はそんなふうに話してくれた。
あの人のよさそうなひげのおやじさんがアル中にと、私は言葉が出なかった。何日も人の姿を見ないで、寂しさを紛らわすために酒を飲んでいたのだろうか。自分の人生をそんなふうに締めくくらざるを得なかった人の無残さにふれて、私は頭を垂れるばかりだった。
その人との話でもう一つ大きな収穫があった。「1974 利根の源流の雪田へ」に触れたところだが、利根川の源流のいちばん奥はハート形の雪田になっていて、その先端から滴る雫が小さな沢の流れになっている。

ところで、本庄の図書館のある古文書に次のような文章がある。
  水上町網子の古老の言
  此処から灼七里山奥、文殊嶽の中腹に文珠岩がある。大きくはないが形仏像の如く、胸部乳の如く膨れその裂け目から清水が迸り出る。古来之が利根川の源だとしてある。
その人に尋ねてみた。あの源頭の雪田が消えると、その後に水が湧く岩が姿を現すのですかと。その人は、いや雪田は雪田のままです、お話の岩はもっと下方にありますと語ってくれた。雪田と源泉の岩は別だったと知って、ああ大きな収穫だと嬉しくなった。
あそこはテントを張るのに困るほど、お花畑が広がっていたがと言うと、それは今もそのままですとの返事。私の脳裏に緩やかな斜面いっぱいに咲くハクサンイチゲの大群落が浮かんで、あの一緒に歩いた友はどうしているかなど、布団に入ってからしばらく思い出に耽ってしまった。

実はこの後、もう一つ思いがけない出会いがあった。私が理事長をつとめた岩田学園の本庄東幼稚園で学童保育を担当していたkさんが山好きだと知っていろいろ話した。あるとき、小出市出身だと知って、越後駒ケ岳といういい山がある、山小屋のおやじさんが魅力的な男でと語り始めたところ、いきなり「ろくさんでしょう」との返事。びっくりした私がだんだんに尋ねて分かったことは、彼女が高校時代山岳部で、越後駒はベースグラウンドだった、六さんとも親しく、亡くなったときは山小屋でお別れ会をやったということだった。驚きの連続で、最後にあのひげおやじさんがなくなったことを知って言葉が出なくなったことを覚えている。
 美しい山とそこに生きた一人の男、その話を二人の人から聞いた、偶然とはいえ何か素通りできない思いがする。
 
翌日、妻と東天狗・西天狗に登った。展望も素晴らしく、硫黄岳の爆裂火口はいつ見ても凄まじい。その向こうに2899mの主峰赤岳が聳えている。写真は黒百合ヒュッテ上より東天狗と西天狗。この3月に訪れて、猛烈な吹雪のために山頂まで30分の地点まで来ながら引き返さざるを得なかったのがうそのようだった。この山行、特に夜の語らいがこの夏の収穫のひとつとして残ったことだった。

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1977.07.26-08.01 夏山合宿 南アルプス

山岳部、登山部、登山愛好会と32年間顧問をしてきて、こんなことがあるんだという経験をした今年の夏山合宿だった。ここに記録しておきたい。
予定は、南アルプス玄関口の広河原から大樺沢(おおかんばさわ)を詰めて北岳稜線に出、北岳ー間の岳-北荒川ー塩見岳-烏帽子岳ー小河内ー三伏峠-塩川小屋の6泊7日の山行だった。
1977.07.26
1日目は予定通りに広河原についた。

1977.07.27
2日目いよいよ2900mの北岳稜線に出る1400mの高低差を詰める。04:35幕営地発。20分後雪渓の末端に着いて一息入れ、よし行こうと立ち上がった途端Hが悲鳴を上げた。ぎっくり腰に襲われたのだ。皆の顔に緊張が走る。こうなったらもう歩けない。共同装備・食料20キロを10人で分けなければならない。私はこれからの長いルートを考えて、このまま帰宅させることとした。一人で帰れるか。顧問一人がせめて甲府までは同行しなければなるまい。甲府でその先ひとりで動けるかどうかを判断しよう、そう決めて私が同行することとした。甲府から一人で帰れれば、私は列車で反対側から逆コースをとり、塩見岳の頂上で合流することとしよう、そう決めてHと私は皆と別れることとした。私の共同装備のラジウスや食料も渡さなければならない。皆の荷物は40キロを越えることになった。
Hと私はそこから広河原ロッジに戻り、夜叉神峠越えルートが不通であることを確認し、タクシーで身延に出、列車で甲府へ。一人で動けることを確認して別れる。そのまま中央線で辰野で一泊。現役は北岳稜線に着いたろうか。

