1974.08.07-10 利根の源流の雪田へ

私の父は釣りが好きで、私は小学校低学年の頃父に連れられてよく利根川に出かけた。夕暮時になると瀬音が大きくなるように感じられて、子ども心に心細さを感じたことを思い出す。父は釣りが終わると、私に泳ぎを教えてくれた。20mほど下流にいる父の所まで顔を上げずに泳いでいく。利根川に親しむ原点となったものでもあった。
少年期の私たちにとっても、利根川は遊びの場の延長だった。利根川を泳いで下れるというのは、自分に一つの自信を与えてくれることであり、餓鬼大将に率いられて遊ぶ一団の中でグレードを一つ上げる証でもあった。夏休み明けにクラス仲間の間で、利根川の本流を泳ぎ渡ったというのは讃嘆の対象になった。
ただ私の泳ぎは抜き手と平泳ぎだけだった。高校の水泳大会のクラス全員のリレーでわたしだけがクロールができず抜き手で泳いで目立ってしまった。利根の激しい波を横切るのにクロールの息継ぎは適さない。また平泳ぎで浮いているだけで100mでも200mでも運ばれる利根本流の感覚が身についているわたしにとって、プールの動かない水の中を進むのは疲れるだけだった。
利根の本流の手前半分は烏川・神流川の水で、半分過ぎると途端に水が冷たくなり、透明度も増し、細かい泡が混じっていて、飲んでも美味かった。数年後、日本が復興し始めると上流の工業排水が問題になったり、水難事故が起こったりして、小中学校では利根川で泳ぐことを禁止した。
私はいい時期を過ごしたといえる。

そんな私が、後年山へのあこがれを知るようになった時、利根の川原から上信越の山々を眺めて、この川の水源に立ってみたいと思うようになったのは、必然的なものがあったのだろう。私に山へのあこがれを教えてくれた町田瑞穂氏はやはり利根川の源流に惹かれたようで、まだ八木沢ダムができる前、谷川をワイヤーで吊ったモッコで対岸に渡ったという話をしてくれたことがある。沢登りの技術を持たない私は、群馬側から水源にたどり着くことを諦め、新潟側からを選んだ。
利根川の源流を抱く山は大水上山という。越後三山のうち越後駒ケ岳、中ノ岳と辿り、八海山を右に見送ってそのまま南下すると兎岳があり、其の900m先の平坦部が大水上山だ。頂上から東南に平ヶ岳へのルートが延びているが、今回はそのまま南下して丹後山で稜線に別れて十字峡に下ると其の先にバスの終点に着く。そこから六日町に出られる。2泊3日の行程だ。相棒には大雪ー十勝を一緒に歩いた新井氏を語らった。1枚目のスケッチは、二日目雨上がりの越後駒の小屋と駒ケ岳。緑が何とも言えず美しかった。

1974.08.07
本庄06:45-小出09:10/45-枝折峠10:30/11:00-小倉山-駒の小屋15:30
小出から銀山湖への道は今立派な墜道ができている。たぶん冬の雪や春先の雪崩を避けるためのものだろう。その道は銀山湖の縁を縫って延々と尾瀬御池まで延びている。途中に平ヶ岳への登山口がある。私が行った時はまだその道は出来ていなくて、今旧道と言っている道だった。未舗装でバスが急カーブすると、乗っている我々の席は道からはみ出して深い谷の上に出てしまうようなスリル満点の道だった。枝折峠に停留所があった。いま車道は枝折峠の下を走っている。
枝折峠の枝折とはいい名だ。平家の落人がこの山に入ったとき、枝を折りながら帰りの道しるべにしたとかいう説を読んだ氣がする。新しい山に入る時の緊張感が伝わってくるようだ。私が共感したくなるような感情である。
登山道は緩やかなブッシュの道で、小倉山を過ぎてしばらくすると急登になった。駒の小屋について幕営の準備にかかった時、怪しかった天気が一気に夕立となった。激しい雨と雷鳴に見舞われて、我々は駒の小屋に逃げ込んだ。顔中髭だらけのおやじさんがいて、はじめこわかった。我々より先にテントを張った登山者が食事の殘りを土中に埋めたと言ったのに対し、「山を破壊する気か。お前らに山に来る資格はない。」と怒鳴ってきたと我々に話した。しばらくして登山者は「済みませんでした。私たちは帰ります。」と言って山を下りて行った。彼はきちんと後始末をしたというつもりで報告したことが、間違った処理だと言われてショックだったのだろう。ちょっと気の毒ではあった。
怖い感じのおやじさんは話し好きだった。その日、登山者は我々二人だけだったこともあって、我々の歩くルートを細かく説明してくれた。中の岳へのルートは1キロ1時間以上かかる厳しいものだ、向こうからここにたどり着いた男がいて、藪を漕いだ結果ターザンのようにぼろぼろの姿で現れたよなどと語り、我々をひるませたりした。酒を酌み交わしながら夜が更けていって、明日いっぱい歩かねばならないのにと私たちは心配になるようだった。