1977.07.28
翌28日列車で伊奈大島へ。そこからバスで07:20奥沢井(樺沢)へ。ここから山道の登りが始まる。三伏峠に12:00。塩見岳が見える(スケッチ1)。三伏小屋に12:40、避難小屋なのだろうか無料で泊まれる。残念なのはラジウスがないこと、予備食のアルファ米を水でふやかし、コンビーフで食べるしかない。現役は北岳を往復し、北荒川に幕営しているはず。スケッチ1は三伏峠からの塩見岳。
1977.07.29
29日。三伏小屋05:30発塩見岳頂上に08:30着。前回来た時、北荒川から塩見頂上まで1時間40分で来ている。もしや先に来ているのではと期待したが空しかった。それどころか待っても待っても現れない。迎えに行こうかと思ったが、アタックザックで来てしまったため何かあったら対応できない。スケッチしながら4時間待って、今日はもう来ないと判断して三伏小屋に戻る。スケッチ2は待ちくたびれた塩見岳頂上より雲に隠れる仙丈岳・甲斐駒ヶ岳・北岳‣間の岳・農鳥岳。スケッチ3は塩見岳直下の天狗岩。
一日2食に切り詰めた夕食はさらにわびしいものとなる。最後のアルファ米は一回で食べるのは危険だ。半分食べて残りは翌日にまわす。非常食のチーズを食べるともう何も残らない。わずかに残ったぶどうをアルファ米にまぶして食べた
1977.07.30
30日。アルファ米は手つかずに残して、再び塩見岳へ。今日会えなかったら最後の手段、20分登って三伏峠小屋に逃げ込むしかない。そうしたら多分もう会えないだろう。空腹をかかえて本谷山、権右衛門山のトラバースルートを通って頂上に着く。2時間ほど待った時、いきなり懷かしい顔がいくつもあらわれた。テントはまだ北荒川なのだが、もう一人の顧問新井氏が岩田先生が塩見の頂上にきっと来ている、行って来いというので来てみたとのこと。私はひとりから非常食をもらって安心して別れた。
15時過ぎ、三伏小屋にいた私の耳に1キロ先の本谷山中腹辺りから「イワタセンセ―イ」という合唱が聞こえた。ほかの登山者がいるので大声で答えるわけにいかない。次第に合唱が近づいてようやく合流することができた。夕食が美味かったのは言うまでもない。

1977.07.31
31日。山中最終日。アタックザックですぐ南の烏帽子岳と小河内岳に出かける。お花畑が美しく、なにより谷を隔てた塩見岳の秀麗な姿に見とれてしまう(スケッチ4)。


下のスケッチは反対側の小河内を越えて荒川三山を遠望したもの。

三伏小屋幕営地に戻ってテントを撤収してバス停のある塩川小屋まで下って幕営。明日はもう歩かない。大変な夏山だった。

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1991.06.08‐09 夏山トレーニング山行 留夫山・鼻曲山 

1991.06.08
本庄から見る浅間山は美しい。特に雪で白く輝く姿は惹きつけるものがある。それは手前に一の字山(1337m)・留夫山(1591m)・鼻曲山(1654m)が横たわっていてその上にそびえたっているという感があるからというのも理由の一つかもしれぬ。特に国道17号が小島の坂を上がるとき、正面に聳える浅間の姿は圧巻だ。
私はその浅間を自分の山と呼んでいる。自分だけのという意味でないことは言うまでもない。その浅間の手前にある山を歩くのがこの年までなかったというのは不思議なことのように思える。いつでもいけるという気持ちだったのかもしれぬ。
このうち鼻曲山だけは何度も登った。はじめては中学三年の時だ。私に山を教えてくれた町田瑞穂氏に連れられて仲間たちと出かけた山だったのだが、今思うと氏との出会いは奇跡的だったとすら思う。
その時は草軽鉄道がまだ走っていた。貨車に積んだ木材の上に腰を下ろして、急カーブのたびに振り落とされないよう材木にしがみついたの覚えている。駅は何という名だったか記憶にない。鼻曲といったのだろうか。夢の中のような情景だ。
下りは霧積み温泉に出た。10名以上いる仲間のうち2・3名で走って下った。いくら下っても同じような笹の道で、狐に化かされているかもしれないと、ササを目印にちぎって登山道の中央に置きながら下った。横川駅に出る手前、碓氷川に入って水を浴びた。冷たさを覚えている。