1974.08.08
夕立の雨は翌朝になっても止まず、我々は出発できなかった。しばらくして止んだがその後は濃い霧で視界はきかず、その日は停滞と決める。昼近くなってせめて少しでもと標高差100mの駒ケ岳(2002m)まで往復した。何も見えなかった。
夕刻になってガスが晴れた。平ヶ岳とその向こうに尾瀬の燧、至仏、笠、会津駒が、左遠くに守門、浅草、眼前に荒沢岳と目の下に銀山湖が全部姿を現し、我々を感動させた。時間に追われるようにしてスケッチする。中央の平らな頂上が平ヶ岳、左が尾瀬燧ケ岳、右が至仏山だ。
夜髭のおやじさんとまた話す。おやじさんは「この山が好きだ。このまま静かな山、美しい山として残したい。」と語って、我々をしんみりさせた。

1974.08.09
おやじさんに別れを告げ出発。おやじさんの言葉でかなり緊張を強いられたが、天気も良く気分的に楽に歩けた。ただ駒ケ岳からの下りがきつい。檜廊下あたりだったろうか、灌木の根につかまりながら下る所には「短足泣かせ」などと書いた札が吊るされているところがあったりして、わらってしまうこともあった。多分逆コースの登山者向けのエールだったのだろう。たしかに中の岳から来る登山者は途方に暮れるようなルートかもしれない。我々は今日殆ど急登である中の岳へ の登りもそれほど苦しまずに済んだ。
中の岳(2085m)で昼食。駒ケ岳からの尾根の緑、平ヶ岳へと続く南の尾根の緑、ともに美しく誰にも会わない山は我々だけのもののような気持にさせて我々を幸福感でいっぱいにさせてくれた。
ここで八海山に延びる尾根を西に見下ろしながら別れて、南に兎岳を目指す。ほとんど下りで、小兎岳、兎岳(1925m)も5、60mの僅かな登りだ。そのままさらに100m下ると今回の目的地大水上山(1830m)に到着。13時15分。

辺りは一面のお花畑で天上の楽園そのもの。なだらかに下る斜面に雪田がある。ハート形の雪田の裾から水がしたたり落ちていて、谷に向かって流れていく。利根の源流に今私は立った。その喜びが身体の奥から突き上げてきて、わたしは言葉が出なかった。広々としたお花畑はハクサンイチゲとシナノキンバイで埋め尽くされて、腰を下ろすのに避けようがない。ごめんよといいながら花の中に寝そべって空を仰ぐ。私は長い間うごけなかった。1時間もそのまま時が流れた。
やっとのことで立ち上がった我々はほとんど平坦な尾根を丹後山までたどり、お花畑の中にテントを張った。1808mの頂上ともいえぬ頂上は今回の山行の最後を祝福してくれるように、静かで他に誰もいない世界に我々をいだきとどめてくれた。

1974.08.10
丹後山幕営地06:20-栃木平10:00-十字峡10:30-野中11:30-六日町12:10~37-本庄14:35
今日は十字峡まで1300mを一気に下る日だ。三国(さぐり)川の源流だというのもうれしい。山菜摘みで馴染み深い川だ。三国川が西から東へ。そこへ北から黑又沢が、南から下津川が直角に流れ込んで十字を造っている。
越後澤山(1860m)へ向かう稜線に別れを告げ、正面に阿寺山を見ながら急降下、栃木平で橋を渡り三国川左岸へ。ここまで來れば十字峡は近い。十字峡は深い谷の底だ。よくこんな地形が生まれたと自然の造形に感心する。そこからさらに1時間歩いて野中の集落へ。行動はここまで。バスが待っていて六日町へ。憧れの利根の源流に立った感動を抱えて山行が終る。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2013.03.08 カモシカは私を覚えている 

ようやく雪山に出かけることができた。しばらく寒さが続いたので、雪が深いのではと覚悟して出かけたのだが、登山口からしばらくは溶けた雪が凍っていて、脇の雪を踏んでいかないとならないほどで、このところ降っていないようだった。
昨年末の肺炎後初めての山なのでうれしくてたまらない。ただ退院後1ヶ月で体重が7キロも減って(今は少し回復してきている)、体力に不安があり、ゆっくりと歩を進めた。天気は快晴無風、ミズナラの木立越しに澄んだ青空が広がり、雪山が輝いている。
いつもより少し時間がかかって稜線に出た。前回深雪に落ち込んで、ワカンのベルトが切れた近くだ。眩しく雪原が広がって、人影はない。今日は誰にも会わないままになりそうだと思うと、浦松佐美太郎の『たった一人の山』が浮かんだが、それと別の期待が抑えられない。前回私を導いて救ってくれたカモシカに逢えるのではないかという期待だ。あの時は足跡だけだった。でもあの時どこかから私を見ていて、最後に見かねて私を導いてくれたなら、今日もどこかにいてこちらを見ているはずという、確信のようなものが、次第に強くなってくる。
雪原の周囲は丈の低い松の疎林になっていて、そこに目を凝らしたのだが発見できない。確信は願望でしかなかったかと諦めて、最後の登りにかかろうと歩き始めて疎林に入ったときだ。左手の木立の奥、30mのところにちらと動く影が見えた。動悸が高鳴った。カモシカだ。目で追うとこちらへ出てくるではないか。しかも登山道の先7~8mのところで立ち止まってこちらをじっと見ている。あ、前と同じだと、私は興奮した。3年前、谷間で独活をとっていた私の横から飛び出してきたカモシカが、登山道に立ち止まって、「わたしを見て」とでもいうように、全身を見せたまましばらく動かずに私を見つめていたことがあった。その時とそっくりだ。しかも前回はしばらくしてゆっくりと歩いて姿を消していったのに、今回はいつまでも動かない。その眼差しはなんとも人懐かしそうで、「しばらくね」とでも言いたそうなのだ。私も動かなかった。というより、カメラを構えたりするとカモシカが逃げてしまうのではないかと恐れて、身動きできなかったという方があたっている。私たちはしばらく心の会話を楽しんだ。「昨年私を助けてくれたのも君だったのだろうか」などと問いかけたりした。

やがてカモシカはゆっくりと後ろを向いて登り始めた。とおもうとすぐ私を振り返って、「来て」というしぐさ。私はあわてて後を追うのだが、雪に足をとられてよろめいてしまう。「どうしたの」というしぐさで振り返りながら進む彼女のあとを追って、40~50mも歩いただろうか。今度は声に出して「おーい」とか「待ってくれ」とか呼びかけたのだが、立ち止まってくれない。距離が縮まらないので、初めてカメラに残さなければという意識が出てきて、何度かシャッターを押した。振り向いたときの姿が1枚も撮れなかったのがなんとも悔しい。ある一枚には逞しいおしりが映っている。
昨年と同じように、カモシカはかすかに残るトレースを辿ったので、私はほとんど新雪に落ち込まずに済んだのだが、もたもたしている私に業を煮やしたのか、あと少しで頂上というところで、ふっと右へ折れ、ブッシュの中に入っていった。あわてて右に折れ新雪に踏み込んでしまい、動きがとれなくなった私が目で追うと、落葉松の枝に首の辺りをこすり付けてから、ゆっくりと斜面をトラバースして姿を消してしまった。その後姿に、「いっしょに遊べないんじゃつまらない」とでも言っている様子がうかがえて、私は見捨てられたような寂しさに襲われた。
それにしても不思議な体験だった。カモシカの動きが前回とダブっていたばかりか、カモシカ自身が同じ個体であるように思えたのだ。昨年谷間で出逢った親子連れのカモシカは、このカモシカのような親しさを感じさせる目で私を見なかった。身じろぎもせずこちらをうかがった後、まず子どもを先に後方へ逃がしたあと、自分も足早にそれに続いて消えて行った。今日のカモシカはそれと違う。私に心を許して、私をいざなってさえくれた。私が一人歩く姿をどこかで見ていて、どこか惹かれるものがあるかのように、私の前に姿を現してくれた。どう考えても、私を知っているとしか思えない。毎年何度か訪れる私を覚えてくれているのではないか。そして私が危ないときは、さりげなく救いの手を伸べてくれ、今日のようにこの広い山域で、私を見つけて会いにきてくれる。それはもう友だちの関係ではないか。わたしは私の山と思える山に、私だけに関わってくれるカモシカがいるということに有頂天になって、心満ちて、山頂でビールを飲み、コーヒーをいれて至福の時間を味わった。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2011.03.03 カモシカが私を助けてくれた