今でも登り口の霧積み温泉にはあの頃と同じように大きな水車が回っている。のちに私の好きな河合玉堂の「彩雨」を見たとき、あこれは霧積み温泉だと思ってしまった。自然は芸術を模倣するなどというと大げさになるが、私にとって鼻曲山は霧積み温泉と切り離せない山となった。写真は70年前の霧積み温泉(今の金湯館)の水車、右端が私の山の師匠の町田瑞穂氏である。
次に、留夫山について。この名前は素通りできない。万葉集の次の歌から生まれた名であろう。万葉集の歌が何とか読めるようになったのは、鎌倉時代の仙覚以降と考えられ、とすれば留夫山という名称もそれ以後名づけられたものだろう。当時の東山道は一の字山を越えたと思われるが、一の字山と留夫山は一つの山と受け止められていたのだろうか。
  日の暮に碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ(巻十四3402)
夕刻は魂の動く時刻と考えられた。夫が自分に向かってはっきりと袖を振っている。袖を振るというのは魂の交感を求める行為だった。これは次の歌とペアをなしたものと考えられ、とすれば再会を期しがたい当時の状況の中で、残された妻が夫を何とか留めようと歌ったものとなる。
  ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも(巻二十4407)
これははっきり防人歌である。
大和政権がなぜ東国の農民を防人として動員したか。東国の農民が勇敢だったからと説く見方があるが、東国の農民が武勇に優れていたという実績があるわけではない。蝦夷討伐に東国農民が動員されたであろうが、之は地理的関係からであろう。私は言葉も通じない辺境に配置することで、逃亡を防ぐ狙いが強かったと考えている。故郷が恋しく逃亡する農民も多かったが、故郷にまでたどり着いた農夫はほんのわずかだった。万葉集に行き倒れになった死人をうたった歌が収められている。
なお、私の持つ五万分の一の「軽井沢」の地図は3枚あるのだが、昭和27(1952)年版、昭和35(1960)年版には留夫山の名称はなく、昭和54(1979)年版になって初めて表記されている。まさかそれまで山の名がなかったというわけではなかろうが。
ちなみに、この2首の歌は峠の展望台にとんでもない解説とともに立っている。どんな意図でその解説がなされたかを憶測するのは楽しい。

その鼻曲山を目指して一の字山、留夫山から登ろう、と熊女登山部の夏山トレーニング山行の目的地として提案し実現することとなった。

1991.06.09
軽井沢にはキャンプサイトがなく、沓掛(中軽井沢)近くにまで行ってテントを張った。

梅雨の前、爽やかに晴れて、碓氷の展望台までタクシー。緩やかな登りで一の字・留夫を過ぎて一度下ってまた登ると鼻曲だ。気持ち良い風に吹かれて部員をカメラに収める。浅間の雄大な姿を楽しんで、下りは長日向へ出た。スケッチは鼻曲山頂より浅間山。

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1980 上野原高原の水芭蕉群落


上野原高原は熊高山岳部の冬山合宿でなじみの場所だった。上州武尊山の雪の中で普通5泊して下山し、最終日は上野原山の家でスキーを借り、高原をスキーで横切って湯の小屋に下って、湯の小屋の露天風呂に浸かって疲れを癒すというぜいたくな一日が待っていた。露天風呂は湯の小屋から50mほど離れた場所にあって、その頃は解放されていて自由に入ることができた。河原に面して石で囲われただけの風呂で、熱い湯が豊富で、すぐ横の積もった雪を搔き入れて入ったりした。
何年か経つと露天だったところに屋根ができ、無料だった入浴が50円⁽?)だったか有料になったと記憶する。そのうち沖武尊の肩の天場から午前中に上野原まで下りてきた年は、そのままバス停まで直行して帰ってしまったりして、湯の小屋までいくことがなくなってしまった。顧問が年末の雑事に忙しくなってということがあったのかもしれない。あるいは、上野原がゴルフ場やスキー場ができてなんだか他人の敷地に入り込むような場所になったりしたことも理由の一つになったか。


そんな頃、偶然湯の小屋から上の原を訪れて、小さな湿地に水芭蕉が咲いているのを発見したことがあり、翌年の1980年04月4・5日に家族で出かけた。湯の小屋のかやぶき屋根の旅館に泊まりたかったのだが、寒くてだめですと言われ、新しい別棟に案内された。翌日、上野原高原はまだ雪が残っていたが、目指す湿原は澄んだ水が流れ暖かな陽射しが満ちていた。何よりうれしかったのは、水芭蕉が昨年以上にいっぱいに咲いていて、しかも尾瀬のように巨大でなく、楚々とした感じでひろがっていることだった。訪れる人もほとんどなく、ひっそりと春の息吹を伝えていた。我々家族は先を急ぐ旅ではなく。ゆっくりと水芭蕉と一緒の時を過ごした。

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