ようやく念願の雪山に出かけることができた。最大の行事の音楽遊戯会の前日、担任はもうグロッキーになる一歩手前であろう。申し訳ないような気分もあったが、この機を逃すとまたいつになるかという気持ちのほうが強く、あえて出かけた。前日の夕刻から西風が強まり心配ではあったが、当日は低気圧が東に抜けるとのことだった。
終わっての感想は、うれしかった、そして疲れた・・だった。こんなに疲れたのはここ11年来なかったことだ。ひとつには、メインルートでないルートを選んだこと、もう一つはそれに雪が深かったこと、この二つが原因だ。ということであれば、自分の選択の結果であるから文句を言うつもりはない。
登山口から雪だった。次第に高度をあげ、ダイレクトコースと巻道の分岐でワカンをつけ、巻道に入った。ピッケルは大型リングを装着したのだが、新雪では役に立たない。


谷道から広い尾根に出たのだが、この広さがくせものだった。1mの雪に覆われた尾根道はブッシュを埋めてしまって、登山道が全く分からなくなってしまって、先の谷に降りる下降点が分からない。谷を隔てた向こうにこれから目指すピークがそびえ、無雪期であれば何ということもないのに、今日は気が遠くなるほどかなたに見える。
谷に落ち込むふちを行ったり来たりして、ようやく下に下るルートを発見し、安堵して辿ったのだが、谷から向こう側の尾根に向かうルートがまた分からない。じっとみていると、わずかに雪がくぼんでいる箇所がみつかり、ルートであろうと見当をつける。その先雪はさらに深くなり、登り斜面では腰まで落ちてしまうところもでてきた。ピッケルを横たえて体重をかけ雪面に這い上がると、息が切れて動けない。ここまできてかなり疲労感を覚えてきた。


これで先へ進めるだろうか、引き返す勇気が必要なのではと、不安に駆られ始めて、それでもルートを探ると、かすかにルートらしいものが見え、目を凝らすとどうやら足跡さえついているようだ。頂上から下ってきた登山者が、ここまで来て雪の深さに辟易して戻ったのだろうか。救われた思いで近づくと、なんとカモシカの足跡なのだ。真新しい足跡で、私の進む方向に向かっている。しかもその小さな足跡に恐る恐る靴を載せてみると、しっかり受け止めてくれてずぼっと落ち込まない。
いったいこれはどうしたことだろう、二つに割れたひづめのあとを眺めながら考えてしまった。私には見えない登山道の上を辿れば深雪に落ち込むことがないということを知っているからであろうか。これは理屈だ。私の心の中では、カモシカがどこかからじっと私を見ていて、もう限界だと察した彼(女)は、私を先導してくれたのだ。そのカモシカは、夏の初めに出会って心を通わせあったあのカモシカかもしれない。それまで足跡など見つからなかったのに、急に現れたのは私を助けようとしたからではないか。そこに動物の意思を見ることは間違っているだろうか。
この足跡を踏んでいってみよう、それがカモシカの心に応えることだ、私を助けてくれ、そんな気持ちで息をあえがせながらついていった。不思議なことに、ちょっとずれるとワカンの足がもぐってしまうのに、足跡の上に足を置くとしっかり跳ね返してくれる。

それはなんとも言えない心楽しい時間だった。稜線まであと少しあと少しと足を運んだ。ようやく稜線に出てそのままカモシカは稜線を向こう側へ降りていくようだ。もういいだろうと言いたげな足跡だ。私はありがとうさよならを言って、メインルートとの合流点を目指しました。
合流地点についたとたん、またズボッと足が落ちこんだ。引き上げるときワカンが外れて、え?と思ったら、ワカンのベルトが切れているのを発見した。ぞっとした。もしあと30分前だったら、ここまで来られなかったかもしれないからだ。私は何かに守られている。それはカモシカかもしれない。こんな考えが山に対する慢心となってはいけないと思いながら、夏に出会ったカモシカの目を思い浮かべて、午後の遅い時間の日差しを浴びて、ビールを飲み、サンドイッチを頬張った。
時間はもうこの先へいくだけのゆとりはない。いつもは3時間ほどで頂上へつくのに、今日はここまでに5時間かかっている。これから下っても登山口に着くのは日没後になるだろう、このまま下ろう、山はいつもあるのだからと、自分に言い聞かせて、下山することとした。下り始めて15分、落ち葉の下の雪が凍っていて、足を滑らせ、いやというほど尾テイ骨をうった。そっと歩いておりたが、心は今回も充実感に満たされていた。それにしてもくたびれた山行ではあった。

この項は、前著『幼な子とともに歩んで』収録のものを収めたものである。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

2010.06.07 カモシカにみつめられて

梅雨に入る前の一日、またいつもの山にでかけた。昨年辿ったルートを逆方向からと思ったのが、少し甘かったようだ。そのかわり、もう二度と起こらないだろうと思われるような体験をした。それを記録に残しておきたい。
登山口は新緑のただ中だった。ミズナラの白みがかった緑は、いかにもこれから生命を燃やしていく予告のようで、その中を歩くと、息を吸い込むたびに生命の息吹が身体いっぱいになってくるように思える。
その林の下草の中に、レンゲツツジが咲き誇っている。私の好きな植生で、今年も会えたとうれしくなる花だ。登るにつれてそれが次第に蕾がちになり、やがて蕾だけになり、蕾さえまだ膨らまないところまで来ると、代わりにイワカガミが絢爛とした姿を見せ、なかなか道がはかどらない。
ところが、谷に入ってタラノメを見つけてうれしくなっているうちはよかったのだが、そのうち状況が一変した。昨年のまま、あるいは今年の新たな雪解けが伏流になったのだろうか、ルートが1~2メートル陥没していて、行く手が垂直な崖になってしまっているところが何箇所も現れてきたのだ。初めのうちは、高巻きをして登れたものの、ついに、両岸も切り立っていて、ずっと手前まで戻らないと高巻きできない場所に出てしまった。昨年逆コースを辿ったときは、かなり緊張し、構えていたのだが、今日は、そこまでの覚悟をしていない。ま、今日はここまででいいかと日和ってしまった。そのぶんゆっくりしていこうと、乾いた枯れ草の上に寝転んでビールを飲み、コーヒーを沸かしてサンドウィッチを頬張り、青空をバックにダケカンバの若葉が光るのを眺めて、それはそれなりに楽しい時間ではあった。
思いもよらぬことが起きたのは、そのすぐあと。さてと身を起こし、ガスカートリッジ、コッヘル等をザックに戻して、背負って歩き出したとたん、太くて短い、りっぱな独活が目に入った。思わず背負ったばかりのザックを下ろしてナイフを取り出そうとしたちょうどそのとき、後ろのブッシュが大きな音を立て、次の瞬間黒い影が飛び出してきたのだ。
「熊!」と恐怖に駆られてピッケルを手にしようとして、すぐ横を駆け抜けていく姿が目の隅に入ったら、それはカモシカだった。四、五メートル先のブッシュに飛び込んだカモシカは、こちらを向いて立ち止まっている。カモシカの寒立ちというのを聞いたことがあるが、まさかそれではあるまい。
じっとこちらを見ていたカモシカは、次にブッシュの中を横切って、さきほど私が横になっていた草地に出てた。そして、よく見てくれと言わんばかりに、全身をこちらにさらしたまま、またじっとこちらを見るのだ。その目つきはなんとも人懐かしそうで、思わずこっちへおいでと言いたくなるような優しいものだった。なんだか私はあんたを知っているよとでも言いたそうな目なのだ。近づきたくなる気持ちを抑えて、カメラを取り出し、何枚か撮ったのだが、それが終わるのを待ってとでもいうように、ゆっくりと谷を横切って消えていった。
私はしばらく呆然としてしまっていた。それから、こちらをまったく警戒していないあの目つきは何だったのだろうと考え始めて、はっとした。もしかして、何年か前に私の前に飛び出したあのカモシカだったのではないかという思いが湧いたのだ。
その日、雪の斜面をキックステップで登っていたときのこと。クロフと名づけた黒毛の柴犬と一緒だった。クロフとは、浅間山外輪山の名をとったものだ。そのころは、犬を山に入れると生態系が壊されるということまでまだ認識していなかった。山の楽しさを愛犬にも味わせたいという気持ちからよく連れて行った。もうすぐ稜線というところまで来たとき、いきなりクロフが激しく吠え始めた。はっとして辺りを見たとたん、ブッシュの中から何か大きなものが飛び出して、私の目の前1メートルのところを右から左へ走りすぎていった。あまりに近すぎてと言うか、速すぎて、何なのか確認もできないほどだった。ぴゅーぴゅーと言う鳴き声が耳に残った。びっくりした私の視線が、尾根を越えて消える瞬間のカモシカの姿を捉えた。
そのカモシカが私を覚えていたのではないか。私が心を許せる種類の人間であることを知っていたのではないか。そうでなければ、私をブッシュの中から見ていて、わざわざ跳びだしてきたりするだろうか。いやいやそんな人間くさいことはありえまいと否定するのだが、そうであってほしいという願望のほうが強くなるのを抑えられない。
それにしても不思議なのは、前回も今回も、飛び出してきて私の1メートル前を横切っている点だ。普通なら逆方向へ逃げるのが安全なのに、なぜだろう。何年か前、『ダンス ウイズ ウルヴズ』という映画をみた。アメリカ先住民を、ブルーソルジャーズが殺戮していく話なのだが、その中におおかみと主人公が心を通わせる話が出てくる。カモシカとの間にもありうるのではないかと、山を下りながらそんな思いが頭の中をいっぱいにして、なんだか次元の違う世界にいたような一日となった。忘れられない経験である。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時:

1995.08.10-13 早池峰山

思い入れの深い山ほど訪れるのは後になる。人は死んだら魂は早池峰山に登ると遠野の人は考えた。大江健三郎の故郷の人たちも同じように考えた。死者の魂の登る山、柳田国男の紹介する『遠野物語』の世界は私にとって一度は訪れねばならぬ場所である。
現在の歴史は文字による記録によって作られている。文字を扱うのは特権階級でありその歴史は特権階級によりとらえられた歴史である。しかし歴史の主体は常民であり、その姿を明らかにする必要がある。口承文芸、民具、生活様式その他、文字による記録でない資料による歴史学の構築が必要である。柳田国男の民俗学はそういう骨格を持つ。何とも魅力的な学問である。その柳田民俗学の聖地である遠野市を訪れたいという灯はずっと私の心にともり続けてきた。
それだけに遠野の町から入るルートをと思いつつも、現在の早池峰登山ルートは山頂直下を通る車道を利用するようになっており、せめて下山路で遠野の町に近づいていこうと考えた。『遠野物語』を読んでからどれだけの歳月が流れたか。今年ようやく早池峰山行が実現する。出発一週間前まで飼い犬のアサマをどうするかについて迷い、いっそ車でつれていこうかとも思ったが、息子たちが引き受けてくれることとなり、おかげで新幹線山行となった。

1995.08.10
本庄07:47=大宮08:51~09:26=新花巻12:12~13:20=(タクシー)=河原坊14:10
新花巻駅は野中の駅。わずかに駅前広場を越えて一軒のみ売店・レストランあり。ビールとカツ丼で昼食を取り、タクシーで早池峰へ。500ccポリタンを忘れて、水は1.8ℓのみ。ビバークには心許ない。途中大迫町で肉を購入。パックの半分を売ってくれた。タクシー運転手によると、昨日は激しい嵐だったとのこと。今日も早池峰連峰はガスの中で顔を見せず。河原坊の自然センターは清潔で美しい建物だ。幕営料なし。今どき珍しい。天場には4~5張りあれど、皆マイカーで来た人たちのようだ。幕営地ゆえビールくらい売っているだろうとの予測は外れて何もなし。これも却って快し。夜雨断続的に降る。

1995.08.11
河原坊6:15ー小田越6:55~7:00ー御門口7:40~50ー竜が馬場8:30~45ー早池峰山頂10:05~40ー中岳手前ピーク12:00~40ー中岳12:50ー1415ピーク手前(ビバーク)14:30
明け方雨は止んだが一面ガスの中。出発時やや青空が頭上に見え始める。期待を込めて出発。見渡す限りブナの原生林が見事だ。小田越まで標高差190mの舗装道路。ゆったりした登り道だが、早く山道に入りたいと妻は不満そう。途中休んだ場所のすぐ先が小田越だった。山自体をご神体とするしるしの鳥居を入れて写真撮影する。ちょうど7時だ。そのまま登りにかかる。初めはシラビソの樹林帯、但し丈は高くない。ワンピッチで休んだすぐ上が森林限界だった。大きな石の背を踏んで登る。ガスの中目の下に薬師岳の下半分が大きい。
登るにつれて前方に岩壁が城塞のように迫るのが望まれる。五万図の等高線が極端に混んだあたりとなる。前後して家族連れが登っており、長老が少女に花の名を教えながら歩いている。ミヤマシャジン、タカネナデシコ,ナンブトラのオ等お花畑が美しい。次第に急な登りとなり、妻も苦しそうだ。最後,鉄梯子を登ればすぐ稜線に飛び出す。のんびり辿って行けば、岩場の上に避難小屋と社があり1914mの頂上だ。避難小屋は頑丈で清潔。中に先客十数名あり。外でのんびり休んで出発する。すぐ左に河原坊への急な下りを分ける。岩場を辿るあたりにハヤチネウスユキソウ、ヨツバシオガマ、さらにハクサンシャクナゲが美しく咲き乱れる。ハイマツの広がる気持ちよい平原という感じだ。
晴れていれば右手は緩やかな山なみが見渡せるはずなのにと残念だ。五万図にも「早池峰山の高山帯・森林植物群落」とあり、「早池峰自然環境保全地域」とある。一度来てすべてを堪能しようというのが欲張りなのかもしれない。
しかし下りが急になると状況が一変する。岩場の登降の連続となってなかなか進まない。地図からは読み取れない地形だ。アカトドマツの樹林帯に入り、マツボックリが鳥が止まっているように見えておもしろい。妻は不気味で恐ろしい、こういうところでビバークしたくない、避難小屋まで行きたいという。ただ次第に疲れてくる気配。中岳1679mの手前で昼食の大休止をとる。横を親子と思われる男性3名がすごいスピードで通り過ぎていく。今日のうちに下までいくつもりなのであろう。そのうち空が次第に暗くなり、そのうえ雨が降り始める。
すぐに出発して、2時間ほどなだらかに下り平坦地を見つけて天幕を設営する。水が1ℓしかなく、夕食もパン。コーヒーは1杯ずつ。何とも美味かった。夜も時々雨降る。

1985.08.12
ビバーク地6:05ー鶏頭山7:35~50ー七折瀧分岐8:20ー鶏頭山避難小屋8:45~9:10ー水場9:40~10:00ー岳バス停10:20~11:25=花巻12:40~14:15=遠野15:19
水を節約するため朝食は昨夜と同じ。ただ十分な睡眠のおかげで新たな体力を感じつつ歩く。1415m地点から明るい草原となる。空は晴れているが南側はガスの中。早池峰頂上も見えない。しかし天気が良ければ心も軽くなる。露で靴の中はびしょ濡れだが、なんなく鶏頭山頂上へ。のんびり休んだ後いよいよ急な下りへ。妻のペースが極端に落ちる。280m下りに下って鶏頭山避難小屋に到着する。造りたてのもったいないような建物だ。傾斜が緩くなる辺りからブナ・ナラの林が明るくなり、新緑の中を行くような気分で下る。903m地点の水場で最後の大休憩。水のうまさを存分に味わう。
10:20 岳部落着。薬師越えはガスの中ということで断念して、遠野へは列車でとする。早池峰山行が終る。天気がもう少し微笑んでくれていたらと、一抹の心残りあり。

投稿者:ryujiiwata 投稿日時: